第30話 役立たずのヒーロー
「ご視聴ありがとう。ご満足いただけたかな?」
マッドハッターが、帽子の上から僕たちを見下ろした。
片手を胸へ添え、芝居がかったお辞儀をする。
その向こうに、ラクーンの氷像があった。助けを求めた手は、まだこちらへ伸びている。
ソフィーは注射器を握ったまま、立ち尽くしていた。
泣いている。
その2人を前にして、この男は笑っている。
「……許さない」
胸の奥から、黒い感情が湧き立った。
何を言っても無駄だ。
やめてと頼んでも、助けたいと言っても、こいつは全部面白がる。
人が死ぬのを見て、友達が泣くのを見て、拍手する。
こいつだけは。
隣にあったパイプへ手を伸ばした。
「ちょっ!」
イアハートの手から掠め取る。
何かを言われたけれど、耳に入らなかった。
腕を伝った蒼い光が、握ったパイプへ流れ込む。
金属が軋んだ。
細い筒が膨らみ、平たく押し広げられていく。その側面を突き破って別の刃が伸び、さらにその根元から、ねじれた金属の塊がせり出した。
形なんて、どうでもよかった。
届けばいい。
あの男を斬れるなら、それでいい。
両手に重みがかかった。
無茶苦茶につぎ合わせたような大剣だった。
幅の揃わない刀身から、別の刀身が斜めに生えている。刃の背には不揃いな突起が並び、蒼い光が継ぎ目から漏れていた。
「おお。そんな武器で斬られたら、私とて無事では済まないな」
マッドハッターが両手で頭を抱えた。
大きく身を反らし、わざとらしく肩を震わせる。
その口元は、笑ったままだった。
「うわぁぁぁっ!」
地面を蹴った。
重い剣を頭上へ持ち上げ、男へ叩きつける。
手応えはなかった。
マッドハッターは帽子から軽く飛び降り、横へ身を流していた。
遅れて剣が舗装へ食い込む。
硬いものが砕け、足元に破片が跳ねた。
「力強いね」
すぐ近くから声がした。
剣を引き抜き、声の方へ振り回す。
刃先に引っ張られて、身体まで回った。
マッドハッターは半歩下がり、衣装の裾をひらりと翻した。歪な刃が、その目の前を通り過ぎる。
「だが、大きく振ればいいというものでもない」
「黙れ!」
踏み込んで、もう1度振る。
届かない。
近くにいるのに。
あと少しで斬れるはずなのに、剣を動かす頃には、男は別の場所に立っていた。
右へ逃げれば右へ。
後ろへ下がれば、追いかけて前へ。
ただ姿を追って剣を振るたび、腕にかかる重さが増していく。
「アレクサンダー! 冷静になりなさい!」
イアハートの声が響いた。
冷静になんて、なれるわけがない。
ラクーンはやられた。
ソフィーに、やらせた。
それなのに、こいつはまだ何も痛い思いをしていない。
「なかなか情熱的だ」
マッドハッターが、つま先を軸にくるりと回る。
大剣がその背中を追い、空を斬った。
横へ振った勢いを止められず、腕が流れる。剣を構え直す前に、男の指がシルクハットのつばへ触れた。
「ただ、少々危なっかしい」
黒い帽子が宙へ放られる。
平たく傾き、高速で回転した。
つばの輪郭がぼやけ、鋭い風切り音が迫る。
避けなきゃ。
そう思ったときには、剣が身体の反対側にあった。
ガリィッ!
脇腹を、何かが削っていった。
白銀の装甲が裂ける。
金属の砕ける音と同時に、熱い痛みが身体の奥まで走った。
「うわぁぁ!」
膝が折れた。
剣を握っていられず、手を離す。
歪な大剣が地面に落ち、硬い音を立てた。
傷口へ手を当てる。
痛い。
指を押し当てても、どうにもならない。動くたびに脇腹が引きつり、息を吸おうとするだけで喉が詰まった。
回転していたシルクハットが、弧を描いて戻っていく。
マッドハッターはそれを受け止め、何事もなかったように被り直した。
「アレクサンダー!」
紅い装甲が、僕と男の間へ入る。
イアハートだった。
何かを確かめるように僕を見てから、すぐにマッドハッターへ向き直った。
その背中を見上げて、ようやく自分がどこにいるのか分かった。
足元には、僕が作った大剣が落ちている。
刀身からいくつも刃が突き出した、触れるだけでも身体を傷つけそうな武器。
こんなものを、何度も振り下ろしていた。
僕は今。
マッドハッターを、殺そうとした。
捕まえようとか、動けなくしようとか、そんなことは考えていなかった。
斬りたかった。
当たったらどうなるかなんて、分かっていたはずなのに。
自分の手を見る。
銀色の指が震えていた。
さっきまで身体を動かしていた怒りが引いて、その後から恐怖が押し寄せてくる。
もし、あの刃が届いていたら。
青い血が飛び散って、男が倒れて。
その後で、僕は何を思ったんだろう。
震える手を握ろうとしても、うまく力が入らなかった。
「さて」
マッドハッターが、僕を見下ろした。
「キミたちをここで始末するのは容易いが……プロテウスに使われているようなキミたちでは、戦闘データすら満足に取れない」
イアハートが身構える。
男は近づいてこなかった。
膝をついた僕と、その前に立つイアハートを、順に眺める。
「もっと精進したまえ」
指先で帽子のつばを持ち上げた。
「初心者マークが取れるようにね」
言い返せなかった。
助けに来たのに、助けられなかった。
怒って飛びかかって、傷を負って、今度はアメリアに守ってもらっている。
何もできていない。
マッドハッターはシルクハットを頭から外し、軽く放った。
黒いつばが広がる。
上から降りてきた帽子が男の頭を隠し、肩を隠し、派手な衣装ごと包み込んでいく。
最後に靴先が消えた。
帽子はくるくると回りながら小さくなり、何もない空間へ吸い込まれるように姿を消した。
残された音が、少しずつ耳へ戻ってくる。
風に擦れる木の葉。
遠くを走る車。
僕のすぐ近くで、イアハートが息を吐いた。
その向こうに、ソフィーがいた。
注射器を胸元に抱えている。
声をかけなきゃ。
マッドハッターはいなくなった。今なら、話せるかもしれない。
どうしてこんなことになったのか。
あの発作は何だったのか。
聞きたいことが、たくさんある。
それなのに、唇を動かしても声が出なかった。
ソフィーの目が、足元の大剣へ向いた。
僕もつられて、それを見る。
怪人を斬ろうとして作った武器。
ソフィーは、どんな気持ちで見ていたんだろう。
顔を上げたとき、彼女はもう背を向けていた。
「……ぁ」
ソフィーが身を低くする。
白い両手が地面についた。
次の瞬間、4本の脚で大地を蹴った。
長い尾が翻る。
植え込みを飛び越え、遊歩道を横切り、銀色の髪が木々の間へ遠ざかっていく。
体育のときにも、走るのが速いと思った。
でも、こんな走り方じゃなかった。
「待って……」
ようやく出た声は、小さすぎた。
ソフィーの姿が見えなくなる。
追いかけようと膝を浮かせると、脇腹に鋭い痛みが走った。
身体が傾き、イアハートの手が肩を支える。
「アレクサンダー! あの子はなんなの!?」
息を吸った。
答えは分かっている。
白い耳も、鋭い爪も、凍った涙も、見た。
それでも、僕にとっては。
「……僕の……友達……」




