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第29話 凍りついた涙

「また敵が増えた!」


イアハートがパイプを握り、腰を落とす。


紅い装甲が僕の前へ出ようとした。


「待って!」


とっさに、その腕をつかんだ。


「なんで!」


「敵じゃない!」


言い切ると、イアハートがこちらを見た。


説明しなければならない。


あの子は僕のクラスメイトで、体育が得意で、さっきまで一緒にジュースを飲んでいた。


学校に来てくれた方が楽しいと、そう言ってくれた子なんだ。


でも、それをどう伝えればいい?


目の前で獣に変わったソフィーから目を離せず、言葉が出てこなかった。


その間に、マッドハッターが身をかがめた。


ソフィーの耳元へ顔を寄せる。


「さぁ、やりたまえ」


内緒話のような、柔らかい声だった。


「死にたくないだろう?」


白い獣の耳が、かすかに伏せられた。


ソフィーは何も言わなかった。


怒っているようにも、怖がっているようにも見えない。ただ、顔から表情が抜け落ちていた。


ついさっきまで、グラス越しに笑っていた子と同じ顔だなんて思いたくなかった。


ソフィーが歩き出す。


僕たちの方へではない。


その視線の先で、ラクーンが身を縮めた。


「や、やめて……」


大きな身体を後ろへずらす。抱えていた尻尾が地面を擦り、散らばった空き缶が転がった。


「おいらも死にたくない」


ソフィーの足は止まらない。


「薬が欲しかっただけなんだよ。ちゃんと言われたとおりにするから……!」


その声に、伏せられた睫毛がわずかに震えた。


聞こえていないわけじゃない。


それでも、ソフィーは近づいていった。


白い毛に覆われた手が、ゆっくりと持ち上がる。


細い指の先から伸びた爪。その周囲に、氷の粒がまとわりついていた。


「待って!」


ようやく声が出た。


イアハートの腕を離し、前へ踏み出す。


ソフィーの肩が動いた。


こっちを向いてくれる。


そう思った。


けれど、持ち上がった手は僕へ向けられなかった。


「やめ──」


爪が振り下ろされた。


ラクーンが身体をよじる。


逃げようとした肩から胸へ、鋭い爪が走った。


厚い毛皮が裂け、青い血が飛び散る。


ソフィーの白い指にも、芝生の上にも、同じ色が落ちた。


「痛い……」


ラクーンが自分の胸を押さえる。


大きな前足の隙間から、血がにじんだ。


「痛いよぅ……」


傷は浅くない。


でも、早く治療すれば。


ジムおじさんに連絡して、また僕が運べばいい。


助けるために手を伸ばしたとき、流れていた血が止まった。


傷口の縁が白くなっている。


細かな霜が毛を覆い、血の雫をそのまま固めていた。


凍っている。


傷口だけじゃなかった。


薄い氷が胸から肩へと広がり、押さえていた前足を包み込む。指の間が塞がり、毛皮の上を白い筋が這っていった。


ラクーンが腕を引こうとする。


動かない。


「な、なんだよ、これ……!」


もう片方の前足で、胸の氷を引っかく。


爪が表面を擦る、嫌な音がした。


砕こうとしても、その手にまで霜が移っていく。


「助けて……!」


青い血のにじんだ顔が、僕へ向けられた。


走り寄ろうとした足元へ、氷が伸びてきた。


芝生が白く染まる。


ラクーンの膝が固まり、立ち上がりかけた身体が傾いたところで止まった。


「嫌だぁぁぁあ!」


差し出された手を、つかもうとした。


あと少しだった。


その指先まで透明な氷に覆われていく。


悲鳴が途切れた。


口を開け、片手を伸ばした姿勢のまま。


ラクーンは、1体の氷像になっていた。


伸ばした僕の手が、その前で止まる。


氷の奥に顔が見えた。


さっきまで話していた。痛いと泣いて、助けてと手を伸ばしていた。


今は、何も聞こえない。


「……ラクーン、さん?」


返事はなかった。


どうしたらいい。


氷を割れば助けられるのか。それとも、割ったら中の身体まで壊れてしまうのか。


触れようとしても、それが正しいのか分からない。


指先が震えていた。


パチ、パチ、パチ。


拍手が聞こえた。


「ブラボー!」


マッドハッターだった。


いつの間にか大きくなったシルクハットが、宙に浮かんでいる。その上に腰を下ろし、長い脚を組んでいた。


「裏切り者にふさわしい最期だ!」


嬉しそうに、手を打ち合わせる。


僕の目の前には、まだラクーンの手があった。


それを見下ろしながら、この男は拍手している。


「生への執着は、純真な子供さえ悪魔に変える!」


ソフィーは氷像の前に立っていた。


爪を振り下ろした手が、身体の横へ下りている。指先についた青い血も、凍りついて光っていた。


「こいつは傑作だ!」


拍手は鳴りやまない。


「アンタが、やらせたんでしょうが……!」


イアハートの声が低く響いた。


パイプを握る手に力が入る。


マッドハッターは気にした様子もなく、ソフィーを眺めていた。


助けなければ死ぬと脅して。


やりたくないことをやらせて。


それを、ショーと呼んで笑っている。


身体の奥が熱くなった。


なのに、ソフィーの前では動けなかった。


さっき止められなかった僕が、今、何を言えばいいのか分からない。


『敵じゃない』


そう言ったのに。


守ろうとしていたラクーンも、ソフィーも、どちらも助けられなかった。


ようやく拍手が止まった。


「さて。約束どおり、D因子は渡そう」


マッドハッターが懐へ手を入れる。


取り出したのは、注射器だった。


中に入った薬液が、傾きに合わせて揺れる。


ソフィーの目が、そこへ向いた。


さっきまで何を呼びかけても動かなかった顔が、初めて上がった。


「よくできたね」


男が注射器を差し出す。


ソフィーが腕を伸ばした。


白い手が、差し出された指をはたくように動く。


注射器を奪い取り、胸元へ引き寄せた。


それを握り締める爪が、ひどく危なっかしく見えた。少しでも力を込めたら、容器ごと割ってしまいそうだった。


でも、ソフィーは離さなかった。


『注射は怖くないの。注射は』


あのときの言葉が、また浮かんだ。


怖かったのは、これをもらえなくなることだったの?


もらうために、こんなことをさせられることだったの?


聞きたいのに、喉が詰まって声にならない。


ソフィーが、こちらを振り返った。


淡い青の瞳が見える。


グラスの向こうから僕を見ていた、同じ色の目だった。


そこから涙がこぼれた。


頬を伝った雫が、黒い縞の上で白く曇る。


落ちる前に凍りつき、小さな氷の結晶になっていた。

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