第27話 敗北は次の成功への階段
◇
「今回はしくじりました。お許しを……」
ボナパルトは床に膝をつき、深く頭を垂れていた。
その右腕は、まだ砲身へと変化したままだ。膨れ上がった肩が不規則に上下し、床についた砲口からは、かすかに焦げた臭いが漂っている。
「ただ1度、失敗しただけだ」
頭上から降ってきた声は穏やかだった。
「キミが謝る必要なんてないさ」
ボナパルトがおそるおそる顔を上げる。
目の前に立つマッドハッターは、シルクハットのつばへ指を添え、薄く笑っていた。
「おお……なんと寛大なお言葉」
「ドレッドは敗北など恐れない。まだ伸び代があるということだからね」
責める言葉は続かなかった。
マッドハッターは砲身へ目を落とすと、何気ない調子で告げた。
「まずは、D因子抑制剤を打ちなさい」
「はっ」
ボナパルトは残った左手で注射器を取り出した。慣れた手つきで針を刺し、薬液を押し込む。
ほどなく、右肩の震えが収まった。
砲身の表面が波打ち、硬かった輪郭が崩れていく。太い筒が細く縮み、塞がっていく砲口から指が分かれた。
やがて、そこには元の右腕が戻っていた。
ボナパルトは指を握り、開く。それから改めて姿勢を正した。
「さて。今回は、興味深い反応はあったかね?」
「蒼と紅の、全身装甲をまとった2人に邪魔されました」
「……ふむ。プロテウスの被験者か」
マッドハッターの指が、帽子のつばから離れた。
「キャンセラーのみでは、歯が立たないようだね」
その視線が、ボナパルトの背後へ移る。
戦闘服を着たキャンセラーたちが、整然と列を作っていた。身じろぎをする者も、言葉を発する者もいない。全員が同じ姿勢で、次の命令を待っている。
「所詮は、不適合者の烏合の衆か」
声に落胆はなかった。
並んだ顔を見渡した後、マッドハッターは再びボナパルトへ目を向けた。
「私も油断しました。次こそは、必ず倒してみせます!」
握り締めた右拳を胸に当て、ボナパルトが声を張る。
つい先ほどまで砲身だった腕には、まだ破れた袖がまとわりついていた。
「ならば、D因子を増やすといい。さらに力を得られる」
「ははぁっ!」
ボナパルトは、先ほどよりも深く頭を下げた。
マッドハッターはその脇を通り過ぎ、列の前へと歩み出る。靴音だけが、規則正しく響いた。
「キャンセラー。潜伏中のD因子適合者に連絡を」
一斉に、顔が向く。
マッドハッターは笑みを保ったまま、伝えるべき言葉を口にした。
「『そろそろ動け。でないと、追加のD因子は打たない』とね」
「イエス! マッドハッター!」
100人を超える戦闘服のキャンセラーたちが、一斉に敬礼した。
「マッドハッター、戻ったぜぃ」
扉が開き、燃えるような赤髪の女が入ってきた。
口には棒付きキャンディー。頭の後ろで両手を組み、靴音を響かせて歩いてくる。服からは、外の空気に混じって薄く煙の臭いが漂った。
「マッチガール。相変わらず仕事が早いね」
「まーな」
マッチガールは片手を下ろし、キャンディーの棒をつまんだ。唇から引き抜くと、艶のある飴をひと舐めする。
そのまま空いた手でタブレット端末を取り出し、画面を操作した。
室内に大きなスクリーンが浮かび上がる。
映し出されたのは、炎に包まれた建物だった。
窓という窓から火が噴き出し、外壁を黒煙が覆っている。上階へ燃え移る炎が夜空を赤く染める中、路上の人影が遠巻きにそれを眺めていた。
「今回は1本丸ごと燃やしてやったぜぃ」
「1棟だろう?」
「どっちでもいいらしいぞ?」
悪びれる様子もなく、マッチガールは次の画像へ切り替えた。
焼け落ちた屋根。中身を失った窓枠。黒く炭化した梁が、折り重なるように残っている。
建物の形をかろうじて留めた残骸を見て、マッドハッターは満足そうに頷いた。
「うん。依頼どおりだ」
「だろ? ヤシオリ建設から、報酬もたんまりだ」
指先が端末を滑る。
火災現場の画像に代わって、依頼内容と報酬額が表示された。完了の印がついた欄を、マッチガールはキャンディーの先で指し示す。
「相変わらず意味わかんねぇ会社だぜ。壊せば壊すほど金くれるなんてよ」
「イスカティアには、もう空き地なんてほとんどない。壊さないと建てられないからね」
マッチガールは肩を揺らした。
「ま、こっちは派手に燃やせりゃ文句ねぇけど」
キャンディーを口へ戻し、端末を差し出す。
マッドハッターはそれを受け取り、報酬の一覧を確認した。
マッチガールの仕事に続いて、ボナパルトたちが破壊した物件の記録が並んでいる。損壊箇所を示す画像と、その横に記された金額。
戦闘の結果を確かめるときとは違い、そこへ向けられた視線は短かった。
報酬欄をひと目見たマッドハッターは、すぐに端末を閉じた。宙に浮かんでいたスクリーンも消える。
「ところで、ヴィクターはどうしたんだい?」
「引きこもって、また『オモチャ』の改造でもしてんだろ?」
マッチガールは返された端末をしまい、再び両手を頭の後ろへ回した。
「呼んできてやろうか? 聞こえるかどうか知らねぇけど」
「いや、今はいい。夢中になっているところを邪魔したら、機嫌を損ねてしまう」
「あいつ、出てこねぇときは全然出てこねぇからなぁ」
「やれやれ。幹部も個性的で困る」
マッドハッターが、わざとらしく嘆いてみせる。
マッチガールは口の端に棒を寄せたまま、その頭から足元までを眺めた。
磨かれた靴。派手なステージ衣装。そして、室内でも脱ごうとしないシルクハット。
「それ、お前が言えんのか?」
「フッ。確かにね」
マッドハッターは愉快そうに笑った。
帽子のつばを指で整え、くるりと踵を返す。衣装の裾が、動きに合わせて軽く翻った。
その先には、壁いっぱいの大きな窓があった。
室内の照明を映すガラスへ近づくと、彼の背後に浮かんでいた影が薄れ、代わりに窓の向こうの光が鮮やかになる。
マッチガールはその場に立ったまま、キャンディーを舐めていた。
マッドハッターが窓の前で足を止める。
眼下には、高層建築の隙間を縫って走る車列が見えた。白い光が流れていき、交差点で止まり、別の方向へまた流れ始める。
巨大な広告が切り替わった。
人の横顔を映していた壁面を、今度は魔導インプラントの宣伝が埋め尽くす。腕を掲げたモデルの周囲に、性能を示す文字が次々と浮かび上がった。
マッドハッターは、それを正面から見据えた。
「我が敬愛するドレッドよ!」
声が、静かな室内に響く。
誰かに報告する口調ではなかった。舞台の上から、見えない観客へ呼びかけるような声だった。
「この世からインプラントを消し去る、その時まで──」
両腕がゆっくりと左右へ開かれる。
背筋を伸ばし、顎を上げる。その唇には、先ほどよりも深い笑みが浮かんでいた。
「我々は忠誠を誓います」
自らの宣言に酔いしれるように、マッドハッターはしばらくその姿勢を保った。
窓の外を飛空艇が横切っていく。
きらびやかなネオンも、空を行く灯りも、はるか下を流れる車列も、その両腕の間に収まっていた。
そこには、イスカティアの夜の街が広がっていた。




