2-5.初めての処置
翌朝、船が動いた。
甲板に出ると、港がゆっくり遠ざかっていくところだった。綱が解かれて、帆が風を受けて膨らんでいる。乗組員たちが各自の持ち場で動いていた。エリカが帆柱の上から何かを叫んでいて、アンヌが甲板で応答している。ビリーが舵の近くで腕を組んで海を見ていた。
内海に出た。
波が変わった。港の中の揺れと違って、一定のリズムで船体が持ち上がり、戻る。私はその揺れに足を合わせながら、広がっていく水平線を見た。どこまでも続く青だった。この海を知っている気がした。知っている気がする、ばかりで、何も確かめられない。
レベッカが隣に来た。昨日と同じように、何も言わずに並んだ。
「出航するの、久しぶりに見たの?」と私は聞いた。
「毎回見てる」
「飽きないんですか」
「飽きない」
短い答えだった。でも嘘ではないと思った。レベッカが海を見る目は、ダニエルが私を見るときの目に少し似ていた。大切なものを確かめる目だ。
しばらくして、レベッカが言った。
「昨日、上手かったわね。処置」
「身体が動きました」
「医療を学んだことがあるんでしょ。記憶がなくても、分かる」
私は少し考えた。
「分かるんですか」
「動きが違う。腕の良い医者と、そうじゃない人間の動き方は違うから」
「医療に詳しいんですか」
レベッカが少し黙った。
「少しだけ」
それ以上は言わなかった。私も追わなかった。「少しだけ」という答えに、何か深いものが含まれている気がしたが、今日は聞く日ではない、と思った。
ーーー
昼前にレオノーラに呼ばれた。
医務室に行くと、彼女は机に書類を広げていて、またひどく眠そうだった。それでも私が入ると、顔を上げた。
「ちょうど良かったわ。手伝ってもらいたいことがあって」
「何でしょう」
「昨日の処置の話は聞いたわ」とレオノーラが言った。「それで少し試したいことがあるの」
彼女が棚から小さな木箱を取り出した。蓋を開けると、中に標本が並んでいた。植物の根、粉末、乾燥させた葉。どれも薬草の類だと分かった。
「これを見て、何か分かる?」
私は木箱を受け取って、一つずつ確認した。
最初の根は、鎮痛作用がある。二番目の粉末は、止血剤として使われる。三番目の葉は、感染を防ぐ効果がある。
四番目を手に取ったとき、指が止まった。
乾燥した薄い葉だった。縁が細かく波打っている。指でつまんだ瞬間、青みがかった冷たいような香りが来た。
何かが来た。
名前ではなかった。用途でもなかった。もっと手前にある何かだった。暗い場所の記憶とでもいうような。その感覚は香りと一緒に届きかけて、届かなかった。
私は葉を箱に戻した。
「一つ、分からないものがあります」
「どれ?」
私は四番目を指差した。そう答えながら、なぜそう答えたのかが少し分からなかった。何かが引っかかっていた。でも言葉にならなかった。言葉にしたくなかったのかもしれない。どちらかは、自分には判断できなかった。
レオノーラが目を細めた。
「それは常夜の国特有の薬草よ。他の地域には流通していないから、知らないのは当然。他は全部正解」
私は少し驚いた。正解、という言葉が出るということは、テストだったらしかった。
「合格ということですか」
「そういうことになるわね」とレオノーラが言った。「あなた、医学の訓練を受けている。かなり高度な」
「そのようです」
「今日から、医務室の助手をしてもらえる? 船の規模から言って、私一人では回しきれないことがある。あなたが動ければ助かるわ」
私は頷いた。
「やってみます」
レオノーラが「じゃあ早速」と言って、棚の整理を私に任せた。どの薬品がどの棚に、どういう順番で並べるべきか。彼女が指示する前に、手が動いた。使用頻度の高いものを手前に、劣化しやすいものを遮光できる場所に、緊急時に素早く取り出せる配置で。
半分ほど整理したところで、レオノーラが「止めて」と言った。
「今の配置の順番、なぜそうしたか説明できる?」
私は説明した。使用頻度、劣化リスク、緊急時のアクセス優先順位。レオノーラが私の話を聞きながら、何かを確認するような目をしていた。
「正確ね」と彼女は言った。「教科書通りよりも、少し実践寄りの発想をしてる。現場で使った人間の整理の仕方だわ」
「現場、というのは」
「手術室とか、野戦病院とか。そういう場所で実際に動いた人間は、手が覚えているのよ。あなたの手が覚えているのと同じように」
私は自分の手を見た。
現場。野戦病院。手術室。どれも知識として知っている言葉だった。でもそれ以上の何かが、その言葉たちには張り付いていた。匂いとか、音とか、時間のプレッシャーとか。言語化できない記憶の欠片みたいなものが。
「……そういう場所にいたのかもしれません」
「そうね」とレオノーラが静かに言った。「きっとそうよ」
断言の仕方だった。でも私が気づく前に、彼女は話を変えた。
「今日はここまでにしましょう。明日からは朝の一時間、医務室に来て」
「分かりました」
私はドアに向かった。出際に振り返ると、レオノーラが窓の外を見ていた。内海の水面が、午後の光を反射して揺れている。その揺れを眺めながら、彼女は何か遠いものを見ていた。
「レオノーラさん」
「何?」
「あなたは私のことを知っているんですか」
沈黙だった。
長い沈黙ではなかった。でも彼女が答えを選ぶ時間は、確かにあった。
「医者として、あなたのことを知りたいと思っているわ」
答えになっていない答えだった。でも嘘でもなかった。
私は頷いて、医務室を出た。廊下に出ると、船の揺れが足の裏から伝わってきた。内海の波は一定で、慣れれば心地よかった。
知っている気がする。
この揺れも、この匂いも、この先に何があるかも。
全部、知っている気がするのに、何も思い出せない。
それがどういうことなのか、今日もまだ分からなかった。




