表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
-新-猫少女と竜の海賊  作者: u-nyu
2章:リベルタス
8/31

2-4.身体が覚えていること

 二日目の朝、アンヌが木剣を二本持って現れた。


「護身術から始めるわ」


 私は木剣を受け取った。重さと重心を確かめる。この動作が自然に出てきた時点で、何かを察するべきだったかもしれない。


「構えて」とアンヌが言った。


 私は構えた。どう構えるかを考える前に、身体がそうなっていた。アンヌが少し眉を上げた。


「……習ったことある?」


「記憶にはないですが、身体にはあるみたいです」


 アンヌが打ちかかってきた。


 受けた。それだけでなく、半歩踏み込んでいた。身体が勝手に動いていた。打ち返す、ではなく、制する動き。アンヌの手首に向けた力の流し方は、相手を傷つけないための動きだ。相手の関節を壊さず、力だけを流す。傷つけないために作られた技術だ、と頭のどこかで他人事のように分析していた。


 アンヌが木剣を下ろした。


「あなた、本当に何者なの」


「分かりません」と私は正直に答えた。「身体の方が私より詳しいみたいです」


 アンヌが書き留めている紙が、昨日よりずいぶん増えていた。



     *



 昼前に、人が増えた。


 甲板に明るい声が響いて、振り返ると茶髪ショートの女性が走ってくるところだった。蜜を練り込んだような小麦色の肌に、陽の熱がまだ残っていそうだった。明るい茶色の目が、遠くから私を見つけて笑っていた。着地が静かだった——重心が低くて、ほとんど音がしない。高いところに慣れた人間の走り方だ、と思った。


「新人の子ってどれ?」


 私を見つけると、迷いなく近づいてきた。


「エリカ! シェリーよ、新人」とアンヌが言った。


「エリカです。よろしく!」


 握手の手が差し出された。私はそれを受け取った。強い握り方だった。手のひらに古い皮が張っている。射手の手だ、と思った。


「シェリーです。よろしくお願いします」


「敬語いらないよ。ここそういう感じじゃないから」


「アンヌさんにも言われました」


「でしょ。あたし監視塔担当なんだ。高いとこが好きで」


 見上げると、帆柱の上に足場がある。あそこにいたのか、と納得した。あの高さから甲板を見ていれば、全体が把握できる。狙撃手として理想的な位置だ。


「よろしく」とエリカが言って、また走って帆柱の方へ戻っていった。


 嵐のような人だった。でも悪い嵐ではない。


 その直後、別の声がした。


「あらぁ、新入りちゃん?」


 振り返ると、大柄な人物が甲板を歩いてきた。背丈も肩幅も甲板で一番大きかった。双斧を背中に背負って、その体格はダニエルにも引けを取らない。なのに、歩き方が妙に柔らかかった。重心の低い、しなやかな足運び。


 振り向いた顔は、意外なほど整っていた。透き通るような白い肌に、青い目。青みがかった長い髪を後ろでゆるく束ねていて、耳元で少し揺れていた。体格と顔立ちが、どこか釣り合っていなかった。


「ビリーよ。よろしくね」


「シェリーです。よろしくお願いします」


「あら、真面目ね。いいわよ別に、もっと気楽にして」


 ビリーが私の隣に立って、海を見た。


「記憶がないって聞いたわ。怖くない?」


「情報が少ないと怖がるタイミングが分からないです」


「まあ」とビリーが言った。「それはそれで大変ねえ。怖がれないのも、楽じゃないでしょうに」


 私は少し考えた。その言い方は、今まで誰もしなかった。怖くないことを「面白い」と言った人はいたが、「楽じゃない」と言ったのはビリーだけだった。


「……そうかもしれません」


「まあ、困ったことがあったら言って。あたし、話を聞くのは得意だから」


 それだけ言って、ビリーも自分の仕事に戻っていった。



ーーー



 午後の錬成が終わりかけた頃、甲板で声が上がった。


 見ると、乗組員の一人が右手を押さえて蹲っていた。武器の手入れをしていた男で、ナイフが滑ったらしかった。周囲の何人かが集まって、「大丈夫か」と声をかけていた。


 私はその光景を見た瞬間、歩き出していた。


 考えていなかった。身体が先に動いた。人の輪を抜けて、男の前に膝をついた。


「見せてください」


 男が戸惑いながら手を差し出した。右の手のひらに深めの切り傷があった。ナイフの刃が縦に走っている。深さは一センチほど。動脈は避けているが、このままでは感染のリスクがある。縫合が必要かどうかは、もう少し洗浄してから判断できる。


 頭の中で、そういう言葉が自然に並んだ。


「アンヌさん、清潔な布と水をもらえますか。それと、もし酒精があれば」


「ちょっと待って」


 アンヌが走っていく音がした。私は男の手を自分の膝の上に置いた。傷口の状態を確認する。刃の入り方から、滑った角度が分かる。運が良かった。もう少しずれていれば腱に届いていた。


「痛みはどの程度ですか」


「……じんじん、する」


「動かしてみてください。指が曲がりますか」


 男がゆっくり指を動かした。全指が曲がった。腱は無事だ。出血量は多くないが、止める必要がある。


 アンヌが布と水を持ってきた。酒精の小瓶もあった。


「ありがとうございます」


 私は傷口を洗い始めた。手が迷わなかった。力の入れ方、洗う方向、患部を押さえる角度。全部、身体が知っていた。男が少し顔をしかめたが、声は上げなかった。


「縫合は必要ないです。きちんと圧迫すれば止まります」


 布で傷口を押さえながら、私は周囲を見た。乗組員数人が黙って見ていた。アンヌも見ていた。


 不思議な沈黙だった。


「終わりました」と私は言った。「今日は手を使う作業は避けてください。明日、傷の状態を確認します」


 男が「ありがとう」と言った。声が少し震えていた。痛みか、それとも別の何かか。


 私は立ち上がった。手に男の血がついていた。布で拭いながら、今自分がしたことを整理した。医療の知識だけでなく、手順、判断、処置の優先順位。全部、自分の中にあった。どこで学んだか分からない。でも確実に、長い時間をかけて積み上げられたものだ。


 隣にアンヌが来た。


「……すごいわね」と彼女は言った。小声だった。


「身体が覚えていたようです」


「そうじゃなくて」とアンヌが言った。「手が全然、震えてなかった」


 私は自分の手を見た。


 言われてみれば、そうだった。他人の傷口の前で、動揺が一つもなかった。血を見て、痛がっている人間を見て、それでも手は安定したままだった。


 それが普通のことなのか、普通ではないことなのか。


 私には比べる記憶がなかったから、判断できなかった。


 ただ、もしこれが自分の本来の姿なら。


 自分はずっと、誰かの傍で、こういうことをしていたのかもしれない。


 そんな気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ