2-4.身体が覚えていること
二日目の朝、アンヌが木剣を二本持って現れた。
「護身術から始めるわ」
私は木剣を受け取った。重さと重心を確かめる。この動作が自然に出てきた時点で、何かを察するべきだったかもしれない。
「構えて」とアンヌが言った。
私は構えた。どう構えるかを考える前に、身体がそうなっていた。アンヌが少し眉を上げた。
「……習ったことある?」
「記憶にはないですが、身体にはあるみたいです」
アンヌが打ちかかってきた。
受けた。それだけでなく、半歩踏み込んでいた。身体が勝手に動いていた。打ち返す、ではなく、制する動き。アンヌの手首に向けた力の流し方は、相手を傷つけないための動きだ。相手の関節を壊さず、力だけを流す。傷つけないために作られた技術だ、と頭のどこかで他人事のように分析していた。
アンヌが木剣を下ろした。
「あなた、本当に何者なの」
「分かりません」と私は正直に答えた。「身体の方が私より詳しいみたいです」
アンヌが書き留めている紙が、昨日よりずいぶん増えていた。
*
昼前に、人が増えた。
甲板に明るい声が響いて、振り返ると茶髪ショートの女性が走ってくるところだった。蜜を練り込んだような小麦色の肌に、陽の熱がまだ残っていそうだった。明るい茶色の目が、遠くから私を見つけて笑っていた。着地が静かだった——重心が低くて、ほとんど音がしない。高いところに慣れた人間の走り方だ、と思った。
「新人の子ってどれ?」
私を見つけると、迷いなく近づいてきた。
「エリカ! シェリーよ、新人」とアンヌが言った。
「エリカです。よろしく!」
握手の手が差し出された。私はそれを受け取った。強い握り方だった。手のひらに古い皮が張っている。射手の手だ、と思った。
「シェリーです。よろしくお願いします」
「敬語いらないよ。ここそういう感じじゃないから」
「アンヌさんにも言われました」
「でしょ。あたし監視塔担当なんだ。高いとこが好きで」
見上げると、帆柱の上に足場がある。あそこにいたのか、と納得した。あの高さから甲板を見ていれば、全体が把握できる。狙撃手として理想的な位置だ。
「よろしく」とエリカが言って、また走って帆柱の方へ戻っていった。
嵐のような人だった。でも悪い嵐ではない。
その直後、別の声がした。
「あらぁ、新入りちゃん?」
振り返ると、大柄な人物が甲板を歩いてきた。背丈も肩幅も甲板で一番大きかった。双斧を背中に背負って、その体格はダニエルにも引けを取らない。なのに、歩き方が妙に柔らかかった。重心の低い、しなやかな足運び。
振り向いた顔は、意外なほど整っていた。透き通るような白い肌に、青い目。青みがかった長い髪を後ろでゆるく束ねていて、耳元で少し揺れていた。体格と顔立ちが、どこか釣り合っていなかった。
「ビリーよ。よろしくね」
「シェリーです。よろしくお願いします」
「あら、真面目ね。いいわよ別に、もっと気楽にして」
ビリーが私の隣に立って、海を見た。
「記憶がないって聞いたわ。怖くない?」
「情報が少ないと怖がるタイミングが分からないです」
「まあ」とビリーが言った。「それはそれで大変ねえ。怖がれないのも、楽じゃないでしょうに」
私は少し考えた。その言い方は、今まで誰もしなかった。怖くないことを「面白い」と言った人はいたが、「楽じゃない」と言ったのはビリーだけだった。
「……そうかもしれません」
「まあ、困ったことがあったら言って。あたし、話を聞くのは得意だから」
それだけ言って、ビリーも自分の仕事に戻っていった。
ーーー
午後の錬成が終わりかけた頃、甲板で声が上がった。
見ると、乗組員の一人が右手を押さえて蹲っていた。武器の手入れをしていた男で、ナイフが滑ったらしかった。周囲の何人かが集まって、「大丈夫か」と声をかけていた。
私はその光景を見た瞬間、歩き出していた。
考えていなかった。身体が先に動いた。人の輪を抜けて、男の前に膝をついた。
「見せてください」
男が戸惑いながら手を差し出した。右の手のひらに深めの切り傷があった。ナイフの刃が縦に走っている。深さは一センチほど。動脈は避けているが、このままでは感染のリスクがある。縫合が必要かどうかは、もう少し洗浄してから判断できる。
頭の中で、そういう言葉が自然に並んだ。
「アンヌさん、清潔な布と水をもらえますか。それと、もし酒精があれば」
「ちょっと待って」
アンヌが走っていく音がした。私は男の手を自分の膝の上に置いた。傷口の状態を確認する。刃の入り方から、滑った角度が分かる。運が良かった。もう少しずれていれば腱に届いていた。
「痛みはどの程度ですか」
「……じんじん、する」
「動かしてみてください。指が曲がりますか」
男がゆっくり指を動かした。全指が曲がった。腱は無事だ。出血量は多くないが、止める必要がある。
アンヌが布と水を持ってきた。酒精の小瓶もあった。
「ありがとうございます」
私は傷口を洗い始めた。手が迷わなかった。力の入れ方、洗う方向、患部を押さえる角度。全部、身体が知っていた。男が少し顔をしかめたが、声は上げなかった。
「縫合は必要ないです。きちんと圧迫すれば止まります」
布で傷口を押さえながら、私は周囲を見た。乗組員数人が黙って見ていた。アンヌも見ていた。
不思議な沈黙だった。
「終わりました」と私は言った。「今日は手を使う作業は避けてください。明日、傷の状態を確認します」
男が「ありがとう」と言った。声が少し震えていた。痛みか、それとも別の何かか。
私は立ち上がった。手に男の血がついていた。布で拭いながら、今自分がしたことを整理した。医療の知識だけでなく、手順、判断、処置の優先順位。全部、自分の中にあった。どこで学んだか分からない。でも確実に、長い時間をかけて積み上げられたものだ。
隣にアンヌが来た。
「……すごいわね」と彼女は言った。小声だった。
「身体が覚えていたようです」
「そうじゃなくて」とアンヌが言った。「手が全然、震えてなかった」
私は自分の手を見た。
言われてみれば、そうだった。他人の傷口の前で、動揺が一つもなかった。血を見て、痛がっている人間を見て、それでも手は安定したままだった。
それが普通のことなのか、普通ではないことなのか。
私には比べる記憶がなかったから、判断できなかった。
ただ、もしこれが自分の本来の姿なら。
自分はずっと、誰かの傍で、こういうことをしていたのかもしれない。
そんな気がした。




