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-新-猫少女と竜の海賊  作者: u-nyu
2章:リベルタス
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2-3.猫の先輩と鬼教官

 甲板に出ると、アンヌが縄を束ねながら待っていた。


「遅かったわね。吸血までされたの?」


 なぜ分かったのか、と思ったが、首筋をさすると少し敏感になっていた。吸血の痕だろう。アンヌはそれを見て「あの人は健診のたびにああするのよね」と言った。呆れているのか感心しているのか、判断のつかない声色だった。


「さ、顔合わせをしましょう。全員いるわけじゃないけど、今日会える人には会っておいた方がいい」


 アンヌが甲板を横切りながら、一人ずつ紹介してくれた。舵を握っていた人間の青年、帆の調整をしていたドワーフの男性、船首近くで何かを磨いていた大柄な女性。名前と役割を告げられるたびに私は頷いて、頭の中に配置していった。覚えること自体は得意らしい。これも知識ではなく、もともとの性質なのかもしれない。


 そしてアンヌが甲板の端に向かって声をかけた。


「レベッカ、こっち来て」


 振り返ったのは、昨日の女だった。


 緑の猫目。黒髪はショートで、毛先が少し跳ねていた。深く焼けたような褐色の肌——その上に、傷跡が白く浮いていた。腕、首筋、頬の端。まるで地図のように刻まれている。昨日は遠目でしか見えなかったが、近い距離になってはじめて、それがどれほど多いかが分かった。どれも古い傷だ。長年かけて積み重なったものだと分かる。


 ノースリーブの腕に、腱の浮いた筋肉がある。戦士の体だ、と思った。


 頬に戦化粧の紋様があった。私のものと同じ種類だと気づいた。本数は違う。それ以上のことは分からなかった。


 レベッカが近づいてきた。私を見て、一瞬だけ足が止まった。ほとんど気づかない程度の、わずかな躊躇だった。


「レベッカよ。戦闘担当」


 それだけ言って、口を閉じた。


「シェリーです。よろしくお願いします」


 返事はなかった。レベッカが私を見ている。視線の重さが、他の乗組員とは違った。観察、というより、確認しているような目だ。何かを確かめようとしている。何を、とは分からない。


「あんた……」口が、わずかに開いた。何かを言いかけて——止めた。一拍置いてから、「猫族ね」と言った。


「そうみたいです」


「みたい、って」


「記憶がないので」


 レベッカが少し眉を動かした。驚いたというより、何かを処理しているような間だった。それからまた、元の無表情に戻った。


「そう」


 それだけで会話が終わった。アンヌが「レベッカはこういう人だから気にしないで」と小声で言った。レベッカが「聞こえてる」と返した。アンヌは聞こえているのを分かって言っているのかもしれない。



     *



 昼前に、アンヌが私を甲板の隅に連れていった。


「基本的なことから教えていくわ」と彼女は言って、腰に手を当てた。「この船での生活ルール、体力錬成、武器の扱い、航海の知識。一通り身につけてもらう」


「分かりました」


「あたしはね、鬼教官って呼ばれてるの」


 誇らしそうに言うので、私は素直に聞いた。


「それは褒め言葉ですか」


「もちろん。厳しいけど、あたしのところから脱落した新人はいない。それが自慢よ」


 なるほど、と思った。この人は能力があって、それを知っている。そして厳しさの先に結果を出している。信頼できる人間の条件として悪くない。


「よろしくお願いします」と私は言った。


「まず体力測定から。走れる?」


「試したことがないですが、走れると思います」


「じゃあ甲板を十周。ゆっくりでいいから、まずペースを見せて」


 私は走り出した。


 最初の一周で、身体が「これは知っている動き」と判断したのが分かった。呼吸の整え方、腕の振り方、足の運び。自然に無駄のない走り方になっていた。二周目で少しペースを上げた。疲れる感じがしない。三周目でさらに上げた。


 十周終えたとき、アンヌが口を開けて立っていた。


「……新人の走りじゃないわね」


「そうでしょうか」


「普通は五周あたりで息が上がるの。あなた、十周しても乱れてない」


「身体が覚えていたようです」


 アンヌが何かを書き留めた。何を書いているのかは見えなかった。


 その後、いくつかの動作を試した。腕立て、体幹の安定、バランス。どれも身体が勝手に動いた。知識として知っているのではなく、筋肉が知っている動き方だった。訓練を積んだ身体は、記憶が消えても残るらしかった。


 途中で、レベッカが近くを通りかかった。


 視線を感じて見ると、彼女が私の動きを見ていた。目が合うと、すぐに外した。


 私はそれを不思議に思いながらも、次の動作に移った。



     *



 夕方になって、アンヌが「今日はここまで」と言った。


 終わりの基準が分からなかった。足に少し重さが来ていた。疲れの感触だと、少し経ってから判断した。身体が訴えてくるより先に頭が気づく——そういう感じ方をするらしかった。


 私は甲板の縁に腰かけて、海を見ていた。夕日が水平線に近づいていて、内海の色が橙に変わっていた。港がまだ見える距離だった。まだ出航していない。明日か明後日、とアンヌが言っていた。


 隣に誰かが来て、同じ縁に腰かけた。


 レベッカだった。


 私は少し驚いたが、表情には出さないようにした。彼女は海を見ていた。私の方を見なかった。しばらく沈黙が続いた。


 猫族は沈黙が得意な種族だ、と思った。これも知識として知っている。スキンシップを大切にするが、静かな時間も同じように大切にする。隣に座るだけで、十分な意思表示になることもある。


 だから私も黙っていた。


 日が落ちかけた頃、レベッカが口を開いた。


「……傷跡、見てたでしょう」


「見えたので、見ていました」


「気持ち悪くなかった?」


 私は少し考えた。


「傷跡は傷の記録です。気持ち悪くはないです」


 レベッカが少しだけ、目を細めた。嬉しそうではなかった。でも、何かが緩んだような顔だった。


「猫族らしくない答えね」


「そうですか」


「普通はもっと騒ぐ。驚くとか、かわいそうとか言うとか」


「言った方がよかったですか」


「いらない」と彼女は即座に言った。「好きじゃないから、そういうの」


「では言いません」


 また沈黙が来た。今度は少し、最初より柔らかい種類の沈黙だった。


 レベッカが立ち上がった。


「飯の時間だ」


 それだけ言って、船内に戻っていく。私はその背中を見ながら、全身の傷跡のことを考えた。


 古い傷。でも長年かけて積み重なったものだ、と思っていた。最初の傷はいつのものだろう。どこでついたものだろう。


 答えのない問いだと分かっていたが、なぜか、気になった。

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