2-2.血の盟約
レオノーラが布巾をたたみながら言った。
「一つ、提案があるのだけど」
「はい」
「あなたと私の間で、盟約を結びたいの」
私は首を傾けた。盟約という言葉の意味は分かる。契約の一種だ。ただ、会ってから半日も経っていない相手に言われると、少し情報の整理が必要だった。
「盟約、というのは」
「血の盟約よ」とレオノーラが言った。「吸血鬼の文化に古くからあるもので、互いの血を用いて結ぶ契約。破った場合は、術式が発動して……まあ、命がなくなるわ」
命がなくなる。
私はその言葉を受け取って、しばらく処理した。初対面で命懸けの契約を持ちかけられるのは、一般的ではないはずだ。少なくとも私の中の何かが、それは普通ではないと言っていた。
「内容を聞いてもいいですか」
「もちろん」とレオノーラが言った。「互いの秘密を守る、それだけよ」
「互いの、秘密を」
「そう」
私はもう一度首を傾けた。
「私には現時点で、秘密と呼べるものがありません。記憶がないので」
「あなたが知らない秘密を、私が持っているとしたら?」
静かな声だった。眠そうな目が、また真剣なものに変わっていた。私はその目を見返した。知っている。この人は私のことを、何か知っている。昨日からそう思っていた。
「私についての秘密を、あなたが持っている」
「ええ」
「それを私には話せない」
「今は話せない、が正確ね」
今は、という言葉を聞いて、私は少し考えた。この人は嘘をついていない、と思った。話せない理由があって、その理由には時期がある。今は話せないが、いずれ話す可能性がある。そういう意味に聞こえた。
「盟約を結べば、あなたは私の秘密を守る義務を負う。私もあなたの秘密を守る義務を負う」
「そうなるわね」
「私が知らない私の秘密を、あなたが守る、ということですか」
レオノーラが小さく笑った。疲れた顔に似合わない、少し柔らかい笑い方だった。
「そういうことになるわ。おかしな話でしょう」
「おかしいですね」と私は正直に言った。「でも、断る理由が今のところ見つかりません」
レオノーラが私をじっと見た。
「普通は怖がるものよ、命懸けの契約を」
「情報が少ないと怖がるタイミングが分からないと、昨日ダニエルさんにも言いました」
また少し笑った。今度はもう少し長く。でも今度の笑い方は、少し違った。何かを確認したような、あるいは何かを惜しむような、そういう笑い方だった。
「あなたは面白い人ね」
「ダニエルさんにも同じことを言われました」
「あの人と私が同じことを言うのは珍しいわ」
レオノーラが棚から小さなナイフを取り出した。銀製ではなく、魔法陣が刻まれた特殊な合金だった。儀式用のものだと分かった。
「やり方を説明するわ」と彼女は言った。「あなたの左手の親指の先を、少しだけ切る。私も同じ場所を切る。それを重ねて、私が術式を発動させる。痛みは一瞬よ」
「分かりました」
私は左手を差し出した。
ーーー
ナイフの刃は鋭かった。
親指の先に当てられた瞬間、薄い切り傷がついた。血の玉が浮かぶ。痛みはほとんどなかった。先ほどの吸血と比べれば、何でもない。
レオノーラが自分の親指も切って、私の指先に重ねた。
冷たい指だった。血が混ざる感覚がある。それからレオノーラが目を閉じて、低く短い言葉を唱えた。言語は分かったが、意味が少し古い形式だった。誓いの言葉、だと思った。
次の瞬間、何かが動いた。
魔法とはこういうものか、と私は思った。目に見えるわけではない。でも確かに、何かが締まる感覚があった。胸の奥のあたりで、細い糸が結ばれたような感じ。あるいは、何かに署名したような。
レオノーラが目を開けた。
「終わりよ」
指を離すと、傷はすでに塞がっていた。レオノーラが治癒魔法を使ったのだろう。私の方の傷も同じく閉じている。
「これで盟約が成立したわ」と彼女は言った。「あなたが私の秘密を外に漏らせば、術式が発動する。私も同じ。どちらが先に破っても、結果は同じよ」
「分かりました」
「……本当に怖くないの?」
私は考えた。怖い、という感情が今の自分の中にあるかを探した。やはり見つからなかった。代わりに見つかったのは、別の感覚だった。
「怖くはないですが、重い、とは感じます」
「重い?」
「胸のあたりに何かが結ばれた感じがする。術式の感覚かもしれないし、違うものかもしれない。でも軽くはないです」
レオノーラが少し目を細めた。
「そう」と言って、それ以上は何も言わなかった。
彼女はナイフを片付けて、椅子に腰かけた。疲れた顔が戻ってきた。先ほどの真剣な目が、また眠そうな目に戻っていく。
「あなたに一つだけ言っておくわ」
「はい」
「私はあなたの味方よ」とレオノーラが言った。
一瞬だけ、間があった。
「それだけは、今日から確かなことよ」
私は少し黙った。
味方という言葉の重さを、今の自分は正確に受け取れない。でも、この人が嘘をついていないことは分かった。この人の目は、ダニエルの目と違う種類の静けさを持っている。ダニエルの目が「荒れた後に凪いだ海」なら、レオノーラの目は「何かを知った上で穏やかでいる人の目」だ。
「ありがとうございます」と私は言った。
レオノーラが頷いた。そしてほとんど瞬時に、机に突っ伏した。
「……少し寝ていいかしら」
「どうぞ」
「甲板にアンヌがいるから、行って」
私は立ち上がって、医務室のドアに向かった。扉を開ける前に、一度だけ振り返った。レオノーラはすでに目を閉じていた。金色の髪が机の上に広がって、寝ているのか起きているのか分からない。
でも、その手が机の上でわずかに私の方を向いていた。
握手の途中で止まったような形に、見えた。
なぜか目が離せなかった。理由は分からなかった。
私はドアを閉めて、廊下を歩き出した。胸のあたりの重さは、まだそこにあった。術式の感覚か、それとも別の何かかは、まだ分からなかった。でも今は、それでいいと思った。
情報は少しずつ増える。怖がるのはその後でいい。




