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-新-猫少女と竜の海賊  作者: u-nyu
(1部)1章:港町の奴隷
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1-4.夜の船室(第一夜)

 与えられた部屋は、狭かった。


 寝台一つと小さな棚、丸窓が一つ。それだけの部屋だった。寝台には毛布が畳まれて置いてあって、棚の上に水差しと布巾がある。おそらく誰かが用意してくれたものだ。誰が、とは分からない。


 私は部屋の中央に立ったまま、しばらく動けなかった。


 動けない、というのは語弊がある。動こうと思えば動けた。ただ、次に何をすべきかの判断が、珍しく遅かった。今日という日に起きたことが多すぎて、処理の順番に迷っていた。


 とりあえず、水を飲んだ。


 冷たくて、かすかに塩の味がした。港町の水だろうか。飲み干してから布巾を濡らして顔を拭うと、頬の戦化粧が少し滲んだ気がした。消えはしなかった。これは水では落ちないものだ、と知っている。なぜ知っているかは、やはり分からない。


 寝台に腰を下ろした。


 ふと足元を見た。


 足の裏が黒かった。石畳の埃と汚れが染みついていて、かかとと指の付け根には水ぶくれがいくつかできていた。そのひとつが破れて、薄皮が捲れていた。足の小指の際に小さな切り傷もあって、もう血は止まっていたが、傷口に細かい砂粒が食い込んでいた。


 布巾をもう一度濡らして、足の裏に当てた。汚れが布に移っていった。水ぶくれは、破れていない方はそのままにした。破れた方は感染が気になったが、今夜できることは洗うことだけだ。砂粒を丁寧に取り除いた。切り傷は浅い。問題ない。


 そういう判断が、自然に出てきた。自分の足の傷を見る目が、誰か他の人間の傷を見るときと変わらなかった。他人を診るように、淡々と。いつそれが身についたのかは、やはり分からない。


 それに、今日これだけ歩いて、これだけで済んでいることも。痛みがなかったわけではないはずだ。ただ、痛みを痛みとして受け取っていなかっただけだ。足の裏の傷より、今日起きた出来事の方がずっと多くの場所を占めていた。そちらの方に、ずっと気を取られていた。


 木の軋む音がした。固めの寝台だったが、今日一日裸足で歩き続けた足には十分だった。横になると、天井の木目が目に入った。節の模様が、遠い記憶の中の何かに似ている気がしたが、何に似ているかまでは思い出せなかった。


 波の音が聞こえる。


 船が揺れている。わずかな揺れで、気にならない程度だった。むしろ規則的な揺れが、今日の出来事で張り詰めた何かを少しずつほぐしていくような感じがした。


 シェリー、と心の中で呼んでみた。


 やはり自分の名前という感じがしなかった。でも不思議と、嫌でもなかった。ダニエルが何も説明せずに、ただ「シェリー」と言い切った感じ。理由もなく、根拠もなく。あの簡潔さが、この名前に妙な安定感を与えていた。名前に重い意味を乗せられるより、この方が今の自分には合っているかもしれない。


 今の自分。


 私は自分の両手を持ち上げて、天井に向けた。鉄の輪が手首に光を反射させる。これはまだ外されていない。外されないということは、まだ正式には仲間ではないということだろうか。あるいは単に、外す鍵を持っている人間がまだ来ていないだけかもしれない。


 ベネディクトが盗聴器を握り潰したときの音を思い出した。


 小さな音だった。でも部屋の空気が変わった。ダニエルの表情が変わった瞬間でもある。エルフという単語に対するあの反応は、驚きではなかった。知っていたが、改めて確認されたというような、重たい納得の顔だった。


 この船は何かに関わっている。


 それが私にとって危険かどうかは、まだ判断できない。ただ、少なくとも今夜は安全だと思った。根拠は曖昧だが、ダニエルの目だ。あの静かな目は、私を害するためにここに連れてきた目ではない。長年の直感が、そう言っていた。


 長年の直感。


 私は苦笑した。長年、などとはおかしな話だ。私には長年の記憶がない。でも身体の中のどこかに、人を見る目だけは残っているらしかった。医療の知識と同じように、戦い方と同じように、それも身体に染み付いた何かのひとつなのかもしれない。



ーーー



 うとうとしかけたとき、廊下で声がした。


 複数人の話し声で、内容までは聞き取れなかった。やがて遠ざかって、また波の音だけになる。私は目を開けたまま天井を見ていた。


 甲板で見た緑の目の女のことを、考えた。


 黒髪で、褐色の肌で、体のあちこちに傷跡があった。猫獣人だった。私と同じ種族だということになる。この船に猫獣人が二人いるのは偶然だろうか。偶然にしては、あの女の私を見る目が、少し、おかしかった。


 おかしい、というのは正確ではない。


 堪えている目だった。何かを言いたくて、言えない。あるいは言うべきかどうか、迷っている。そういう目だった。長年の直感、とやらが、そう判断した。


 でも私には、あの女と何の接点もない。記憶がないのだから当然だ。


 私はゆっくりと目を閉じた。今夜考えられることは考えた。残りは明日以降、情報が増えてから判断すればいい。今の自分にできることは、身体を休めることだ。


 眠る前に、一度だけ思った。


 胸の真ん中に、穴がある。


 今日ずっと、そこにあった。痛いわけではない。ただ、そこだけ空気が薄い。何かが足りない感覚。何が足りないのかは分からない。名前も、顔も、何も思い出せない。


 でも確かに、何かがない。


 誰かが、いない。


 それだけが、はっきりしていた。


 波の音を聞きながら、私はゆっくりと意識を手放した。シェリーという名前を、もう一度だけ心の中で呼んで。それが今夜の、最初で最後の自分への呼びかけだった。

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