5-4.傷の地図
切り出したのは、私の方だった。
夕食の後、医務室に戻ったレベッカを呼び止めて言った。
「傷口の確認をしたいのですが、その前に体を洗う必要があります」
レベッカが私を見た。
「洗浄魔法でいい」
「創部は直接確認したいです。術後三日経っていますが、まだ汗と海水の塩分が残っている状態は良くない。感染のリスクは低くても、ゼロではないので」
沈黙があった。
「一人でできる」
「縫合線に直接手が届きますか。腹部の深さを考えると、自分では確認できない角度があります」
またの沈黙だった。今度は長かった。
レベッカは何かを考えているときに特定の場所を見る。今は床の少し先を見ていた。反論を組み立てているのか、諦める理由を探しているのか、私には分からなかった。
「……分かった」
声が低かった。これ以上言葉を出したくない、という声の低さだった。
ーーー
医務室の奥に小さな洗い場があった。木の床と、水を汲み置く桶と、それだけの部屋だった。
私は桶に湯を用意した。温度を確かめた。少し熱めにした。体を温めることで血流が良くなり、傷の状態が分かりやすくなる。
レベッカが入ってきた。扉を自分で閉めた。
灯りは一つだった。蝋燭ではなく小さな魔道具の光で、揺れなかった。その分、影の輪郭がはっきりしていた。
「上だけ脱いでください」と私は言った。「確認は腹部と背中が主になります」
レベッカが私を見た。一秒あった。それからシャツの裾に手をかけた。
私は桶の方を向いた。
衣擦れの音がした。それから布が落ちる音がした。
「いい」とレベッカが言った。
振り返った。
レベッカが木の台に座っていた。背中が向いていた。
見た。
見たことはあった。戦闘の後も、手術中も、傷跡はこの目に入っていた。でも今は、照明が静かで、揺れがなくて、時間があった。医療者として見るための条件が揃っていた。
傷跡が、背中全体にあった。
細いもの、太いもの、浅いもの、深く抉れた跡のもの。方向もばらばらだった。それが示すのは、一度の出来事ではないということだ。何年もかけて積み重なった。それぞれに、それぞれの夜があった。
布を湯に浸して、絞った。湯が少し余分に残っていた。
「始めます」
返事はなかった。
肩から始めた。布を当てた瞬間、温かい湯が染み出して褐色の肌に広がった。肩甲骨の上を伝って、背骨の方へ流れていく。日焼けした濃い褐色の肌の上を、湯が透明な線を引きながら落ちていった。
右の肩甲骨の上に、横に走る傷跡があった。古い。表面が滑らかになっていた。布が傷跡の縁を越えるとき、微妙な段差があった。皮膚が盛り上がって、また平らになる。その変化を、手のひらが拾っていた。
レベッカは動かなかった。
肩甲骨の下へ。肋骨に沿って走る傷が二本あった。一本は細く、もう一本はその三倍の幅があった。幅の広い方は、傷跡の中央が少し窪んでいた。深く抉れた跡だ。布がその窪みに沿って動いた。湯が窪みに溜まって、重力に従って流れた。白く浮いた傷跡と、褐色の肌と、透明な水の筋が、灯りの中で妙に鮮明だった。
脊椎の右側に、縦に長い傷があった。深かったはずだ、と傷跡の幅から読めた。布を当てながら、指先が傷の端を確認した。ここを受けたとき、何が起きていたか。私には分からない。でも身体が分かる、という気がした。こういう傷を負うとき、人はどんな状況にいるか。
布を動かしながら、私は傷を読んでいた。
医療者として傷を読むとき、原因と経過を見る。それが今も起きていた。でも今夜は、それと別に何かがあった。
この傷たちを、知っている気がした。
初めて手術のときに感じたものと同じだった。知識として知っているのではなく、もっと手前にある何かだった。
「背中は問題ありません」と私は言った。声が少し平らになった気がした。「前を確認します」
間があった。
レベッカがゆっくりと向き直った。
ーーー
正面を向いたレベッカを、私は見た。
胸から腹にかけて、背中と同じように傷跡があった。数は背中より少なかった。でも一本一本が深かった。防御が間に合わなかったときの傷だ、と読めた。前から受けたということは、相手の顔が見えていた。それでも受けた。
布を湯に浸して、また絞った。
鎖骨の下から始めた。
レベッカの目が、私を見ていた。真っ直ぐに。避けていなかった。今は逃げない、と決めた目だった。
布が鎖骨の下に触れた。湯が肌に染み出した。背中と同じように、褐色の肌の上を透明な筋が伝っていく。胸の中央を避けて、肋骨の方へ流れていく。灯りがその水の筋を拾って、一瞬だけ光った。
肋骨の際に沿って布を動かした。濡れた肌が灯りを反射して、傷跡の白さが際立った。褐色の中に白く浮いた線が何本も並んでいる。背中より数は少ないが、一本一本が深かった。布が傷の縁を辿るたびに、段差を指が感じた。古い傷の、ざらりとした皮膚の質感だった。
腹に差し掛かった。
縫合線が見えた。自分がつけた縫合だった。均一に並んでいた。経過は良好だった。癒着封印の魔力膜がまだわずかに残っていた。
布を当てた。縫合線の周囲を、丁寧に。
レベッカの腹が、一度だけ動いた。呼吸が入ったのだと分かった。
縫合線の確認を終えて、その左側へ動いた。
臍の横。
布が止まった。
止まった理由を、私は少し遅れて認識した。手が止まっていた。意図していなかった。でも止まっていた。
臍の横の、一本。他の傷と同じように古かった。表面も滑らかだった。形状から見れば、他より特別ではなかった。
でも、知っていた。
この傷を、知っていた。
布を、外した。
医療的な判断だった、と思う。傷跡の質感を直接確認する必要がある、と頭が判断した。正しい判断かどうかは、今の私には分からなかった。
指先が、直接、傷に触れた。
滑らかだった。古い傷の皮膚は弾力が失われていて、周囲より少し硬い。でも温かかった。体温が指先に伝わってきた。レベッカの体温が。
指が傷跡の縁を辿った。縦に細長い、一センチほどの傷だった。ゆっくりと、端から端まで。
レベッカが、息を呑んだ。
小さな音だった。意図していない音だった。私の指が動いた瞬間に来た、反射的な音だった。
「……シェリー」
声が、低かった。いつもより低くて、かすれていた。
私は顔を上げた。
レベッカが私を見ていた。さっきまでの「逃げない」目ではなかった。何かを堪えているような、あるいは何かを問いかけているような目だった。瞳の縦長の黒が、灯りの中で細くなっていた。
「続けろ」
短い言葉だった。でも声の端が、かすかに揺れていた。
私は指を動かした。
その傷の上を、もう一度。ゆっくりと。
レベッカの腹が、小さく動いた。呼吸が乱れた。気づかれないほど小さな乱れだったが、私には分かった。この人の呼吸のリズムを、手術の夜から知っていた。今の変化は、痛みではなかった。痛みなら別の変化が来る。これは——
レベッカの手が、膝の上で、ゆっくりと握られた。
指先から、何かが来ていた。温かかった。傷跡の温度ではなく、もっと内側から来るような温かさだった。それが私の指から、手のひらへ、腕へと伝わってくるような気がした。
私の身体の奥の何かが、それを知っていると言った。この温かさを、知っていると。
私は自分の右手を見た。
布を持っていない、その手だった。昨日も、一昨日も、毎日誰かに触れている手だった。医師の手のはずだった。
でも今この瞬間、それ以外の何かを持っていた。
「シェリー」とレベッカが、また言った。
今度は問いかけではなかった。名前を置くような、その言い方だった。
私は顔を上げた。
レベッカの目が近かった。台に座っていて、私が屈んでいたから、視線の高さが近かった。それだけの理由だった。それだけの理由のはずだった。
何かを言おうとした。
言葉が来なかった。
医療者として言うべきことは分かっていた。「確認が終わりました」「経過は良好です」「明日また状態を見ます」。全部、頭の中にあった。
でも口が開かなかった。
レベッカも何も言わなかった。
灯りが揺れなかった。船が揺れた。波の音がした。それだけだった。
どのくらいの時間が経ったか。
私は布を桶に戻した。ゆっくりと。考えながら、ではなく、そうする以外になかったから、そうした。
「確認は終わりました」と私は言った。「経過は良好です」
声が、少し違った。いつもより低かった。
レベッカが息をついた。長い、静かな息だった。
「そうか」
それだけだった。
私は立ち上がった。扉の方に向かった。扉に手をかけて、止まった。
振り返らなかった。
「傷は、どれも、きちんと治っています」
それだけ言った。
言いたかったのはそれだけではなかった。でも残りは、言葉にならなかった。なぜ言いたかったのかも、分からなかった。ただ、言わなければならない気がした。
レベッカから、返事はなかった。
でも後ろで、もう一度、長い息の音がした。




