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-新-猫少女と竜の海賊  作者: u-nyu
5章:影の名前
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5-3.次の航路へ

 出発は朝だった。


 夜明けの少し前に目が覚めて、甲板に出た。空がまだ暗かった。東の端がわずかに白くなりかけていて、そこだけ夜と朝の区別がついた。


 波が穏やかだった。風も弱かった。昨夜の宴の名残が甲板のどこかに残っているかと思ったが、片付けは終わっていた。料理番が早起きしたのか、アンヌが残って片付けたのか、分からなかった。どちらでもありそうだった。


 乗組員たちがそれぞれの持ち場に就き始めた。出発前の確認をしている者がいた。ロープを確認している者がいた。短い言葉が交わされた。特に急いでいる様子もなく、でも淀みなく、それぞれが動いていた。


 ダニエルが船首の方に立っていた。遠くを見ていた。何を見ているのかは分からなかった。次の航路の方角なのか、それともただそこに立っているだけなのか。近づいて聞こうとは思わなかった。あの人が遠くを見ているときは、邪魔をしない方がいいと、なんとなく思っていた。


 ベネディクトが甲板の横を歩いていった。私を見た。軽く頷いた。それだけだった。昨夜、階段の途中で目が合ったときと同じだった。何も言わないのが、この人の常だった。


 手すりのそばに立った。


 昨夜聞いた名前がまだ頭の片隅にあった。メイヴァ。何者なのかは分からないままだった。それでよかった、という気もしていた。今の自分には、あの名前が何なのかを調べる手段がない。でもいつか、調べる機会が来るかもしれない。そのときのために、名前だけは覚えておこうと思った。



ーーー



 空が明るくなると、帆が張られた。


 風を受けた帆が膨らんだ。船が動き始めた。波を切る音が変わった。ポルト・ネーロが、少しずつ遠ざかっていった。


 あの港に来たのは、ずいぶん前のことのような気がした。奴隷商人に連れられて坂道を歩いたこと、競り台の上から港を見渡したこと、ダニエルに競り落とされたこと。記憶はあった。でも今の自分とは別の話のような気もした。あのときの自分と今の自分が、同じ人物だとは、まだ半分しか信じられなかった。


 甲板の乗組員たちが動いていた。掛け声が聞こえた。誰かが笑った。アンヌが小走りで何かを運んでいた。エリカが監視塔に上っていくのが見えた。ビリーが水平線の方を見て、「いい風ねぇ」と言った。


 この船に乗った日から、色々なことがあった。


 仕事を覚えた。手術をした。レベッカのことを知った。名前をもらった。仲間として認められた。それ以外にも、もっと細かいことが積み重なっていた。何かを知るたびに、自分の輪郭が少しだけはっきりしていく感じがあった。記憶がないまま、それでも少しずつ。


 アンヌが「おはよう」と言いながら通り過ぎた。手に工具を持っていた。どこかを修繕しに行くらしかった。「今日は天気いいねえ」と付け加えて、行ってしまった。


 その言葉が、なんでもないのに少し温かかった。おはよう、今日は天気がいい。それだけのことが、今の自分には十分だった。ここにいる、ということの証明として、十分だった。



ーーー



 しばらくして、甲板が落ち着いた。


 出発直後の慌ただしさが過ぎると、それぞれが持ち場に戻り、船の上が静かな動きになった。波の音と、風の音と、帆がはためく音だけが続いた。


 私は手すりにもたれて、水平線を見た。


 どこまでも海だった。空との境界が、薄い光の中でぼんやりしていた。雲が少しあった。鳥がいた。遠くに島の影が見えたが、すぐに消えた。


 ライラ。


 その名前を、声には出さずに呼んだ。


 記憶の中にはいなかった。顔も声も分からなかった。名前だけがあった。レベッカから聞いた名前。ライラという名前の人が、常夜の国の大学病院で眠り続けている。私がどうしても助けたかった人、だったらしかった。記憶がない今の私には、その「どうしても」がどんな感情だったかを思い出せなかった。


 でも、名前を呼んだとき、胸の真ん中に何かがあった。


 重さのようなもの、あるいは温かさのようなもの。どちらとも言えなかった。ただ、そこにあった。記憶がないのに、なくなっていないものがある、ということだった。


 レベッカが「ライラはずっと笑っているような子だった」と言っていた。あの廊下での会話の中で、一言だけ言った。それ以上は言わなかった。でもその一言が、今も頭の中にあった。ずっと笑っているような子。その子が今、眠り続けている。


 常夜の国に、あなたはいるんだね。


 頭の中でそう思った。


 いつか会いに行く。レベッカがそれを話してくれたとき、言葉より前にそう決まっていた。どうやって行くのか、何をすれば助けられるのか、今の自分には分からなかった。医療の知識があっても、眠らせ続けている毒を解く方法は、まだ見つかっていない。でも方法がないから諦める、という気持ちにはならなかった。


 身体がそれを知っているのかもしれない、と思った。記憶がなくても、あの人を救いたいという気持ちが、どこかに残っているのかもしれなかった。


 水平線が光り始めた。太陽が海の向こうから上がってきた。光が波の上に広がった。甲板が明るくなった。


 帆に風が当たる音がした。船が加速した。



ーーー



 後ろから足音が来た。


 レベッカだった。


 手すりの少し離れた場所に来て、同じように水平線を見た。私を見なかった。私も、最初は彼女を見なかった。


 しばらく、二人で並んで海を見た。


 何も言わなかった。でも不思議と、沈黙が重くなかった。秘密があったときの緊張がなくて、かといって何もかも解決したわけでもない。その中間くらいの、ちょうどいい距離感だった。


「次の寄港地はどこですか」と私は聞いた。


「セラマ」とレベッカが言った。「南の島だ。補給と、情報の回収を兼ねる」


「遠いですか」


「三日くらいだ」


 私は頷いた。三日間、この海の上にいる。それだけのことが、今は普通のことだった。


 少しの間、二人で並んで海を見た。


 何も言わなかった。言う必要がなかった。廊下で話した夜のことも、手術の夜のことも、今ここに積み重なっている。全部がまだ重いわけではなかった。でも全部が、消えているわけでもなかった。


 そのうちに話すことも、出てくるかもしれない。でも今日じゃなくていい。今日は、この海があって、この風があって、それで充分だった。


 しばらくしてレベッカが「行くか」と言った。


「はい」と私は言った。


 レベッカが先に歩いていった。私は少しだけ水平線を見てから、後に続いた。


 太陽はもう高かった。海がよく光っていた。船が走っていた。どこかへ向かっていた。

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