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-新-猫少女と竜の海賊  作者: u-nyu
5章:影の名前
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5-2.メイヴァ

 宴の火が低くなった頃、甲板から人が減っていった。


 最初に歌っていた乗組員は、いつの間にか甲板の隅で眠っていた。踊っていた者たちも座り込んでいた。料理番が黙々と片付けを始めていた。ビリーが誰かの膝を枕にして目を閉じていた。起きているのか眠っているのか判断できなかったが、顔が穏やかだった。


 アンヌとエリカはまだ話し込んでいた。二人が並んで笑っているのが見えた。何を話しているかは聞こえなかった。


 私は空になった杯を持ったまま、甲板の端へ歩いた。宴の輪を外れると、煙と酒の匂いが薄くなり、海の匂いが戻ってきた。風があった。波が船底に当たる音が、低く続いていた。


 手すりから海を見下ろした。星が多い夜だった。波の表面に、細かく砕けた星の光が揺れていた。


 今夜のことを整理しようとした。でもうまくいかなかった。整理するより、まだ頭の中で続いている感じがした。


 仲間として認める、とダニエルが言った。あのとき、数十人分の視線が来た。私はその視線を受けながら何も言えなかった。言葉より先に何かが来た。それが何だったかを今も上手く言えなかったが、重いものではなかった。


 宴の途中、ベネディクトが隣に座った。「今回の仕事は、よくできていました」と彼は言った。「レベッカが生きているのはあなたのおかげです」。礼を言う機会がなかったので、と言い添えた。表情はほとんど変わらなかった。でも言葉は出た。


 それで、私も聞いた。あなたと船長は、私のことを知っていますか、と。


 ベネディクトは「今夜は宴です。その話は、また別の機会に」と言った。答えではなかった。でも否定でもなかった。


 あの「別の機会に」が、まだ頭の中に残っていた。


 甲板の奥でレベッカを探したが、姿が見えなかった。宴の途中からいなくなっていた。どこへ行ったのかは分からなかったが、確かめに行こうとは思わなかった。あの人はひとりになりたいときにひとりになる。それがあの人のやり方だということは、少しずつ分かってきていた。


 空になった杯を返しに行こうと思った。甲板から船内に降りる階段が、手すりのすぐそばにあった。一段降りたところで、声が聞こえた。



ーーー



 ダニエルとベネディクトの声だった。


 階段の途中で、足が止まった。声は下から来ていた。廊下の奥か、階段に近い部屋の中か、どちらかだった。聞こうとしたわけではなかった。ただ声が届いた。


「——東側の海域で、商船への介入が三件確認されている」


 ベネディクトが言った。いつもと変わらない声だった。抑揚が少なく、均一で、感情が乗っていない。


「積み荷の選別が精緻すぎる。ただ奪うのではなく、目的のものだけを抜いている」


「何を抜いた」とダニエルが言った。


「医療品だ。外科用の器具と薬品を中心に。他のものには手をつけていない」


 私は手すりに手をかけたまま、動かなかった。


 医療品だけ、という言葉が引っかかった。


 略奪なら手当たり次第に持っていく。価値があって運べるものを優先する。医療品だけを選んで抜く、というのは目的が違う。何かに使う気でいる、ということだ。誰かを治療するのか、それとも別の用途か。知識として考えれば分かる部分もあったが、なぜ内海でそれほど大量の医療品が必要なのかは見えなかった。


「場所は」


「ポルト・ネーロから東の海域。この一月の話だ」


 ダニエルが少し間を置いた。


「エルフ商業連合が内海で動きを活発化させているのは確かだ」とベネディクトは続けた。「以前と比べて、動き方の精度が上がっている。実行部隊の質が変わっている」


「理由が分かるか」


「一つ、心当たりがある」とベネディクトが言った。「ただし、確認は取れていない」


 短い間があった。それまでの会話の流れと、少しだけ異なる間だった。次に来る言葉を、どう扱うか考えているような間だった。


「メイヴァが動いているとすれば、話が変わる」


 ダニエルが黙った。


 その黙り方が、それまでの会話と違った。考えている沈黙ではなかった。もう分かっている、という種類の静けさだった。名前を一つ聞いただけで、場の空気が変わった。


 私はそれを感じた。


 声が届いているだけなのに、甲板の空気とは切り離された重さが来た気がした。宴の音はまだ上から届いていたが、その音が遠くなった。


「確認が取れる見込みはあるか」とダニエルが言った。


「メイヴァ直轄の動きは情報が出にくい。時間がかかる」


「分かった。引き続き頼む」


「はい」


 足音が近づいてきた。私は一段上がって手すりから離れた。ベネディクトが階段を上がってきた。私の顔を見た。一瞬だけ目が合った。


 彼は何も言わなかった。そのまま宴の方へ歩いていった。



ーーー



 甲板に出て、手すりに肘をついた。


 さっきと同じ海だった。波の音も変わっていなかった。


 メイヴァ。


 その名前を、頭の中で繰り返した。


 知らない名前だった。エルフ商業連合というものも、私には具体的な輪郭がなかった。内海の政治がどう動いているかも、どの勢力がどこで何をしているかも、ほとんど分からなかった。記憶がないから、だけではなかった。それよりも、私にはまだそういう話が届く場所がなかった。知識として持っている情報があったとしても、自分のこととして考えたことがなかった。


 でもその名前は残った。


 知識として残ったのではなかった。ダニエルが黙ったときの空気と一緒に残った。


 数十人を率いて海戦を指揮したダニエルが、名前を一つ聞いただけで黙った。ベネディクトが確認を取れていないと断りながら、それでもその名前を出した。二人がその名前に対して持っている重さが、声の質に出ていた。それだけははっきりと分かった。


 私には何も分からない。でも二人には分かる。


 その差が、名前の重さになっていた。


 宴はまだ続いていた。火が低く揺れていた。ビリーが目を開けて誰かと笑っていた。アンヌが立ち上がって背伸びをした。乗組員の声が低く混ざり合っていた。


 今夜は色々なことがあった。仲間として認められた。レベッカのことを知った。ベネディクトの「別の機会に」という言葉があった。そしてこの、聞いたことのない名前が来た。


 全部が同じ一日の中に入っていた。多すぎる気がしたが、不思議と重くはなかった。


 私は少しの間、手すりにもたれて海を見ていた。


 波の音が規則的に続いていた。星の光が水面で揺れていた。


 メイヴァ。


 もう一度だけ繰り返した。何者なのかは分からなかった。でもその名前を、今夜聞いた、ということは、残った。


 宴の火がひとつ、消えた。

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