4-5.ライラという名前
「私には妹がいる」とレベッカは言った。
その言葉が、どこに向かっているのか、私にはすぐには分からなかった。
レベッカが少し間を置いた。言いにくいのか、言い方を探しているのか、どちらかが判断できなかった。
「猫獣人だ。私より少し年下で、私とは全然違う感じの——」
また止まった。
「穏やかで、静かで、私が無骨なぶん、あいつはそうじゃなかった」
言葉が途切れた。それから続けた。
「あなたの侍女になった」
侍女。
私はその言葉を聞いて、体の中の何かが動いたのを感じた。動いた、というより、静止した。さっきまで動いていたものが、その言葉で止まった。
侍女。あなたの。
この人の妹が、私の侍女だった。そしてその人は今、眠っている。暗殺の夜に、私の前に立って、毒を受けて、眠っている。
「あなたが亡命した後、常夜の国に一緒に来た。あなたのそばにいた。ずっと」
レベッカが、窓枠に触れた手に少し力を入れた。
「暗殺未遂の夜、あなたの部屋に侵入者が入ったとき——妹が、前に出た」
前に出た。
その意味が、分かった。かばった、ということだ。
「毒を受けた。私が駆けつけたときには、もう倒れていた」
廊下が静かだった。波の音が低く続いていた。
「今も、常夜の国の大学病院で眠り続けている。目覚めない」
私は何も言えなかった。
言葉が出なかったのではなく、言葉より前に来るものがあった。胸の中に何かが広がっていた。喜びでも悲しみでもない、もっと別の何かだった。輪郭のないものが、広がっていた。
眠り続けている。目覚めない。
その事実が、どこかで知っていた事実と重なっていた。知っていた気がする、という感覚が、また来ていた。でも今度は、ずっと強かった。
この人のことを、私は知っている。
まだ名前を聞いていない。顔も知らない。何も知らない。でも知っている。体の奥のどこかが、知っていると言っていた。
ーーー
「名前は」と私は聞いた。
声が変だった。自分でも分かるくらい、声が変だった。かすれている、というのとも違う。ただ、いつもの声ではなかった。
レベッカが私を見た。
少しの間があった。その間に、レベッカが何かを確認しているのが分かった。この名前を言っていいかどうか、ではなく——この名前を言う準備が、自分にあるかどうかを確かめているような間だった。
「ライラ」とレベッカは言った。
声が、わずかに揺れた。レベッカの声が揺れるのを、私は初めて聞いた。
廊下が、止まった気がした。
ライラ。
その名前が来たとき、胸の真ん中に何かが落ちた。穴が開いたような感覚だった。穴、というより——ずっとそこにあった穴に、初めて名前がついたような感覚だった。
埋まらない穴の感覚は、この船に乗った最初の日からあった。何かを失っている。何かが足りない。その感覚の正体を、私はずっと言葉にできなかった。
今、それに名前がついた。
「ライラ……」と私は言った。
声に出すと、喉の奥が締まった。涙ではなかった。でも涙に近い何かだった。体の奥から来るものだった。記憶ではなく、もっと深いところから来るものだった。
知っている。
この名前を、知っている。
どこで聞いたか分からない。いつ呼んだか分からない。でも今、声に出した瞬間に、この名前が自分のものだと分かった。知識として知っているのではなく、もっと根本的な場所で知っていた。この名前を呼んだことがある。この名前に向かって、何かを感じたことがある。
レベッカが何も言わなかった。
私は廊下の壁に手をついた。手のひらが、木材の冷たさを感じた。今、ここにいる、という確認のような感触だった。
「その子を」と私は言った。
言葉が続かなかった。続けようとした。喉が動かなかった。
でも、続けた。
「その子を……私は、探していたんだと思う」
言ってから、自分でもその言葉の意味が分からなかった。探していた、というのは何を意味するのか。記憶がないのに、何かを探していたのか。
でも、そうだと思った。それ以外に言い方がなかった。
この船に乗ってから、何かが足りないと思っていた。何かを探している感覚があった。目的があるような、行き先があるような、でもそれが何なのか分からないような感覚。記憶がないのに消えない喪失感。「何かを失った」という確信。
それが今、ライラという名前に向かっていた。
常夜の国の病院で、眠り続けている。
その人のことを、私は知っている。知っていた。記憶がないのに、体が知っていた。ずっと、知っていた。
レベッカが静かに言った。
「あなたが医術を学んだのは、ライラを救うためだった」
私は顔を上げた。
「常夜の国で、あなたはずっとその研究をしていた。史上最年少で学位を取って、それでも諦めなかった。ライラを目覚めさせる方法を、ずっと探していた」
体が、震えた。
震えているのが分かった。どこからか来る震えだった。手が、足が、背中が、小さく震えていた。
そういうことだったのか、と思った。
この手が覚えていること。医術の知識。自然に動く手。処置のたびに「できる」と感じる根拠のない確信。レベッカの手術に「できます」と名乗り出たあの感覚。
それらの全部に、理由があった。
理由があって、方向があって、向かっている先があった。
ライラ、という名前の先に。
そのことが分かったとき、震えが少し収まった。震えが収まって、代わりに何か別のものが来た。静かな、でも確かなものだった。
廊下が静かだった。
二人とも、何も言わなかった。
さっきまでの沈黙とは違った。問いと答えが終わった後の静けさでも、何かを待っている静けさでもなかった。ここに着いた、という静けさだった。長い時間をかけて、二人がそれぞれ別の場所から歩いてきて、今ここに着いた。
レベッカが壁から手を離した。傷を庇いながら、ゆっくりと体重を移した。疲れているのが分かった。体の疲れだけでなく、もっと別の疲れが顔に出ていた。
でも、それでも。
言った、と思った。
この人は、言った。ずっと言えなかったことを、今日、言った。
「ありがとうございます」と私は言った。
レベッカが私を見た。
礼を言う場面ではない、と思っているかもしれなかった。でも私には、それ以外の言葉がなかった。教えてくれた、ということへの礼だけでなく、もっと別の何かに対しての礼だった。言葉にならないものに対して、言葉として出てきたのが、それだった。
レベッカが何も言わなかった。
ただ、頷いた。
波の音が続いていた。船が揺れた。廊下の先に、灯りが点されていた。




