4-2.この傷跡を、私は知っている
翌朝、レベッカは上体を起こしていた。
私が医務室に入ると、ベッドの上に背を立てて壁に寄りかかっていた。腕を組んで、目は開いていたが、どこかを見ているわけでもなかった。昨日よりも顔色がいい。頬に血色が戻ってきていた。
朝の光が舷窓から差し込んでいた。黒い髪が光を受けて、わずかに艶を見せていた。
私は一瞬、自分の手に視線を落とした。それからレベッカを見た。
黒い髪。猫の耳。私と同じ組み合わせだ、といつも思う。この船ではその二つが重なる人間は二人しかいないと、アンヌが言った。それは知識として分かっていた。でも今朝の光の中で見ると、また別の感覚として来た。
「無理に動かないでください」と私は言った。
「動いてない」
「上体を起こすのも、術後二日目では早い場合があります」
「痛くない」
「痛みがないからといって、傷が回復しているとは限りません」
レベッカが私を見た。何か言おうとして、やめた。私はそれを了承と受け取ってバイタルの確認を始めた。
脈は安定している。体温も正常範囲だ。縫合部位の確認のために、レベッカに上着の裾を上げてもらった。
傷口を見た。縫合線は均一だ。腫れはなく、浸出液もない。経過は良好だった。
確認を続けながら、自然と他の傷跡にも目が行った。
レベッカの腹部には、新しい縫合線以外にも複数の傷跡がある。長いもの、短いもの。白く癒えたもの、まだ色の残るもの。それぞれが違う日の、違う場所の傷だ。戦士の身体というのはこういうものか、と思った。傷跡の数が、生きてきた時間の証になっている。
医療者として、それらを順番に確認した。どれも問題ない。どれも古い。どれも、「気の毒だ」という感情とは別の、淡々とした観察として受け取ることができた。
確認を終えて、一度視線を外そうとした。でも止まった。
臍の横、左側の傷跡。
昨日も見た。おとといも見た。でも今日は、落ち着いて見ることができた。手術中の緊張も、処置の急ぎもない。ただ見ることができた。
古い傷だ。皮膚の変色が薄く、傷跡の縁が滑らかだ。形成が完全に終わっている。刃物による切創で、深い。切り込まれた方向は斜め、体の外側から内側へ向かっている。
受けた、ではなく、取り切れなかった、という印象の傷だ。
何かを防ごうとしながら、一本だけ通してしまった——その解釈が自分の中に生まれたとき、私は少し静止した。
医療的な分析ではなかった。最後の部分は、知識から来ていなかった。
その言葉が、どこから来たのか分からなかった。
ーーー
「確認が終わりました」と私は言った。「経過は良好です」
「そうか」
レベッカが裾を下ろした。私は記録用紙に向かいながら、この傷跡の年数を推測していた。
皮膚の変色具合、傷跡の厚み、周辺組織の状態。医療的な推測として——おそらく十年前後の傷だ。形成が完全に安定していて、周辺の皮膚との境界も明確だ。
それと、もう一つ。
傷を受けたのはまだ成長途中の身体だった可能性がある。皮膚の弾力の回復具合、傷跡の広がり方が、成人後に受けた傷のそれとは少し違う。
十年前後。成長途中の身体。
私は今、何歳なのかを知らない。記憶がないから、自分の年齢も分からない。外見から判断すれば、おそらく二十歳前後だろう。ならば十年前は、十歳前後のとき。
その計算が成り立つとき、何かが胸の中で動いた。
十歳。子供だ。何があったか分からない。でも「何かがあった」という感覚だけが、常にある。大切なものを失った感覚。記憶はないのに消えない喪失感。ずっとそこにある、埋まらない穴のような何か。
その感覚と、この傷跡が。
同じ時期を指している可能性がある。
私は記録用紙に視線を落としたまま、その考えをもう一度確かめた。
可能性がある、というだけだ。確認する方法がない。でも今日、この傷跡を見て、可能性が成り立つことが、昨日より明確になった。
ーーー
「何を考えてる」
レベッカが言った。
私は顔を上げた。レベッカがこちらを見ていた。観察している目だ。先ほどより少し温度が違った。
「傷跡のことを考えていました」
「どの」
「臍の横の、左側の一本です」
レベッカの表情が変わった。変わったと感じたが、どう変わったかを言葉にできなかった。固まった、というほどでもない。でも何かが、一瞬だけ止まった。
「医療的に見て、何年くらい前の傷か考えていました」と私は続けた。「十年前後だと思います。傷を受けたとき、まだ身体が成長途中だったと思います」
「……そうか」
「その頃に、何があったんでしょう」
言ってから、踏み込みすぎたかと思った。でも後には引けなかった。
レベッカはしばらく黙っていた。視線を天井に向けて、波の音だけが続いた。
「昔のことだ」と、レベッカは言った。それだけだった。声に感情はなかった。でも感情がない声には聞こえなかった。感情を、どこかに置いてきた声だった。
間があった。
レベッカがまた口を開いた。「……それだけか」
「はい。今日のところは」
今日のところは、という言い方をしてしまってから、私は少し止まった。続きがある、という意味に聞こえたはずだ。でも否定しなかった。否定するのが、不誠実な気がした。
私も続きを言わなかった。言えることと言えないことの境界が、そのすぐ手前にあった。
「痛み止めは効いていますか」と私は言った。
「ある程度は」
「昼にもう一度確認します。何かあれば呼んでください」
レベッカが頷いた。私は記録をしまって、医務室を出た。
ーーー
廊下を歩きながら、私はずっと考えていた。
黒い髪。猫の耳。緑の目。この船で私と同じ特徴を持つ人間は一人しかいない。
傷跡。十年前後。成長途中の身体。
夢の中の人物。血の出ている背中。手を伸ばしたが届かなかった感覚。
「昔のことだ」——感情を置いてきたような声の質。
私がレベッカの傷跡に最初に「近い」と感じたのは、手術中だった。他の傷跡ではなく、あの一本だけが、別の何かとして来た。なぜあの一本だけなのか。
窓の外に海が見えた。私は立ち止まった。
廊下の端にある洗い場の水桶に、自分の顔が映った。黒い髪。猫の耳。緑の目。
私はその顔を見て、それからレベッカの顔を思い浮かべた。
髪の色が同じだ。耳の形が同じだ。目の色も同じだ。
似ている、ということは知っていた。でも今日、初めてその事実が別の意味として来た。
この傷跡を、私は知っている。
医療者として、ではない。もっと古い場所から、もっと遠い時間の中から、何かが言っている。
知っている、と。
どこで知ったのか。いつ見たのか。その答えはまだ来ない。
でも問いが、初めてはっきりした。
私はあの傷跡を、どこかで見たことがある。
他の傷跡には来なかった感覚が、あの一本にだけ来た。それが答えの一部だ。
廊下の先から、レオノーラの声が聞こえた。昼の回診の準備をしているらしかった。私は水桶から顔を上げて、記録用紙を持ち直した。
仕事がある。今は動く。
でも問いは、消えなかった。




