表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
-新-猫少女と竜の海賊  作者: u-nyu
4章:名乗れない いとこ
18/31

4-1.術後の朝、そして夢の声

 目が覚めたとき、医務室の椅子の上にいた。


 背中が硬くなっていた。首を動かすと、筋肉が抵抗した。どれくらい眠っていたのかは分からない。舷窓の外が白んでいた。夜が明けかけていた。波の音が低く続いていた。戦闘の後とは思えないほど、船の揺れは穏やかだった。


 夢を見ていた、という感覚だけが残っていた。


 何の夢だったか。暗い夜だった。誰かが走っていた。叫び声があって、それからとても静かになった。誰かが私の前に立っていて、その背中に、まだ血の出ている傷が——


 そこで輪郭が崩れた。掴もうとすると、指の間からこぼれる砂のように、細部が消えていった。


 残ったのは、手の感覚だけだった。


 手を伸ばした。届かなかった。その感覚が、目覚めた今もまだ手のひらの中にあった。


 声があった気がした。


 夢の中で、誰かの声がした。叫んでいたのか、呼んでいたのか、はっきりしない。言葉の内容は消えてしまった。でも声の質だけが感覚の端に残っていた。知っている声だった。どこかで聞いたことのある声だった。


 ただ、その「どこか」が分からない。



ーーー



 レオノーラはいなかった。


 机に記録用紙が置かれていて、几帳面な筆跡で数値が時刻ごとに並んでいた。深夜の間も確認して記録して、それから休んだのだろう。最後の記録は夜明け近い時刻になっていた。


 私は記録用紙を確認してから、レベッカのそばへ行った。


 補液細管の流量を確認した。問題ない。創部に熱感なし。呼吸、脈拍、ともに安定している。眠化薬はすでに抜けているはずで、あとは本人が目を開けるかどうかだけだった。


 呼吸は規則的だ。昨夜より顔の色が落ち着いていた。縫合部位を確認した。浸出液はなく、腫れもない。経過は良好だった。


 良好どころか、想定より明らかに速い経過だった。


 理由はいくつか考えられた。昨夜の手術でレオノーラが補助した止血魔法と外科魔法が、組織への侵襲を最小限に抑えた。それが一つ。もう一つは、この人自身の回復力だ。猫獣人は人間と比べて自然治癒の速度が著しく高い。その二つが重なって、今朝の数値になっていた。


 よかった、と思った。それは医療者として当然の感想だったが、少し別の場所からも来ていた気がした。


 眠っているレベッカを、しばらく見ていた。


 黒い髪が枕の上に広がっていた。猫の耳が、髪に半分埋もれるようにして横を向いていた。傷のある頬が、今は静かだった。


 私と同じ色の髪をしている。


 分かっていたことだ。気づいた日から知っていた。でも今朝は、その事実がただの観察として収まらなかった。近い、という感覚が来た。昨夜もそれを感じた。手術中に傷跡を見たとき、手術が終わったとき、椅子で目を閉じたとき。理由がない。根拠もない。でも消えなかった。


 しばらくして、レベッカが動いた。


 まず指先が動いた。次に手全体が位置を変えた。眉間が動いて、それから戻った。


 私は立ち上がった。


 レベッカが目を開けた。薄く、半分だけ。黄色い虹彩が光の中に現れた。猫の縦瞳がぼんやりと天井を向いていた。焦点が定まるまで、少し時間がかかった。それから視線が動いて、私を捉えた。


「おはようございます。経過は良好です。バイタルも安定しています」


 レベッカが口を開けた。何か言おうとしたが、声が出なかったようだった。一度閉じて、喉を動かした。


「……手術は」


「終わりました。成功です」


 目が閉じた。深く息を吐いた。力が抜けるように。それからまた眠りに入ったのか、呼吸が深くなった。


 私は椅子に戻った。


 今の間のことを考えていた。視線と視線が合った、ほんの数秒の間。それなのに、また来た。近い、という感覚が。


 黄色い目で私を見たときの、あの間。何か言おうとして言わなかったときの、あの顔。以前にも似た間を見た気がした。似た顔を見た気がした。でもそれがいつのことか、私には分からない。



ーーー



 それからしばらくして、レベッカが再び目を開けた。


 今度は違った。薄くではなく、はっきりと。焦点もすぐに定まった。意識が完全に戻っていた。


 レベッカは自分の腹の辺りに視線を落とした。


 補液細管。それから、もう一本。


「抜け」


 一言だった。おはようでも、痛みの確認でも、ここはどこだでもなかった。


「まだ早いです」と私は言った。「術後十時間も経っていません。もう少し——」


「抜けと言っている」


 声に感情がなかった。命令の形をしていたが、怒ってもいなかった。ただ、一ミリも動かない意志があった。


「医師として言います。まだ外すべきではないです。腹部の手術の後、体内は——」


「聞こえているか」


 聞こえている。全部聞こえている。だから答えている。私は少し間を置いた。


「排泄補助細管を抜いた後、すぐに自力でできるとは限りません。腸の動きが戻るまでに時間がかかる場合もあります。もし間に合わなかったとき、創部に負担がかかります」


「分かった」とレベッカが言った。


「分かってもらえましたか」


「抜けと言っている」


 私は少し黙った。


 この人の目の奥に、交渉の余地がなかった。話を聞いていないわけでも、意味を理解していないわけでもない。全部理解した上で、それでも、という目をしていた。


 戦士の目だ、と思った。論理が通じる類の問題ではないと判断した。


「……分かりました」


 私は細管を処置した。排泄制御術式の解除も行った。レベッカは処置の間、一度も顔を動かさなかった。



ーーー



 それから、しばらくは静かだった。


 レベッカは上半身を少し起こしていた。腹部の痛みはあるはずだが、顔に出さなかった。私が「無理をしないでください」と言っても、返事をしなかった。


 私はカルテに記録をつけながら、時々様子を確認した。


 最初に気づいたのは、三十分ほど経った頃だった。


 レベッカの視線が、少し落ち着かなくなっていた。壁を見て、天井を見て、また壁を見た。目が何かを探しているわけではない。ただ、定まらない。


 私はカルテに戻った。


 五分後、もう一度確認した。


 レベッカの右手が、シーツの上でかすかに動いていた。握っては開く。握っては開く。本人は気づいていないような、無意識の動きだった。


 痛みが増してきたのか、と思った。


「痛みはどうですか」


「問題ない」


 即答だった。問題ないの言い方は変わっていない。でも視線が一瞬、どこか別の場所に逃げた。


 私はまたカルテに戻った。


 さらに十分後。


 レベッカが、ごくわずかに身じろぎした。腹部をかばうような動きではなかった。どちらかというと——腰の辺りを、落ち着かせようとしているような。


 私は顔を上げた。


 レベッカはすぐに動きを止めた。私の視線に気づいて、止めた。そして何事もなかったように前を向いた。猫耳が、ほんのわずかに、内側に傾いていた。


 私はカルテに視線を戻しながら、考えた。


 痛みではない。熱もない。バイタルは安定している。では、この落ち着きのなさは——


 答えに辿り着いたとき、私はペンを止めた。


 なるほど、と思った。


「レベッカさん」と私は言った。


「なんだ」


「必要であれば、介助できますが」


 一瞬あった。


「何が」とレベッカが言った。声が平坦だった。平坦すぎた。


「術後はしばらく、自力での移動が難しい場合もあります。トイレに——」


「必要ない」


 遮られた。迷いなく遮られた。


 私は少し考えた。必要ないと言っている。でも先ほどから、この人の腰は落ち着いていない。耳が内側に傾いたまま戻っていない。


「……分かりました」


 カルテに戻った。


 それから五分。


 レベッカの身じろぎが、少しずつ大きくなっていた。止めようとしているのに、止まらない。腰が、ほんの少し、右に左に。シーツを握る右手の指が、また動いていた。上半身は微動だにしないのに、腰から下だけが静止できていなかった。


 腰だけではなかった。膝が、ほんのわずか、内側に寄ろうとしていた。腹部の傷があるから大きく動けない。動けないのに、身体が動こうとしていた。その矛盾が、じわじわと表情に滲み出ていた。


 猫耳が完全に内側に畳まれていた。


 私はもう一度口を開こうとした。


 その瞬間、レベッカがこちらを見た。目が合った。


 言うな、とその目が言っていた。言葉ではなく、目だけで、はっきりそう言っていた。


 私は口を閉じた。


 沈黙が続いた。


 また五分。


 レベッカの呼吸が、浅くなっていた。腹式ではなく、胸だけで呼吸していた。腹に力を入れると傷に響く——でも今、腹に力を入れていなければならない理由が別にある。その二つが、この人の中で正面衝突していた。


 息を、止めた。


 私はそれを見ていた。レベッカが意識して呼吸を止めた瞬間が、分かった。堪えていた。全力で堪えていた。腹に、腰に、脚の内側に、持てる力を全部集めていた。


 三秒。


 四秒。


 レベッカの眉が、ほんの少し、寄った。


 五秒目に、何かが変わった。


 力が、抜けた。抜けた、というよりも——崩れた。堪えていたものが、一点から崩れて、連鎖した。レベッカの表情が、初めて動いた。動いた、というよりも、止まった。目線が虚空の一点に釘付けになった。


 猫耳が、ぺたりと伏せた。


 私はペンを置いた。


 音は、しなかった。


 ただ、白い寝具の上に、熱が生まれた。小さく、最初は点のように。それがゆっくりと広がった。じわり、じわりと。止められない速さで、でも確実に、広がっていった。レベッカの視線がそこに落ちた。落ちて、動かなかった。


 見ていた。見ながら、止めようとしていた。


 腹に力が入った。私にはそれが分かった。この人の腹が、今もまだ抗おうとしていた。でも遅かった。熱はもう広がっていた。寝具が、レベッカの腿の裏から腰にかけて、じんわりと温かくなっていた。


 止まらなかった。


 どのくらいの時間が経ったか。おそらく長くはなかった。でもレベッカにとっては、とても長い時間だったと思う。


 それが終わったとき、静寂があった。


 レベッカはまだ、その染みを見ていた。


 褐色の肌が、首筋から耳の付け根まで、みるみる色を変えた。頬だけではなかった。首も、耳の縁も、猫耳の根元まで、全部が熱くなっていくのが離れた場所からでも分かった。日焼けした濃い褐色の肌でも、その赤みは隠せなかった。傷跡が白く浮いている肌だから、なおさら。


 唇が開きかけた。何か言おうとした。言葉が来なかった。


 口が閉じた。


 また開いた。また閉じた。


 レベッカの手が、シーツを掴んだ。指の先が白くなるほど、強く。ゆっくりと、何かに耐えるように。


「片付けます」と私は言った。


 レベッカは何も言わなかった。何も言えなかったのだと思う。


 私は手を動かした。考えずに動いた。洗浄魔法で処理して、寝具を替えた。私の手が触れるたびに、レベッカの肩がわずかに上がった。触れられることが嫌なのではない。触れられるたびに、今起きたことを思い知らされるような——そういう強張り方だった。


 作業を終えた。


「言った通りでした」とは、言わなかった。言う理由がなかった。


「朝食を持ってきます。流動食になりますが」


 沈黙があった。長い沈黙だった。


「……好きにしろ」


 声が、かすれていた。低くて、小さかった。この人がこんなに小さい声を出すとは思っていなかった。


 耳がまだ伏せていた。


 私は医務室を出た。



ーーー



 甲板へ出ると、朝の光と潮の風が来た。昨日の戦闘の痕跡が、まだあちこちに残っていた。欄干の一部が欠けていた。甲板に焦げた跡があった。数人が修繕作業をしていた。


 廊下に出てから、扉を静かに閉めた。


 自分の中に、何かが残った。笑いたい気持ちではなかった。もっと柔らかい何かだった。この人が、あれほど強くて、傷だらけで、誰にも折れない顔をしていた人が——あの耳を伏せた、という事実が、なぜか自分の中で静かに温かく着地していた。


 理由は分からなかった。でも、悪くなかった。


 アンヌが作業の指示を出しながら、私を見つけた。


「シェリー。大丈夫?」


「はい。少し眠りました」


「レベッカさんは?」


「経過は良好です。今日は安静です」


 アンヌが頷いた。それから少し声を落とした。「昨日のこと、みんな言ってたよ。シェリーがいなかったら、どうなってたかって」


「私はただ、できることをしました」


 アンヌが私を見た。何か言おうとして、やめた。それから笑った。「そういうとこ、あんたらしいね」


 何がらしいのか分からなかったが、聞かなかった。


 海を見た。昨日の戦場だったとは思えない凪ぎだった。水平線が遠かった。


 夢の声のことを、また考えた。


 声の質が手がかりになるはずだった。高い声か低い声か、若い声か年を取った声か。でも目覚めてから時間が経つほど、それも薄れていった。今残っているのは、知っている、という感覚だけだった。


 この船に乗ってから出会った人たちの声を、一人ずつ当てはめてみた。ダニエル。ベネディクト。レオノーラ。アンヌ。エリカ。ビリー。


 どれも、違う気がした。


 そこで思考が止まった。


 なぜ止まったのか、分かっていた。次に誰の名前を思い浮かべそうになったか、分かっていた。でも、その名前を出すことをためらった。根拠がないから、ではなかった。根拠があるような気がしているから、だった。



ーーー



 夕方、医務室に戻ると、レベッカが目を覚ましていた。


 完全に意識が戻っているようだった。ベッドに横になったまま、天井を見ていた。私が入ると、視線だけが動いた。いつもの鋭さがあった。ただ——私の目と合った瞬間だけ、ほんの一拍、視線が逸れた。逸れてから戻った。気のせいかもしれなかった。


「バイタルを確認します」と私は言った。


 脈を取った。体温を測った。縫合部位の状態を確認した。問題ない。経過は順調だった。


「良好です。痛みはありますか」


「ある」とレベッカは言った。声がかすれていた。


「今夜、鎮痛薬を出します。傷の状態から見て、明日以降は少しずつ動けるようになるはずです」


 レベッカが私を見た。今度はしっかりと目を開けて、私を見ていた。


 何も言わなかった。


 私も言葉を選べなかった。医療の確認は終わった。でも去りがたかった。


「……昨日の手術」とレベッカが言った。


「はい」


「お前が」


「レオノーラ先生と二人でやりました。私は助手として入りました」


 沈黙があった。レベッカが視線を天井に戻した。何かを考えているような間だった。


「そうか」とだけ言った。


 それきりだった。


 私は記録を書いて、医務室を出た。


 廊下に出てから、立ち止まった。


 そうか、という言葉の声の質が、まだ耳の中にあった。


 低くかすれていた。でも声の芯は、迷いがない声だった。感情を整理して言葉にする前の、言葉にならない感情だけが出てくるような声だった。


 それを夢の声と重ねてみた。


 合わない、とは思えなかった。


 違う、とも思えなかった。


 廊下の窓から、夕日が傾いていた。海が赤く染まっていた。波が揺れていた。


 私は自分の手を見た。昨日、手術をやり遂げた手だ。器具を持って、縫合糸を扱って、レベッカの命を繋いだ手だ。


 その手が覚えていることと、夢の中に残っている感覚とが、どこかでつながっている気がした。


 何かが、喉の奥で引っかかっていた。言葉にならないまま、そこにあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ