3-7.緊急手術②――傷跡
腹腔の中は、見た目より複雑だった。
出血源は一か所ではなかった。傷口から入った刃が、斜め上向きに走って、表層の血管を二本切っていた。縫合すれば止まる。ただ、その下にもう一か所、浸出血が見えた。腸間膜の一部が傷ついている。こちらの方が厄介だ。細かい血管が集まっていて、一つずつ処置しなければならない。
「腸間膜の損傷あり」と私は言った。
「見える?」とレオノーラが聞いた。
「はい。出血量は多くないですが、処置が必要です」
「じゃあそっちから先に。私は表層の血管を押さえておく」
私は器具を取り替えた。細い鉗子を使う。視野が狭い。レオノーラが術野を広げて保持してくれた。二人の手が、それぞれの役割を分担して動いている。会話は少なかった。声に出すのは確認だけだ。
手が動いた。
考えてから動いているわけではなかった。患部を見る。状態を把握する。手が動く。その順番が、頭の中の判断の速さより少し早い。気持ち悪い感覚ではなかった。ただ、不思議だった。自分の手が、自分より少し先にいる。
「表層、縫合に入ります」
「了解。腸間膜は?」
「処置済みです」
「早い」とレオノーラが言った。それだけだった。
ーーー
表層の血管の縫合に入ったとき、視野を動かした。
患部の正確な位置を確かめるために、周辺の組織を確認しようとした。その視線が、少し上に流れた。
肋骨の下から、脇腹の外側にかけて。
傷跡があった。
古い傷だ、とすぐに分かった。完全に治癒して、線状の瘢痕になっている。長さは七、八センチほど。角度が、今日の傷とは全く違う。別の日についた別の傷だ。その隣に、また別の傷跡がある。こちらはもう少し古い。さらにその上、肋骨の縁に沿って走る薄い線が一本。
傷の数が、多い。
甲板でレベッカを遠目に見たとき、傷跡があることは知っていた。顔の端、首筋、腕。全部、遠くから確認した程度だった。でも今、私の目は十五センチの距離から、一つ一つを見ていた。
全部、別の日の傷だ。
全部、別の場所でついた傷だ。
長い時間をかけて積み重なったものだ、と初めて会った夕暮れに思ったことを、今また同じように思った。
縫合糸を通した。手が止まっていなかった。見ながら動いている。
そのとき、一本の傷跡で、手が一瞬だけ止まった。
腹部の左側、臍の横あたりにある傷跡だった。他の傷と同じように古い。線状に治癒している。ただ、この傷だけが、なぜか他と違う感覚を呼んだ。
知っている気がした。
見たことがある、という意味ではない。知っている、という感覚だ。この傷ができた瞬間を、どこかで知っている。そういう感覚だった。
映像はなかった。声もなかった。ただ、何かが引っかかった。
「どうした?」とレオノーラが言った。
「なんでもないです」と私は答えた。
手を動かした。縫合糸を結んだ。テンションを確かめた。問題ない。
頭の端に、その感覚が残っていた。
知っている気がする。なぜ、知っている気がするのか。
今は考えない、と判断した。今考えることではない。手術が終わってから考える。今は手を動かす。
ーーー
腹腔内の処置が終わった。
「出血、止まってます」と私は言った。
「確認する」とレオノーラが言って、術野を確認した。しばらく見ていた。「ええ、止まってるわ。次は閉腹に入る」
「腹膜から縫合しますか」
「そう。層ごとに丁寧に。時間がかかっても確実に」
「分かりました」
私は縫合糸を取り替えた。
レベッカの呼吸は安定していた。麻酔が効いている。顔の表情は、普段と変わらなかった。無表情だった。眠っているときも、この人は無表情らしい。
閉腹の縫合を始めながら、私は傷跡のことをまだ考えていた。
なぜ、知っている気がしたのか。見たことのない傷跡のはずなのに。記憶がないから、見たことがあるかどうかも分からない。でも、あの傷跡だけが、他と違う感覚を呼んだ。
レベッカの顔を見た。
眠っている。目が閉じている。普段、あれほど重い視線を持っている人が、今は何も言わない顔で横たわっている。
この人のことを、私は知っているのかもしれない。
知っている気がするというのは、そういうことかもしれない。
答えは出なかった。
手は動き続けた。




