3-2.0750――海戦開始
side ダニエル
日が出る前から、甲板は静かだった。
静か、というのは正確ではない。風が帆を叩く音がある。波が船体を押す音がある。乗組員たちが各自の持ち場に散って、それぞれに小さな音を立てている。だが口を開く者がいなかった。北北東の水平線を全員が同じ方向で見ていた。まだ何もない。ただの青い空だった。
0630。
「右舷側に動き」とエリカが上から言った。監視塔の位置から双眼鏡を使っている。声は低く、落ち着いていた。「帆が二枚。距離はまだ遠い」
「視認確認」とベネディクトが隣から返した。
俺は北東の水平線を見た。光の具合で帆の白がかすかに見えた。二枚。速度は穏やかに見えるが、それは演技だ。あれは速さを見せないようにゆっくり近づいている。
「予定通りだ」と俺は言った。「全員、配置に着け」
乗組員が動き出した。
ーーー
そこから一時間以上、何もなかった。
敵は急がなかった。焦らすように、一定の速度で近づいてくる。乗組員たちは各自の持ち場で待ち続けた。待つことが消耗だと知っている敵は、この段階からすでに戦いを仕掛けている。そういう相手だ、と俺は思った。報復目的にしては、動き方が洗練されていた。
0740ごろ、旗がないことをベネディクトが確認した。
「鋼爪です」と彼は言った。「旗はないが、あの船型は間違いない」
「ベネディクト、左舷の出方を見ておけ。必ず回り込んでくる」
「了解」
右舷側の一隻が速度を上げ始めた。速い。百人乗りの船にしては軽い動き方だ。船体を削ってある。速度優先の改造を施した戦闘船だ。
0750。
「接舷します」とベネディクトが言った。
俺は剣の柄を握った。
ーーー
最初の一撃は、敵の方から来た。
右舷の船が横付けした瞬間、甲板に縄と鉤爪が飛んできた。縄を踏んで固定し、向こうの乗組員が渡ってくる。先頭の男が降り立つよりも早く、俺は動いていた。
距離を詰めた。
相手は剣を抜こうとしていた。俺はその手首を掴んで引き込んだ。勢いごと回転させて甲板に伏せる。次の男が来た。脇をすり抜けながら肘を入れた。三人目は剣先を向けてきたが、刃を逸らして踏み込んだ。
剣を使わなかった。
使う必要がなかった、というより、この段階では使いたくなかった。捕縛が目的の敵は、乱戦より特定の人間を狙うために動く。懸賞首の三名に近づく動きをとるはずだ。だから最初は力で押して、相手の動きを見る。
五人目が来たところで剣を抜いた。
一合。切っ先を合わせて重さを測った。強い。訓練を受けた戦士だ。ただ、身体の重心が前にある。突き押しが得意な戦い方だ。
俺は一歩引いて、引き込んだ。
前に出た勢いを使って倒した。甲板が揺れた。また縄が来た。今度はビリーが双斧で叩き落とした。
「いやぁ、元気ね向こうも」とビリーが言った。
「左舷を頼む」
「はいよ」
ビリーが動いた。あの人の戦い方を俺はよく知らない。知ろうとしたことはあるが、見るたびに違う動き方をする。ただ結果は常に同じだ。倒れているのは必ず敵の方だ。
ーーー
戦況は悪くなかった。
エリカが監視塔から的確に敵の動きを止めている。ベネディクトは左右を動きながら情報を拾っている。あの男が無言になるときは動いている証拠で、今は何も言わなかった。
俺は右舷の乱戦を収拾しながら、甲板全体を見渡していた。
南の方向で何かが光った。レベッカだ、と分かった。銃の火花ではない。あれは接近戦だ。単独で動いている。本来は甲板制圧を担うはずだったが、レベッカは状況を見て判断する。俺が指示を出すより先に、必要な場所に移動している。
一度だけ、甲板の中央から船内の扉を見た。
扉は閉まっていた。
医務室は船の中程にある。今頃レオノーラとシェリーが中で待機しているはずだ。来るな、と昨夜は思わなかったが、今は思う。来なくていい。今日は。
俺はそういう戦いにする。
向き直った。三人が同時に来た。剣で一人を流して、残りの二人に体重を預けた。大きいことは、戦闘ではそれだけで武器になる。
ーーー
0820ごろ、右舷の船の動きが鈍った。
人数が減っている。こちらの損耗はない。接舷を諦めて、向こうが引き始めた。押し込める、と俺は判断した。
「エリカ、舵を狙え」と上を向いて言った。
「了解」
一分もしないうちに、右舷の船の舵が沈黙した。動きが止まった。
「右舷、制圧」とベネディクトの声が続いた。
俺は左舷を確認した。ビリーとベネディクトが連携して、もう一隻の動きを抑えている。エリカが補佐している。こちらも優位だ。
早い。予想より早く決着がつく。
その確信が来た瞬間に、俺は南の甲板を見た。
なぜ見たのかは分からない。戦闘中の直感というものがある。説明できない種類の、何かが違う、という感覚だ。
レベッカが一人で動いていた。
速い。正確だ。それは今に始まったことではない。だが俺は走り出していた。何かが、あの動きの端に引っかかった。
甲板を横切った。
レベッカが振り向いた。銃を下ろしながら、こちらを見た。普段と同じ無表情だった。
だが俺の目には、分かった。
その左手が、脇腹を押さえていた。




