第9話 観覧車の見える夜、彼は好きだと言った
みなとみらいの夜を彩る、大きな観覧車。
優実にとって、それはずっと自分とは関係のない場所にあるものでした。
けれど今夜、佐伯さんと一緒に、その光を見上げることになります。
少しずつ変わってきた二人の距離。
言葉にできなかった想い。
そして、佐伯さんが彼女に伝えたかった本当の気持ち。
優実は、その想いを受け止められるのでしょうか。
水色のマグカップを買ってから、私は朝に白湯を飲むようになった。
そのカップを使うたびに、赤レンガ倉庫まで歩いた日のことを思い出す。
怖かった。
でも、行けた。
その事実は、思っていた以上に私を支えてくれた。
もちろん、まだ通勤中のマスクは外せない。
駅の人混みは怖い。
電車の中で笑い声が聞こえると、体が固まることもある。
でも、以前の私は怖さに飲み込まれるだけだった。
今は違う。
怖い。
でも、私は赤レンガ倉庫まで行けた。
そう思えるようになった。
ある夜、佐伯さんが言った。
「今日は、観覧車の見える場所まで行きませんか」
コスモクロック21。
みなとみらいの夜を象徴する、大きな観覧車。
カフェの窓からも、遠くに見えることがある。光がゆっくり回るのを見るたびに、私は自分とは関係のない世界だと思っていた。
でも今は、少しだけ行ってみたいと思った。
「乗るんですか」
「いえ。今日は見上げるだけにしましょう」
「見上げるだけ」
「はい。森川さんには、その方が合っている気がします」
なぜか、その言葉が嬉しかった。
無理に特別なことをしなくていい。
乗らなくてもいい。
ただ、見上げるだけでいい。
私たちは夜のみなとみらいを歩いた。
街の灯りが水面に映っている。
ビルの窓には、まだ働いている人の明かりが点いていた。
遠くで観覧車が、色を変えながらゆっくり回っている。
人は多かったけれど、昼間ほどではない。
私はマスクをつけたまま、佐伯さんの隣を歩いた。
観覧車の見える場所で、私たちは立ち止まった。
「綺麗ですね」
思わず、そう言っていた。
「はい」
佐伯さんの声が、隣でやわらかく響く。
私は観覧車を見上げた。
高校をやめた時、もう自分の人生に綺麗な景色は必要ないと思っていた。
人に笑われないように。
傷つかないように。
失敗しないように。
ただ隠れて生きていけばいいと思っていた。
でも今、私はここにいる。
みなとみらいの夜景の中に。
佐伯さんの隣に。
風が吹いた。
マスクの内側が少し蒸れて、息苦しくなる。
私はバッグの紐を握った。
外してみたい。
そう思った。
人混みの中では無理。
駅でも無理。
電車でも、まだ絶対に無理。
でも、今。
この人の隣でなら。
私はゆっくりマスクのゴムに指をかけた。
佐伯さんが、何も言わずに少しだけ視線を外した。
見ないでいてくれた。
その優しさに、胸がいっぱいになる。
私は、マスクを外した。
夜の海風が、頬に触れた。
冷たい。
でも、痛くない。
私は小さく息を吸った。
「寒くないですか」
佐伯さんが、静かに言った。
私は思わず笑った。
「そこなんですね」
「え?」
「マスクを外したことじゃなくて、寒くないかなんですね」
佐伯さんは、少し考えてから言った。
「大事なので」
「何がですか」
「森川さんが寒くないかどうかが」
胸の奥が、どうしようもなく温かくなった。
この人は、私がマスクを外したことを大げさに褒めない。
奇跡みたいに扱わない。
ただ、私が寒くないかを心配してくれる。
それが、たまらなく嬉しかった。
「森川さん」
「はい」
佐伯さんの声が、少し変わった。
いつもより緊張しているように聞こえた。
「話したいことがあります」
「……はい」
観覧車の光が、ゆっくり色を変える。
佐伯さんは、一度だけ夜空を見上げてから、私を見た。
「僕は、森川さんをかわいそうだと思って近づいたわけじゃありません」
「……」
「守りたいと思ったのは本当です。でも、それだけじゃないです」
心臓が、強く鳴った。
「僕は、森川優実さんが好きです」
息が止まった。
好き。
その言葉が、夜の空気の中でまっすぐ届いた。
「君が強くなったから好きになったんじゃありません」
「……」
「怖いのに毎朝ここへ来るところも、できないことを悔しがるところも、少し笑うだけで空気をやわらかくするところも、全部大切にしたいと思いました」
涙が滲んだ。
「急いで答えをくださいとは言いません」
「佐伯さん」
「ただ、勘違いさせたくなかったんです」
佐伯さんは、私から目を逸らさなかった。
「僕は、君に優しくしたいだけじゃありません。君を大切にしたいんです」
「……」
「君が怖いままでも、マスクを外せない日があっても、僕は隣にいたいです」
私はすぐに答えられなかった。
嬉しい。
嬉しいのに、怖い。
好きと言われることが、こんなに怖いなんて知らなかった。
期待してしまう。
信じたくなる。
でも、信じて傷つくのが怖い。
私は震える声で言った。
「少し、時間をください」
「はい」
「嫌なんじゃないです」
「分かっています」
「私、嬉しいです。でも、怖くて」
「はい」
佐伯さんは、少しだけ微笑んだ。
「待ちます」
「……」
「急がせないって、最初に決めていますから」
その言葉で、涙がこぼれた。
私は慌ててマスクを戻そうとした。
けれど、佐伯さんはハンカチを差し出しただけだった。
「使ってください」
「ありがとうございます」
マスクを外した頬に、涙と海風が触れる。
怖い。
でも、逃げたくない。
私は観覧車を見上げながら、そう思った。
好きだと言われることが、こんなにも嬉しくて、同時に怖いものだなんて。
優実はまだ、自分が愛されることに慣れていません。
けれど、佐伯さんは答えを急がせませんでした。
彼女の気持ちが追いつくまで、待ってくれる。
次回、優実が自分自身の言葉で想いを伝えます。




