第10話 マスクを外せない私が、好きだと言えた日
「好き」と言われた夜から、三日。
優実はまだ、通勤中のマスクを外せません。
人混みも怖い。
昔の記憶が消えたわけでもありません。
それでも、佐伯さんへの想いだけは、もう自分に嘘をつけないほど大きくなっていました。
彼の隣にいたい。
今度は、自分からその気持ちを伝えたい。
臨港パークの海風の中で、優実が選んだ答えとは――。
佐伯さんに告白された夜から、三日が経った。
私は相変わらず、通勤中はマスクをしていた。
駅では下を向く。
電車では端の席を探す。
笑い声が聞こえると、胸が少し縮む。
何もかもが急に治ったわけではない。
けれど、変わったことがあった。
私は、佐伯さんの言葉を何度も思い出していた。
僕は、森川優実さんが好きです。
その言葉を思い出すたびに、胸が熱くなる。
同時に、怖くもなる。
好きと言われた。
大切にしたいと言われた。
そんなことを信じていいのだろうか。
高校時代、私に向けられた言葉は、いつも冷たかった。
笑われる言葉。
傷つける言葉。
消えてほしいと遠回しに伝える言葉。
だから、優しい言葉をどう受け取ればいいのか分からない。
でも、佐伯さんの言葉は、嘘には聞こえなかった。
その日の夕方、バイト終わりに私は佐伯さんへメッセージを送った。
『今日、臨港パークに行けますか』
返事はすぐに来た。
『行けます』
臨港パークは、私が初めて佐伯さんに過去を話した場所だった。
そして、初めて海をちゃんと見た場所だった。
返事をするなら、あそこがいいと思った。
バイトが終わり、私は更衣室で着替えた。
バッグからマスクを取り出す。
いつものように耳にかける。
まだ、外では必要だ。
それでいい。
今日も私は、マスクをして駅とは違う方向へ歩く。
それだけで、十分に変わっている。
佐伯さんは、カフェの外で待っていた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
私たちは並んで臨港パークへ向かった。
夕暮れの海は、静かだった。
空の端に淡い金色が残り、水面がゆっくり揺れている。
ベンチの近くで、私は立ち止まった。
「佐伯さん」
「はい」
声が震えた。
でも、逃げない。
「この前の返事を、したいです」
「はい」
佐伯さんは、まっすぐ私を見た。
私はバッグの紐を握った。
「私、まだ普通に戻れたわけじゃありません」
「はい」
「通勤電車では、明日もマスクをします」
「はい」
「駅の人混みも怖いです。昔のことも、急に思い出します」
「はい」
佐伯さんは、一つずつ受け止めてくれる。
「たぶん、これからも面倒くさいです」
「面倒くさいとは思いません」
「でも」
「森川さんは、森川さんです」
涙が出そうになった。
私は少しだけ笑った。
「佐伯さんは、いつもそうですね」
「何がですか」
「私が自分を責める前に、違う言葉をくれる」
佐伯さんは少し驚いた顔をした。
「そうですか」
「はい。だから、怖くても、少し歩けました」
私は海を見た。
初めてここに来た日、私はマスクの下で泣きそうだった。
今も怖い。
でも、あの時より少しだけ、前を向けている。
私はゆっくり、マスクに触れた。
外すかどうか迷った。
でも今日は、無理に外す必要はないと思った。
マスクをしたままでも、言える。
私は、私のまま言える。
「私も、佐伯さんが好きです」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
佐伯さんは、ほんの少し目を見開いた。
それから、今までで一番やわらかく笑った。
「……嬉しいです」
その声が、少し震えていた。
私は胸がいっぱいになった。
「私、ゆっくりしか進めないです」
「はい」
「急に強くなれません」
「はい」
「それでも、いいですか」
佐伯さんは迷わず言った。
「ゆっくりがいいです。優実さんとなら」
名前で呼ばれて、息が止まった。
優実さん。
その響きが、胸に落ちる。
「私も……尚哉さんって、呼んでもいいですか」
「もちろんです」
尚哉さん。
心の中で呼んでみる。
それだけで、胸が甘く痛んだ。
海風が吹いた。
私は少し迷ってから、マスクを外した。
長い時間ではない。
周りに人もいる。
怖くないわけじゃない。
でも、今は少しだけ、風を頬で感じたかった。
尚哉さんは、何も言わなかった。
ただ、隣にいた。
それが嬉しかった。
「尚哉さん」
「はい」
「私、この街を少し好きになれた気がします」
「それは、よかったです」
「前は、みなとみらいって、私には関係ない場所だと思っていました」
「今は?」
「少しだけ、私もここにいていいのかなって思えます」
尚哉さんは、ゆっくり頷いた。
「いていいんです」
「……はい」
「最初から、いてよかったんです」
涙がこぼれそうになった。
でも、今度は泣かなかった。
私は海を見た。
遠くで、街の光がひとつずつ灯り始めている。
ランドマークタワー。
クイーンズスクエア。
赤レンガ倉庫。
コスモクロック21。
どれも、前は遠い場所だった。
自分には関係ない景色だった。
でも今は違う。
五分だけ寄り道した道。
初めて海を見た場所。
途中で戻った赤レンガ倉庫。
水色のマグカップを買った店。
告白された観覧車の見える夜。
この街の中に、私の記憶が増えていく。
怖いものが全部消えたわけじゃない。
明日も私は、駅ではマスクをする。
電車の中では、下を向くかもしれない。
昔のことを思い出して、苦しくなる日もあると思う。
それでも、もう実家とバイト先だけの毎日ではない。
私には、行ける場所が増えた。
戻れる場所もある。
そして、隣を歩いてくれる人がいる。
「優実さん」
「はい」
「次は、どこに行きたいですか」
私は少し考えた。
赤レンガ倉庫の中にも、まだ入っていない。
観覧車にも乗っていない。
臨港パークにも、また来たい。
クイーンズスクエアの雑貨店にも行きたい。
行ってみたい場所が、こんなにある。
それだけで、胸がいっぱいになった。
「まずは」
「はい」
「また、五分だけ寄り道したいです」
尚哉さんは笑った。
「いいですね。五分から始めましょう」
私はマスクを手に持ったまま、海風を吸い込んだ。
少し冷たい。
でも、やさしい。
尚哉さんは、最後まで私を急かさなかった。
マスクを外すことも。
強くなることも。
普通に戻ることも。
ただ、私が歩き出すたびに、隣で同じ速度になってくれた。
怖いままでも歩ける場所が、ひとつずつ増えていく。
その隣に、佐伯尚哉さんがいる。
だから私は今日も、この街で息をしている。
怖いものがすべて消えなくても、誰かを好きになっていい。
完璧に変わらなくても、幸せを選んでいい。
優実が自分の気持ちを言葉にできたことは、何より大切な一歩だったと思います。
ここまで二人を見守ってくださり、ありがとうございます。
次回はいよいよエピローグ。
あの日から二年後、優実と尚哉が迎える幸せな未来をお届けします。




