エピローグ 実家とバイト先しか知らなかった私が、彼の妻になる日
実家とバイト先しか知らなかった二十一歳の優実。
そんな彼女が、佐伯尚哉と出会ってから二年が経ちました。
二十三歳になった彼女の毎日は、あの頃とは少しずつ変わっています。
けれど、尚哉の優しさだけは変わりません。
決して急かさず、彼女の歩幅に合わせて隣を歩いてくれる人。
そして今日、優実は人生で一番幸せな一歩を踏み出します。
二人の物語、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
あの日から、二年が経った。
二十三歳になった私は、今もみなとみらいのカフェで働いている。
変わったことは、たくさんある。
まず、後輩に仕事を教えられるようになった。
最初は自分のことで精一杯だったのに、今では新人の子がレジで手を震わせていると、そっと隣に立てるようになった。
「大丈夫。急がなくていいよ」
そう言うたびに、私は少しだけ昔の自分を思い出す。
紙カップを落として、泣きそうになっていた私。
実家とバイト先しか知らなかった私。
みなとみらいの景色を、自分には関係ないものだと思っていた私。
変わっていないこともある。
通勤電車では、今でもマスクをする日が多い。
人混みが怖い日もある。
急に昔のことを思い出して、胸が苦しくなる夜もある。
でも、もうそれを「治っていない」とは思わなくなった。
怖い日がある。
それでも、働ける。
笑える。
好きな人と手をつなげる。
行きたい場所を、自分で選べる。
それだけで、私は前よりずっと遠くまで来た。
尚哉さんとは、恋人になって二年になる。
彼は、相変わらず私を急かさない。
初めて手をつないだ日も。
初めて彼の部屋に行った日も。
赤レンガ倉庫の中に入れた日も。
いつも先に聞いてくれた。
「今日は、ここまでで大丈夫ですか」
「手、つないでもいいですか」
「帰りたくなったら、すぐ帰りましょう」
恋人なのに、遠慮しすぎだと思ったこともある。
でも、その遠慮があったから、私は少しずつ安心して甘えられるようになった。
同棲の話も、結婚の話も、最初から押しつけてくることはなかった。
けれど、私が言った小さなことは、全部覚えていた。
水色が好きなこと。
人が多い場所では、右側を歩く方が落ち着くこと。
赤レンガ倉庫の中に入るには、少し時間が必要だったこと。
臨港パークの海風が、私にとって特別なこと。
ある日、彼の部屋に初めて行った時、キッチンの棚には水色のマグカップが二つ並んでいた。
「勝手に買って、重かったらすみません」
「どうして水色なんですか」
「優実さんが好きだと言っていたので」
それだけで、私は泣きそうになった。
高価なものではない。
でも、私の好きな色を覚えてくれていた。
尚哉さんの溺愛は、いつもそうだった。
派手ではない。
でも、逃げ道を残してくれる。
覚えていてくれる。
私が私のままでいられる場所を、静かに用意してくれる。
小野寺さんは、今では時々カフェに来て、私に普通に挨拶してくれる。
あの日、勝手に怖がっていたのは私だったのだと、少しずつ思えるようになった。
それでも、怖かった自分を責めなくていい。
そう思えるようになったのも、尚哉さんが何度も「怖いままでいい」と言ってくれたからだった。
その日、カフェのシフトが終わると、尚哉さんが店の前で待っていた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
恋人になって二年経っても、私たちは最初の頃みたいに挨拶をする。
それが少し照れくさくて、でも好きだった。
「今日は、臨港パークに行きませんか」
「臨港パークですか」
「はい」
尚哉さんの声が、少しだけ緊張しているように聞こえた。
私は首を傾げた。
「何かありました?」
「あります」
「え」
「でも、歩きながら話します」
その真面目な顔に、胸が小さく跳ねた。
臨港パークまでの道は、もう何度も歩いた。
最初は怖かった道。
今でも人が多い日は緊張するけれど、尚哉さんの隣なら歩ける。
夕暮れの海は、二年前と同じように穏やかだった。
水面に街の光が映り、遠くで観覧車がゆっくり回っている。
初めてここへ来た日、私はマスクの下で泣きそうだった。
高校をやめたこと。
いじめられたこと。
マスクがただの感染対策ではなく、外へ出るための鎧だったこと。
その全部を、ここで話した。
そして尚哉さんは、私を弱いと言わなかった。
怖いまま毎朝ここまで来て、怖いまま働いて、怖いまま帰っている。
それは弱い人にはできない。
あの言葉は、今も私の中に残っている。
「優実さん」
海を見ていた私に、尚哉さんが声をかけた。
「はい」
振り向くと、彼はいつもより真剣な顔をしていた。
「僕は、君を急かさないと決めています」
いきなりそう言われて、私は瞬きをした。
「はい」
「だから、今日の返事も、今すぐじゃなくていいです」
「返事……?」
尚哉さんは、少しだけ笑った。
それから、コートのポケットから小さな箱を取り出した。
胸が、止まりそうになった。
箱が開く。
中には、指輪が入っていた。
「結婚してください」
海風が、私の頬に触れた。
あの日、初めてここで海を見た時と同じ風だった。
「君が怖い日も、強い日も、マスクを外せる日も、外せない日も、僕は隣にいたいです」
「尚哉さん……」
「僕の人生の隣を、優実さんの歩幅で歩いてほしい」
涙が、目の奥に溜まった。
嬉しい。
けれど、やっぱり少し怖い。
結婚。
家族になること。
誰かの人生の隣に立つこと。
高校をやめた時の私は、そんな未来を一度も想像できなかった。
実家の部屋でカーテンを閉めていた私。
誰の記憶にも残りたくないと思っていた私。
マスクをしていないと、駅まで歩けなかった私。
そんな私が今、みなとみらいの海の前で、好きな人に結婚を申し込まれている。
私は涙をこらえながら、ゆっくり言った。
「私、まだ不安になる日があります」
「はい」
「人混みも、急に怖くなるかもしれません」
「はい」
「明日も、駅ではマスクをすると思います」
「はい」
「それでも……尚哉さんの隣なら、帰る場所じゃなくて、行きたい場所を増やしていける気がします」
尚哉さんの目元が、少しだけ揺れた。
私は、泣きながら笑った。
「結婚、したいです」
尚哉さんは、しばらく何も言わなかった。
それから、ようやく息を吐くように笑った。
「……嬉しいです」
二年前、第十話の夜。
私が「好きです」と返した時と同じ言い方だった。
尚哉さんは、私の左手を取った。
急がず、丁寧に、指輪を薬指へ通してくれた。
指輪は少し冷たくて、でもすぐに私の体温に馴染んだ。
「優実さん」
「はい」
「これからも、五分ずつでいいです」
「五分ずつ?」
「はい。遠い未来も、まずは五分だけ一緒に歩くところから始めましょう」
私は笑った。
この人らしいと思った。
プロポーズまでしておいて、やっぱり急かさない。
人生を丸ごと差し出すような言葉のあとで、五分だけと言ってくれる。
「はい」
私は頷いた。
「五分ずつ、一緒に歩きたいです」
*
婚姻届を出したのは、それから少し後のことだった。
派手な結婚式は、まだ考えていない。
たくさんの人の前に立つのは、今の私には少し勇気がいる。
でも、それでいいと尚哉さんは言った。
「式をするかどうかより、優実さんが安心して笑えることの方が大事です」
その言葉に、私はまた泣きそうになった。
婚姻届を出した帰り道、私たちは臨港パークへ向かった。
バッグの中には、今日もマスクが入っている。
必要なら、いつでもつければいい。
尚哉さんは、それを一度も急かさなかった。
マスクを外すことも。
強くなることも。
普通に戻ることも。
ただ、私が歩き出すたびに、隣で同じ速度になってくれた。
高校をやめた私。
三年間、部屋から出られなかった私。
実家とバイト先しか知らなかった私。
そんな私が今、婚姻届を出した帰り道に、みなとみらいの海を見ている。
ランドマークタワーも、クイーンズスクエアも、赤レンガ倉庫も、コスモクロック21も、もう「私には関係ない場所」ではなかった。
全部、私が少しずつ歩いてきた場所だ。
「優実さん」
尚哉さんが、私の隣で言った。
「はい」
「帰りましょうか」
帰る。
その言葉が、初めて怖くなかった。
帰る場所が、ひとつ増えたから。
私は、尚哉さんの隣で頷いた。
「はい。帰りましょう、尚哉さん」
海風が、私の頬を撫でた。
怖いものが全部消えたわけじゃない。
でも、怖いままでも歩ける場所がある。
その隣に、私を急かさず溺愛してくれる人がいる。
だから私は今日も、この街で息をしている。
森川優実だった私も。
佐伯優実になる私も。
怖いまま、幸せになっていい。
尚哉さんの隣で、私は明日も五分先の未来へ歩いていく。
急かされないまま。
愛されることを、少しずつ信じながら。
― 完 ―
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
高校を中退し、三年間ほとんど家から出られなかった優実。
そんな彼女が、みなとみらいのカフェで尚哉と出会い、少しずつ自分の世界を広げていきました。
この物語で描きたかったのは、誰かに愛されたから急に何もかもができるようになる、という奇跡ではありません。
怖いものが残っていても、幸せになっていい。
できないことがあっても、愛されていい。
そして、自分の歩幅で未来を選んでいい。
そんな想いを込めました。
尚哉は、優実の人生を代わりに歩いてくれる人ではありません。
彼女が自分の足で歩き出すとき、同じ速度で隣を歩いてくれる人です。
最初は、たった五分だけの寄り道でした。
その小さな一歩が、いつしか二人の未来へとつながりました。
これからも優実には、怖くて立ち止まる日があるでしょう。
けれど、もう一人ではありません。
そして何より、彼女自身が、自分の幸せを選べるようになりました。
二人のこれからが、穏やかで温かな毎日でありますように。
優実と尚哉の物語に、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
二人の恋を少しでも気に入っていただけましたら、評価やご感想をいただけると嬉しいです。
皆さまの心にも、優しい海風が届きますように。




