第6話 赤レンガ倉庫まで行けなかった日
横浜を代表する観光地、赤レンガ倉庫。
多くの人が楽しそうに歩くその場所は、優実にとって簡単には近づけない世界でした。
それでも、佐伯さんとなら行けるかもしれない。
そう思って踏み出した一歩。
けれど、目的地が近づくにつれて、昔の記憶が彼女を苦しめ始めます。
そのとき、佐伯さんは――。
赤レンガ倉庫は、私にとって観光パンフレットの中の場所だった。
みなとみらいで働いているのに、行ったことがない。
遠くから建物を見たことはある。写真でも見たことがある。けれど、自分がそこへ歩いて行く姿は想像できなかった。
「赤レンガ倉庫、行ってみますか」
佐伯さんにそう言われた時、私はすぐに頷けなかった。
行ってみたい。
でも、怖い。
その二つが、胸の中でぶつかった。
「無理しなくていいです」
「……行ってみたいです」
「はい」
「でも、行けるか分からないです」
「行けるところまでで大丈夫です」
行けるところまで。
その言葉なら、私にも受け取れた。
土曜日の夕方、私はバイトのあと、佐伯さんと歩いた。
休日のみなとみらいは、平日よりずっと人が多い。家族連れ、カップル、観光客。みんな楽しそうで、まぶしかった。
私はマスクの端を押さえながら歩いた。
佐伯さんは、いつもより少しだけゆっくりだった。
「人、多いですね」
「はい」
「無理なら、戻りましょう」
「まだ、大丈夫です」
そう答えたけれど、本当はもう少し苦しかった。
赤レンガ倉庫が見えてくる。
赤い建物。
広場。
行き交う人の流れ。
そこへ近づくほど、足が重くなった。
胸の奥がざわざわする。
知らない人の視線が怖い。
誰も私を見ていないのに、見られている気がする。
あと少し。
もう少しで行ける。
そう思った瞬間、前方で若い女性たちの笑い声が上がった。
ただの笑い声だった。
私に向けられたものではない。
分かっている。
でも、体が動かなくなった。
教室の笑い声。
廊下の視線。
スマホを向けられた記憶。
全部が戻ってくる。
「森川さん」
佐伯さんの声で、私ははっとした。
「戻りましょう」
彼はそう言った。
私が言う前に。
「でも」
「大丈夫です。今日はここまでにしましょう」
私は唇を噛んだ。
悔しかった。
ここまで来たのに。
あと少しだったのに。
私はまた、できなかった。
赤レンガ倉庫を前にして、引き返した。
帰り道、私はずっと黙っていた。
佐伯さんも、無理に話しかけなかった。
少し人の少ない場所まで戻って、私はようやく言った。
「すみません」
「謝らなくていいです」
「でも、行けませんでした」
「はい」
「また、途中で怖くなって」
「はい」
佐伯さんは、私の言葉を否定しなかった。
怖くなっていないとか、気にしなくていいとか、言わなかった。
ただ、認めてくれた。
「行けなかった場所があるなら」
「……はい」
「また来る理由ができます」
私は顔を上げた。
「理由……」
「はい。今日で終わりじゃありません」
その言葉に、胸がぎゅっとなった。
失敗したら終わり。
できなかったら終わり。
私はずっと、そう思っていた。
でも、佐伯さんは違う。
行けなかった場所は、また来る理由になる。
「佐伯さんは、どうしてそんなふうに考えられるんですか」
「仕事で、失敗した時にそう考えるようにしています」
「仕事で?」
「はい。うまくいかなかったら、次に試すことが一つ分かっただけだと思うようにしています」
「……すごいですね」
「そう思わないと、心が折れるので」
少しだけ笑って言う佐伯さんに、私は初めて思った。
この人も、何も怖くないわけじゃないのかもしれない。
完璧だから優しいのではなく、失敗する怖さを知っているから、私を急かさないのかもしれない。
その日の夜、家に帰ってから、私は机の上にマスクを置いた。
白い、不織布のマスク。
何枚も何枚も使ってきた。
これは、私の弱さの象徴だと思っていた。
顔を隠さないと外へ出られない自分の、情けなさだと思っていた。
でも、少し違うのかもしれない。
このマスクがあったから、私は駅まで行けた。
電車に乗れた。
みなとみらいまで来られた。
カフェで一年働けた。
私を閉じ込めているだけじゃない。
私をここまで連れてきてくれたものでもある。
そう思うと、少しだけ呼吸が楽になった。
スマホが鳴った。
佐伯さんからだった。
『今日は一緒に歩いてくれてありがとうございました』
私は画面を見つめた。
行けなかったのに。
途中で戻ったのに。
それでも、ありがとうと言ってくれる。
私は少し迷ってから、返信した。
『次は、もう少し近くまで行きたいです』
送信してから、心臓が跳ねた。
すぐに返事が来た。
『はい。一緒に行きましょう』
私はスマホを胸に抱えた。
次。
また。
一緒に。
その言葉が、暗かった部屋の中に小さな灯りをともした。
行けなかった場所は、失敗の証ではなく、また訪れる理由になる。
佐伯さんの言葉は、優実が自分自身を責める気持ちを少しずつ変えていきます。
そして、彼女の中には新しい感情も芽生え始めました。
優しいだけでは説明できない、胸の奥の温かさ。
次回、優実はその気持ちと向き合うことになります。




