第4話 昔の同級生がカフェに来た
ようやく見つけた、自分が安心して働ける場所。
少しずつ笑えるようになった毎日。
けれど、そんな優実の前に、高校時代の同級生が現れます。
何気なく口にされた言葉が、忘れようとしていた記憶を呼び覚ましてしまう。
優実が再び恐怖に囚われたとき、佐伯さんが見せる優しさとは――。
少しずつ、ほんの少しずつ、私の世界は広がっていた。
バイト帰りに、佐伯さんと五分だけ歩く。
臨港パークまで行く。
海を見る。
それだけのことなのに、私には大きな変化だった。
でも、過去は簡単には消えない。
その日は、昼過ぎから店が混んでいた。
近くでイベントがあったのか、観光客が多く、店内はいつもより賑やかだった。
「アイスカフェラテ二つ」
「チーズケーキもお願いします」
「席、空いてますか?」
私は忙しさに追われていた。
忙しい方が、余計なことを考えずに済む。
その時だった。
「え」
レジの前に立った女性の声が、私の耳に刺さった。
「もしかして、優実?」
心臓が止まったような気がした。
顔を上げる。
そこにいたのは、高校時代の同級生だった。
名前は、篠原真帆。
いじめの中心人物ではなかった。
けれど、いつも近くにいた。私が笑われている時、見ていた。写真を撮られた時、止めなかった。机の中のゴミを見て、口元を押さえて笑っていた。
その記憶が、一瞬で戻ってくる。
「久しぶりじゃん。今ここでバイトしてるんだ」
「……」
声が出ない。
レジの画面がぼやける。
指先が冷たくなっていく。
真帆は、悪気のない顔で笑っていた。
「全然気づかなかった。雰囲気変わったね」
「……ご注文は」
「え、そんな他人行儀? 同じクラスだったじゃん」
後ろに並んでいる客が、少しざわついた。
早くしなければ。
注文を取らなければ。
仕事中なんだから。
そう思うのに、体が動かない。
「でも、よかったじゃん。働けるようになったんだ」
「……」
「みんな心配してたよ。急に来なくなったからさ」
心配。
その言葉が、ひどく軽く聞こえた。
あの時、誰も助けてくれなかったのに。
「でも、優実って昔から繊細だったもんね」
「……」
「まあ、今は働けてるならよかったじゃん」
軽い。
あまりにも軽い。
私が三年間、息の仕方さえ分からなくなっていた時間を、その一言で片づけられた気がした。
「高校、途中で来なくなったよね。あのあとどうしてたの?」
その言葉で、息が詰まった。
店の音が遠くなる。
真帆の声だけが、教室の中の声に変わっていく。
笑い声。
机を叩く音。
スマホのシャッター音。
マスクしてた方がまだマシだよね。
頭の中で、誰かの声が響いた。
手が震え、カウンターの上のカップに触れた。
倒れそうになる。
その瞬間、横から低い声がした。
「すみません」
佐伯さんだった。
彼は、私と真帆の間に入るように立っていた。
いつからいたのか分からない。
「注文、先にお願いできますか」
「え?」
「後ろに並んでいる方がいます」
佐伯さんの声は、静かだった。
怒っているわけではない。
でも、逃げ場のない強さがあった。
真帆は少しむっとした顔をした。
「あ、すみません。じゃあ、アイスティーで」
「アイスティーですね」
私はなんとかレジを打とうとした。
でも、指がうまく動かない。
佐伯さんが、店長を呼んだ。
「すみません。店員さん、少し体調が悪そうです」
店長がすぐに来て、私の肩に手を置いた。
「森川さん、裏に入って」
「でも」
「大丈夫。代わるから」
私は頷くことしかできなかった。
バックヤードに入った瞬間、足の力が抜けた。
壁に背中を預け、しゃがみ込む。
息が苦しい。
手が震える。
喉の奥が詰まっている。
変わっていない。
私は何も変わっていない。
一年働いても、昔の同級生に会っただけで崩れてしまう。
まだ、あの教室の中にいる。
涙がこぼれた。
「森川さん」
少しして、佐伯さんがバックヤードの入口に立った。
店長が通してくれたのだろう。
私は慌てて顔を隠した。
「すみません」
「謝らないでください」
「仕事中なのに」
「体調が悪くなったら、休んでいいんです」
「違うんです。私、まだ何も変わってなくて」
声が震えた。
「一年も働いたのに。あの人を見ただけで、何もできなくなって」
「森川さん」
「私、やっぱり普通には戻れないんです」
佐伯さんは、ゆっくり近づいてきた。
でも、触れなかった。
私が怖がらない距離で止まった。
「崩れたんじゃありません」
「……え」
「戻ってこられたんです」
意味が分からなかった。
「戻って……」
「はい。今、ここにいます」
「でも」
「昔を思い出して苦しくなった。それでも、森川さんは今、あの教室じゃなくて、この店にいます」
「……」
「あの人の前から、ちゃんと離れられた。店長に助けを求められた。僕の声も聞こえた」
佐伯さんは、まっすぐ私を見た。
「それは、戻ってこられたってことです」
涙がまたこぼれた。
私の中では、失敗だった。
弱さだった。
何も変わっていない証拠だった。
でも、佐伯さんは違う見方をしてくれる。
できなかったことではなく、戻ってこられたことを見てくれる。
「佐伯さん」
「はい」
「怖かったです」
「はい」
「すごく、怖かった」
言葉にした瞬間、胸の奥に詰まっていたものが少しだけ動いた。
佐伯さんは頷いた。
「怖かったですね」
ただ、それだけだった。
でも、その一言が欲しかった。
頑張れでも、忘れろでも、気にするなでもなく。
怖かったね。
そう言ってほしかった。
私は、涙を拭きながら小さく息を吸った。
「私、あの人に会っただけで、まだこんなに……」
「森川さん」
佐伯さんは、静かに私の言葉を止めた。
「あの人の言葉が、森川さんの今を軽く扱っていい理由にはなりません」
「……」
「森川さんがここまで来たことを、誰かが雑に笑っていい理由にもなりません」
胸の奥で、何かがゆっくりほどけた。
怒鳴ったわけではない。
誰かを責めたわけでもない。
でも、佐伯さんは、私の一年を守ってくれた。
しばらくして、私は店長に謝り、早退させてもらうことになった。
店長は何も聞かず、「今日は帰って休んで」と言ってくれた。
店の裏口を出ると、佐伯さんが待っていた。
「駅まで送ります」
「仕事は」
「今日はもう終わっています」
「でも」
「一人で帰したくありません」
その言葉に、胸が鳴った。
駅までの道、私はマスクをつけた。
いつもより強く、端を押さえた。
佐伯さんは何も言わず、隣を歩いてくれた。
改札の前で、私は小さく言った。
「佐伯さん」
「はい」
「今日、来てくれて、ありがとうございました」
「間に合ってよかったです」
間に合ってよかった。
それは、まるで私を守るために来てくれたみたいな言い方だった。
私は顔を上げられなかった。
胸の奥が、怖さとは違うもので震えていた。
せっかく前へ進めたのに、また昔の自分へ戻ってしまった。
優実はそう思ってしまいます。
けれど、佐伯さんは彼女が積み重ねてきた一年を否定しませんでした。
過去に傷つけられた心が、誰かの言葉によって少しずつ温められていく。
次回、優実は再び外の世界へ足を踏み出します。




