第3話 臨港パークの海風
一年間、みなとみらいで働いていながら、一度もゆっくり海を眺めたことがなかった優実。
そんな彼女が、佐伯さんと臨港パークへ向かいます。
けれど、彼女には誰にも話せなかった過去がありました。
もし、その過去を知ったら。
佐伯さんは、今までと同じように接してくれるのでしょうか。
佐伯さんは、それからも毎朝カフェに来た。
「ホットコーヒー、Mでお願いします」
「はい。ホットコーヒーのMサイズですね」
それだけのやり取りなのに、私は少しだけ朝が怖くなくなった。
もちろん、全部が急に変わったわけではない。
通勤中はマスクをしている。
駅では下を向く。
電車の中で笑い声が聞こえると、今でも体が固くなる。
けれど、カフェに着いて制服に着替えると、少しだけ呼吸が整うようになった。
ここには、私を急かさず待ってくれる人がいる。
紙カップを落としても、大丈夫だと言ってくれた人がいる。
そう思えるだけで、足元が少しだけしっかりした。
ある金曜日の夕方、バイトが終わる頃に、佐伯さんが店に来た。
いつもの朝ではなく、仕事帰りの時間だった。
「森川さん」
「はい」
「今日も、少し歩きますか」
その聞き方が、前より少しだけ自然だった。
「遠くじゃないですか」
「遠くではないです。海が見える公園です。人はいますが、広い場所なので、たぶん歩きやすいと思います」
「どこですか」
「臨港パークです」
臨港パーク。
名前は知っている。
みなとみらいで働いていれば、聞いたことくらいはある。
でも、行ったことはない。
「無理なら、いつもの道だけで大丈夫です」
「……行ってみたい、です」
自分の声に、自分で驚いた。
佐伯さんは、嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、ゆっくり行きましょう」
臨港パークまでの道は、思っていたより静かだった。
もちろん人はいる。犬の散歩をしている人も、ベンチで話すカップルも、スマホで写真を撮る観光客もいる。
でも、街の中心よりは空が広い。
建物と建物の間から、海が見える。
私はマスクをつけたまま、佐伯さんの隣を歩いた。
「ここ、初めてですか」
「はい」
「そうなんですね」
「変ですか」
「いえ。初めての場所が近くにあるのは、いいと思います」
そんなふうに考えたことはなかった。
行けなかった場所。
できなかったこと。
普通なら経験しているはずのこと。
私はそれを、いつも自分の欠けた部分として数えていた。
でも、佐伯さんは違う言い方をする。
初めての場所が近くにある。
その言葉が、胸の奥にゆっくり染み込んだ。
海の見える場所で、私たちは立ち止まった。
空は夕暮れから夜へ変わる途中で、水面には街の光が揺れていた。
風が、マスクの端を少し揺らす。
「寒くないですか」
「大丈夫です」
本当は、少し寒かった。
でもそれ以上に、胸がいっぱいだった。
私は、海を見ていた。
こんなに近くにあったのに、一年も見に来なかった海。
「佐伯さん」
「はい」
「私、高校をやめたんです」
自分から言ったのに、声が震えた。
佐伯さんは、すぐには何も言わなかった。
ただ、こちらを見て、静かに待っていた。
「二年生の時に。いじめられて」
「……はい」
「笑い方が変とか、暗いとか、声が小さいとか。だんだん、写真を撮られたり、無視されたり、机にゴミを入れられたりして」
「……」
「マスクしてた方がまだマシって、言われたことがあって」
私はマスクに触れた。
「通勤中、マスクをしている人は今でもいますよね」
「はい」
「だから、誰も変には思わないと思います。でも、私のは……少し違うんです」
「違う?」
「風邪とか、感染対策だけじゃなくて。顔を隠していないと、外を歩けないんです」
言葉にした瞬間、胸の奥が痛くなった。
「学校をやめて、三年間ほとんど家から出られなくて。二十歳になって、やっとここでバイトを始めて……でも、まだ通勤中は外せません」
言い終えると、急に情けなくなった。
こんな話を、佐伯さんにしてどうするんだろう。
困らせたかもしれない。
重いと思われたかもしれない。
私は慌てて言った。
「すみません。こんな話」
「謝らないでください」
「でも」
「話してくれて、ありがとうございます」
佐伯さんの声は、少し低くなっていた。
「森川さん」
「はい」
「一年、バイトを続けたんですよね」
「……はい」
「それは、すごいことだと思います」
涙が、目の奥に溜まった。
バイトを始めたことを、すごいと言われたことはあった。
でも、バイトを続けたことを、そんなふうに言われたのは初めてだった。
「僕は、森川さんが弱いとは思いません」
「でも、私」
「怖いまま毎朝ここまで来て、怖いまま働いて、怖いまま帰っているんですよね」
「……」
「それは、弱い人にはできないと思います」
私は、泣かないように唇を噛んだ。
マスクがあってよかった。
そう思った。
泣きそうな顔を、隠してくれるから。
けれど同時に、少しだけ思った。
この人になら、いつか隠さなくてもいい日が来るのだろうか。
海風が、頬の横を通り抜けた。
私はマスクの中で、小さく息を吸った。
「佐伯さん」
「はい」
「また、ここに来てもいいですか」
「もちろんです」
「ひとりでは、まだ無理です」
「じゃあ、一緒に来ましょう」
迷いのない返事だった。
胸が、また少し熱くなる。
私は海を見ながら、初めて思った。
この街を、少しだけ知りたい。
過去を打ち明けるのは、優実にとって大きな勇気が必要なことでした。
佐伯さんは、その言葉を遮らず、最後まで聞いてくれます。
自分のことを知ってもらう。
二人の距離が、ほんの少し近づいた回でした。
けれど、過去の記憶は簡単には消えてくれません。




