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高校中退で引きこもりだった私を、みなとみらいのエリートが急かさず溺愛してくれました  作者: ちょこまろ


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2/11

第2話 五分だけの寄り道

放課後の寄り道も、友達との買い物も、優実にとっては遠い世界の出来事でした。


そんな彼女が、佐伯さんと初めて歩く、いつもとは違う帰り道。


特別な場所へ行くわけではありません。


ただ隣を歩いてくれる人がいる。


それだけで、見慣れた街の景色は少し違って見えるのかもしれません。

 寄り道という言葉は、私には少し眩しすぎた。


 学校帰りに友達とコンビニへ行くこと。

 駅前でクレープを買うこと。

 用もないのに本屋を歩くこと。


 そういう普通のことを、私は高校二年の冬からずっとしていない。


 家と学校。

 家と病院。

 家とバイト先。


 私の移動には、いつも目的地が必要だった。

 どこかへ行く理由がなければ、外に出てはいけない気がしていた。


 佐伯さんは、私の半歩前でも、後ろでもなく、隣を歩いた。

 歩幅はゆっくりだった。


 みなとみらいの夕方は、人が多い。

 仕事帰りの会社員。

 観光客。

 デート中の男女。


 誰も私のことなんて見ていないはずなのに、視線が肌に刺さるような気がする。


 私はマスクの端を指で押さえた。


 佐伯さんは、それに気づいたのかもしれない。

 けれど、何も言わなかった。


 マスクのことを聞かれない。


 それだけで、少しだけ息がしやすかった。


「寒いですか」

「あ、いえ。大丈夫です」


 佐伯さんは、それ以上聞かなかった。


 カフェのすぐ近くの道を、少しだけ歩く。

 遠くに海が見えた。ビルの間を抜ける風に、潮の匂いが混じっている。


 私は、みなとみらいで一年働いているのに、この匂いをちゃんと感じたことがなかった。


 いつも、駅までの道を早足で歩いていたから。


「森川さん」

「はい」

「嫌だったら言ってください」

「え?」

「僕、こういう時に何を言えばいいのか、あまり上手くなくて」


 意外な言葉だった。


 佐伯さんは、仕事ができる人に見える。

 難しい数字や資料を扱っているはずなのに、私と話す時だけは、言葉を急がない。

 その落差が、少し不思議だった。


「ただ、無理に話さなくても大丈夫です」

「……はい」

「今日は、外の空気を吸うだけで」


 マスクの理由も、私の過去も、聞かれなかった。


 そのことに、私は救われた。


「佐伯さんにも、苦手なことってあるんですか」

 気づいたら、そんなことを聞いていた。


 佐伯さんは少し驚いた顔をしたあと、真面目に頷いた。


「あります」

「そうなんですか」

「人前で失敗するのは、今でも苦手です」

「でも、佐伯さんは仕事ができそうです」

「仕事ができそうに見えるように、かなり練習しています」


 その言い方が少し真面目で、私は思わず小さく笑った。


 マスクの中で、口元が動いた。


 佐伯さんがこちらを見る。

 私は慌てて目を伏せた。


「すみません」

「笑われるようなことを言いましたか」

「いえ、そうじゃなくて」

「なら、よかったです」


 佐伯さんは、少しだけ安心したように笑った。


 少し歩いたところで、私の足が止まりかけた。

 前から来る人の波が、急に大きく見えたからだ。


 佐伯さんは、すぐには何も言わなかった。

 ただ、道の端を見てから、静かに言った。


「無理に慣れようとしなくていいと思います」

「え?」

「人って、急に広い場所へ出ると疲れます。まずは、戻れる距離を決めておいた方が安心します」


 戻れる距離。


 佐伯さんの言葉は、励ましというより、静かな設計図みたいだった。


「今日は、この角までにしましょう」

「……はい」


 決めてもらったのではなく、逃げ道を作ってもらったような気がした。


 五分だけと言っていたのに、たぶん十分くらい歩いた。

 それでも、遠くへは行っていない。カフェの近くの、少し海風が入る道を回っただけだ。


 けれど、私にとっては大事件だった。


 一年間、バイトが終わったらまっすぐ駅に向かっていた。

 帰り道以外の道を歩くことはなかった。


 今日は違う。

 私は、少しだけ寄り道をした。


「そろそろ駅の方へ戻りましょうか」

「はい」


 駅へ向かう道で、ランドマークタワーが見えた。

 高くて、まっすぐで、夜の空に向かって伸びている。


 いつもは怖かった。

 自分とは違う世界を見せつけられているみたいで。


 でも今日は、少しだけ違って見えた。


「森川さん」

「はい」

「明日も、お店にいますか」

「シフトは、入っています」

「じゃあ、またコーヒーを買いに行きます」


 それだけなのに、心臓が一度大きく鳴った。


「はい。お待ちしています」


 私がそう言うと、佐伯さんは少し驚いた顔をした。

 そして、やわらかく笑った。


「その言葉、嬉しいですね」


 私はマスクの下で、また少しだけ笑った。


 駅に入る前、私は振り返った。

 佐伯さんはまだ立っていて、軽く会釈をしてくれた。


 私は小さく頭を下げ、改札へ向かった。


 電車の中は混んでいた。

 やっぱり怖い。

 マスクは外せない。

 吊り革を握る手も、少し汗ばんでいた。


 でも、胸の中に今日の五分が残っていた。


 外の世界は、怖いだけじゃないのかもしれない。


 そんなことを思ったのは、三年ぶりだった。

優実が見つけたのは、怖くなくなる方法ではなく、怖くても一緒に歩ける人でした。


「また明日」と思える相手がいること。


その小さな喜びが、彼女の毎日を少しずつ変えていきます。


次回は、みなとみらいの海へ。

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