第1話 実家とバイト先だけの毎日
高校を中退し、三年間ほとんど家から出られなかった優実。
二十一歳になった今も、彼女の世界は実家とアルバイト先を往復するだけ。
そんな彼女の前に、決して急かさず、静かに待ってくれる男性が現れます。
横浜・みなとみらいを舞台に、一人の女性が愛される幸せを知っていく、優しい恋の物語です。
みなとみらいの朝は、いつも少し眩しい。
ランドマークタワーのガラスに光が跳ねて、通勤する人たちのスーツを白く照らしている。観光客はスマホを構え、楽しそうに笑いながら歩いている。キャリーケースを引く人も、ベビーカーを押す夫婦も、友達同士で写真を撮る女の子たちも、みんなこの街に似合っていた。
その中で、私はいつも少しだけ下を向いて歩く。
マスクの端を、指で押さえながら。
森川優実、二十一歳。
みなとみらいのカフェで、アルバイトをしている。
バイトを始めて、ちょうど一年が経った。
一年前の私は、家から出るだけで吐きそうになっていた。
玄関のドアノブを握るだけで手が震えた。外の空気を吸うのが怖かった。誰かに見られるのが怖かった。知らない人の笑い声が、自分に向けられているように聞こえた。
高校二年の冬、私は学校をやめた。
理由は、いじめだった。
最初は、ほんの些細なことだった。
笑い方が変。
声が小さい。
目つきが暗い。
何を考えているか分からない。
そんな言葉が少しずつ増えていった。
机の中にゴミを入れられた。
グループトークで写真を加工された。
廊下ですれ違うたびに、わざと笑われた。
ある日、誰かが言った。
「森川さんって、マスクしてた方がまだマシだよね」
その言葉だけが、今も耳の奥に残っている。
学校をやめてから、私は三年間、ほとんど家から出なかった。
部屋のカーテンを閉め、昼も夜も分からないような生活をしていた。
でも、二十歳の春。
私はようやく、今のカフェでアルバイトを始めた。
接客業なんて絶対に無理だと思っていた。
人の顔を見るのが怖い私に、笑顔で「いらっしゃいませ」なんて言えるはずがないと思っていた。
けれど、店長は言ってくれた。
「最初は裏方からでいいよ。無理に笑わなくてもいい。ここに来られただけで、まず一歩だから」
その言葉に、私は泣きそうになった。
一年経った今、私はレジにも立てるようになった。
注文も取れる。
コーヒーも淹れられる。
常連さんの顔も、少しだけ覚えた。
けれど、通勤中のマスクだけは外せない。
通勤電車の中でマスクをしている人は、今でも珍しくない。
だから、私がマスクをしていても、誰も不思議には思わない。
けれど私のマスクは、少し違う。
風邪を防ぐためだけではない。
人に顔を見られないため。
目元以外を隠して、誰の記憶にも残らないため。
私にとってマスクは、安心のための布であり、外の世界に出るための小さな鎧だった。
バイト中は、店のルールに合わせて接客している。
仕事の手順だけを考えていれば、なんとか立っていられる。注文を聞いて、レジを打って、カップを用意して、ありがとうございましたと言う。
でも、駅へ向かう時。
電車に乗る時。
バイトが終わって、ひとりで帰る時。
私は必ずマスクをつける。
顔を隠していないと、息ができない。
「おはようございます」
店の裏口から入り、更衣室でエプロンをつける。
鏡の中の自分を見るのは、今でも少し苦手だ。
薄い色の制服。
まとめた髪。
少し緊張した顔。
大丈夫。
今日は、ただ仕事をすればいい。
そう自分に言い聞かせて、私は店に出た。
朝のカフェは忙しい。
みなとみらいのオフィスビルで働く人たちは、歩くのも注文するのも早い。自分の行き先をちゃんと知っている人たちに見える。
「ホットコーヒー、Mで」
「アイスラテ、持ち帰りで」
「ソイラテ、砂糖なし」
私は注文を繰り返し、レジを打つ。
そんな中、毎朝ほとんど同じ時間に来る人がいる。
紺色のスーツ。
白いシャツ。
細い銀色の腕時計。
磨かれた革靴。
年齢は、たぶん二十五歳くらい。
私より少し年上。
最初に見た時は、近寄りがたい人だと思った。
背が高くて、姿勢がよくて、無駄な動きがない。仕事ができる人なのだと、見ただけで分かった。
けれど、その人は不思議なくらい急かさなかった。
「ホットコーヒー、Mでお願いします」
「はい。ホットコーヒーのMサイズですね」
私がレジを打つ間も、彼は静かに待っている。
後ろに列ができていても、指でカウンターを叩いたり、時計を見たりしない。
「四百二十円です」
スマホ決済を済ませたあと、彼は必ず少しだけ頭を下げる。
「ありがとうございます」
たったそれだけ。
でも、その「ありがとうございます」は、私を透明な店員としてではなく、一人の人間として見ているように聞こえた。
ある朝、私は紙カップを一つ落とした。
手が滑っただけだった。
けれど、後ろには列ができていた。瞬間的に焦って、胸がぎゅっと詰まる。
早く拾わなきゃ。
迷惑をかけている。
みんな見ている。
そう思った時、目の前のその人が、静かに言った。
「大丈夫です。急いでいないので」
私は顔を上げた。
彼は、何でもないことのように立っていた。
嫌な顔もしていない。
笑ってごまかすわけでもない。
ただ、待ってくれていた。
「す、すみません」
「謝らなくて大丈夫です」
その言葉に、私はなぜか泣きそうになった。
コーヒーを渡す時、私はいつもより小さな声で言った。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
彼はカップを受け取ると、ふっと表情をやわらげた。
「今日も、頑張ってください」
その一言が、私の胸に残った。
頑張ってください。
たったそれだけなのに、命令でも、励ましの押しつけでもなかった。
その人は、それからも毎朝来た。
店長に聞くと、近くのオフィスビルで働いているらしい。
名前は、佐伯尚哉さん。
大手IT企業の若手社員で、新規サービスの企画を担当している人だと、店長は言っていた。
「佐伯さん、感じいいよね。エリートっぽいけど、偉そうじゃないし」
店長の言葉に、私は曖昧に笑った。
エリート。
その言葉は、私には遠かった。
高校を中退した私。
三年間、家から出られなかった私。
二十一歳で、ようやくアルバイトを一年続けられた私。
そんな私と、佐伯さんは違う世界の人だ。
分かっている。
バイトが終わる頃、外は夕方になっていた。
みなとみらいの空は、淡いオレンジ色に染まっている。ランドマークタワーの上の方が光を受け、遠くで観覧車がゆっくり回っていた。
私は更衣室で私服に着替え、バッグからマスクを取り出した。
耳にかける。
鼻まで覆う。
少しだけ呼吸が楽になる。
今日もまっすぐ帰る。
実家から駅へ。
駅からカフェへ。
カフェから駅へ。
駅から実家へ。
それが私の一日だった。
みなとみらいで働いているのに、私はこの街を歩いたことがない。
ランドマークタワーも、クイーンズスクエアも、赤レンガ倉庫も、臨港パークも、私には関係ない場所だった。
楽しそうな人たちのための場所。
ちゃんと外を歩ける人たちのための場所。
私がいるのは、カフェの中だけでいい。
そう思いながら裏口を出た時だった。
胸の奥が、急に詰まった。
今日の朝、紙カップを落としたことを思い出したからだ。
大丈夫だと言われたのに、頭の中ではまだ、失敗した自分ばかりが繰り返されていた。
私は店の壁際で立ち止まり、浅く息をした。
早く駅に行かなきゃ。
帰らなきゃ。
いつもの道を歩かなきゃ。
そう思うのに、足が少しだけ動かなかった。
「大丈夫ですか」
声をかけられて、私は肩を揺らした。
振り向くと、佐伯さんが立っていた。
仕事帰りなのか、朝と同じスーツ姿だった。片手にはビジネスバッグを持っている。
「すみません。驚かせましたか」
「い、いえ」
マスク越しの声は、少しこもった。
佐伯さんは、私のマスクには何も言わなかった。
今の時代、通勤中や仕事帰りにマスクをしている人は珍しくない。
だから彼にとっても、私はただのマスクをした店員の一人だったのだと思う。
そのことに、私は少し安心していた。
「顔色が悪く見えたので」
「大丈夫、です」
「そうですか」
佐伯さんはそれ以上、踏み込まなかった。
「あの」
「はい」
「駅まで行くなら、表の通りを回った方が明るいです。海風も入るので、少し楽かもしれません」
私は返事に困った。
佐伯さんは慌てたように、少しだけ視線を外した。
「すみません。余計なお世話ですね」
「いえ」
「僕も駅の方なので、途中まで一緒に歩けます。もちろん、嫌なら一人で大丈夫です」
そう言って、佐伯さんは一歩下がった。
断れる距離を作ってくれた。
そのことに、私は少し驚いた。
この人は、私を引っ張らない。
選ぶ余地を残してくれる。
「……五分だけ、なら」
私がそう言うと、佐伯さんは少しだけ微笑んだ。
「はい。五分だけ」
その声は、私の歩幅より少しだけ遅かった。
誰かに置いていかれないことが、こんなに安心するなんて知らなかった。
ありがとうを言うのは、私の方なのに。
そう思いながら、私は初めて、帰り道ではない方向へ一歩を踏み出した。
誰かにとっては何でもない五分間が、優実にとっては大きな冒険になります。
佐伯尚哉の何気ない優しさが、閉ざされていた彼女の世界を少しずつ変え始めました。
次回、二人だけの小さな寄り道が始まります。




