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恋のフローチャートは、彼女の指先で  作者: 深町 アオ


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オフライン領域の脆弱性


「“ここまで”って、どこまで、ですか」


「教えてほしい?」


 彼女は少しだけ身を乗り出す。

 距離が縮まる。

 呼吸が、彼女の呼吸と重なりそうになる。


 視線が交わった。

 彼女の瞳の奥に、自分が映っているのがわかる。


 このまま少しでも動けば、

 何かが起きる――そんな錯覚さえ覚える距離。


 けれど。


 次の瞬間、彼女はわずかに顔をそらし、

 軽く立ち上がった。


「……それは、もう少し先のお楽しみ」


 ソファから距離を取る。そのあっさりとした仕草が、

 逆に、さっきまでの近さをありありと意識させる。


「今日は、ただ“慣れてもらう日”」


 氷見は、テーブルの上のリモコンを手に取った。

 照明の明るさをさらに一段階落とす。


 部屋が、柔らかな暗さに包まれた。


「眠れそう?」


「……正直、あまり」


 即答すると、彼女は小さく笑う。


「そうでしょうね。

 ここまで煽っておいて、ぐっすり寝られたら、

 それはそれで私の負けだもの」


「煽ってた自覚あるんですね」


「当然。無自覚でやるほど、器用じゃないから」


 彼女はソファの背にクッションを立てかけ、

 簡易的に“枕”の形に整える。


「横になって」


「ここで、ですか」


「そこが今日のベッド。

 私の部屋は、立ち入り禁止」


「ですよね」


 どこかホッとしながらも、

 ほんの少しだけ物足りなさを覚えてしまう自分がいる。


 ソファに身体を横たえると、

 さっきまで座っていたときよりも、

 彼女との距離が妙にわかりづらくなった。


 視界の端に、彼女の足元が見える。

 裸足の指先が、フローリングの上で小さく動いた。


(落ち着け……)


 心の中で自分に言い聞かせる。


 照明が暗くなったせいで、

 余計にほかの感覚が敏感になっている気がした。


 彼女の気配、匂い、息遣い。

 全部が近くにある。


「掛け布団はないけど、毛布ならある」


 そう言って、彼女は柔らかな毛布を広げ、

 悠人の上にふわりとかけた。


 毛布越しに、手の甲が、彼女の指に一瞬触れた。

 すぐに離れたのに、その一瞬がやけに長く感じられる。


「……氷見さんは?」


「私は自分の部屋。

 ちゃんと寝ないと明日、仕事にならないから」


「それはそうですね」


「佐伯くんも、なるべく寝なさい。

 明日、会社で顔色悪かったら、誰のせいかバレるでしょ」


 さらりと言いながら、彼女はソファの脇にしゃがみ込んだ。

 視線の高さが、寝転んでいる悠人と同じになる。


 近い。

 さっきまでよりも、ずっと。


 彼女は、毛布の端を整えながら、

 ふと、なにかを確認するように悠人を見つめた。


「……ねえ、佐伯くん」


「はい」


「さっき、“ドキドキしてる”って言ってたけど」


「言ってましたっけ」


「言ってた。顔に」


 軽い皮肉。

 けれど、その目は真面目だった。


「勘違いしなくていいから、ちゃんと覚えておきなさい」


「え?」


「私は、“そうさせるつもりで”やってるから」


 その一言が、静かな部屋の空気を震わせた。


 彼女は、何気ない仕草のように見えた動きも、

 距離の詰め方も、視線のぶつけ方も――

 全部、意図してやっている。


 自然体のふりをして、

 綿密に計算された“揺さぶり”だったのだ。


「だから、恥ずかしがる必要ない。

 私の狙い通りに、ちゃんとドキドキしてるだけ」


 彼女の指先が、毛布の上から、悠人の胸元あたりを軽く叩く。

 そこにある心臓の鼓動を、確かめるように。


「……ほら。まだうるさい」


「それは、氷見さんのせいですよ」


 思わず本音がこぼれる。


 氷見は一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく笑った。


「そうね。

 ちゃんと責任は取るつもりよ」


「責任って、どんな」


「それも、もう少し先のお楽しみ」


 また、曖昧なところで話を切られる。


 彼女は立ち上がりかけて――

 ふと、何かを思いついたように、再びしゃがみ込んだ。


「最後に、ひとつだけ」


「はい」


「目、閉じて」


「え?」


「“え?”じゃなくて。閉じて」


 逆らえない声のトーンだった。

 言われるがままに、ゆっくりと目を閉じる。


 視界が暗闇に沈む。

 代わりに、他の感覚が過敏になっていく。


 空気の動き。

 彼女が、少しだけ顔を近づけてきた気配。


 頬のあたりに、柔らかな吐息がかかる。

 それだけで、胸の鼓動がさらに早まった。


(まさか――)


 瞬間、あらゆる期待と妄想が、頭の中で暴走しかける。


 けれど。


 頬に触れたのは、唇ではなく。

 指先だった。


 人差し指が、そっと頬のラインをなぞる。

 耳のすぐ下から、顎のあたりまで、ゆっくりと。


 それは、キスよりも、ずっと静かで、

 ずっと意識に残る触れ方だった。


「……ビビりすぎ」


 耳元で、小さな声が落ちる。


「そんな顔してたら、

 ほんとに何かしたくなるじゃない」


 囁きのような一言。


 そして、彼女の気配がすっと離れていく。


「おやすみ、佐伯くん」


 そう言い残して、彼女はリビングを出て行った。

 ドアが静かに閉まる音だけが、暗い部屋に響く。


 残された悠人は、

 頬に残る指先の感触を、どう扱っていいかわからないまま、

 毛布の中で身じろぎもできずにいた。


(……完全に、遊ばれてる)


 わかっている。

 彼女が主導権を握っていることも、

 自分がその掌で転がされていることも。


 それでも――


 胸の奥に広がる熱は、

 少しも不快ではなかった。


 むしろ、

 この感覚を、もう少し味わっていたいとさえ思ってしまう。


 氷見綾という女は、やはり徹底していた。


 距離の詰め方も、

 距離の取り方も、

 相手をドキドキさせるタイミングも。


 すべて自分のペースで、

 自分のルールで決めてしまう。


 ――そして、そのペースに乗るかどうかの選択だけを、

 こちらに委ねてくるのだ。


(たぶん俺は、もう選んじゃってるんだろうな)


 彼女のペースに乗ることを。

 その先に何があるのか、わからないまま。


 いつの間にか、瞼の裏が重くなっていた。

 心臓のうるささは、まだ完全には収まらない。


 けれど、その鼓動を抱えたまま、

 悠人は、静かに眠りに落ちていった。

お読みいただきありがとうございます。


もし「続きが気になる」「氷見さんが可愛い」と思っていただけたら、 ページ下部の【☆☆☆(評価)】や【ブックマーク】を押していただけると執筆の励みになります。


次回は明日の8時更新です。お楽しみに。

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