借用リソースと、残り香の定義
洗面所のドアを閉めた瞬間、静寂が耳を塞いだ。
さっきまで、キーボードの音と、氷見の落ち着いた声が、ずっと側にあった。
それが途切れた途端、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
(……とりあえず、顔洗おう)
蛇口をひねると、冷たい水が流れ出る。
両手ですくって顔に当てると、さっきまでの緊張と眠気が一気に浮き上がってきた。
鏡に映る自分は、目の下にうっすらとクマを作っている。
でも、それ以上に――どこか上気した顔をしていた。
(仕事してただけのはずなんだけどな)
そう思って、苦笑が漏れる。
頭の片隅には、リビングにいる氷見の姿が何度も再生されていた。
ボタンを緩めたブラウス、カーディガン越しの細い腕。
ごく近くで聞こえる、低く落ち着いた声。
「焦らされるくらいがちょうどいい、って覚えておきなさい」
さっきの言葉が、耳の奥に残っている。
それは仕事の話にも聞こえたし、まるで、それ以外の意味にも取れるような――
どちらとも言い切れない、曖昧なライン上にあった。
(……シャワー、使うかどうか、決めろって言われたんだっけ)
タオル掛けには、きちんと畳まれたバスタオルが一枚。
新品らしく、柔軟剤の香りがほのかに漂っている。
触れた指先が、その柔らかさに沈んだ。
たぶん、さっき用意してくれたのだろう。
自分がここでどうするか、決める前に。
(「遠慮してるふりして、図々しい方を選んだの、誰だったかしら」……か)
苦いような、くすぐったいような記憶が蘇る。
あのときの言い方には、少しだけ意地悪な色が混じっていた。
でも、その意地悪さが不思議と嫌じゃない。
むしろ、ちゃんと見られているような、奇妙な安心感さえあった。
「……借りますか」
小さく呟いて、蛇口をひねる。
シャワーから落ちる水の音が、考え事を一旦かき消してくれた。
◇
シャワーから上がると、蒸気がまだ薄く漂っていた。
髪はタオルでざっと拭いただけで、少し水滴が残っている。
氷見から渡された部屋着――
シンプルなグレーのTシャツと、紺のスウェットパンツ。
「サイズ感は、たぶんそれで大丈夫」
そう言って彼女が手渡してきたとき、
指先がほんの一瞬、こちらの手の甲に触れた。
柔らかく、冷たい指先。
今でも、その感触が残っているような気がした。
Tシャツの裾を軽くつまむと、
ほのかに、彼女の香りがした。
さっきオフィスで感じた、少しスパイシーな香水と、
柔らかい柔軟剤の混ざった、淡い匂い。
(……これ、氷見さんのやつなんだよな)
妙なところに意識が向いてしまう。
胸の辺りが、じんわりと熱くなった。
深呼吸してから、洗面所のドアを開けた。
◇
リビングに戻ると、照明は少しだけ落とされていた。
さっきよりも暗く、柔らかな光。
ソファの背にもたれながら、氷見はスマホを見ていた。
髪はほどかれて、肩のあたりでさらりと流れている。
ブラウスから、ゆるめの部屋着に着替えていた。
大きめの白いTシャツに、膝上までのショートパンツ。
スウェット素材らしく、ラフな見た目なのに、
細い足のラインがあまりにもそのまま出ていて、
悠人は思わず視線のやり場に困った。
白い肌。
膝から下にかけての、まっすぐ伸びた足。
ふとした拍子に光を反射する、滑らかな膝小僧。
――見ないようにしようとすればするほど、意識が持っていかれる。
「……あ」
氷見が顔を上げた。
部屋着のままの姿で、こちらをじっと見る。
「似合ってるじゃない」
「あ、ありがとうございます」
思わず姿勢を正してしまう。
「サイズ、合ってよかった。
前のプロジェクトで徹夜したときに使ったやつだから、
まあ、男の人でも入ると思ってたけど」
「前にも、誰か泊まったことが?」
口にしてから、少し後悔した。
詮索に聞こえないだろうか、と。
だが、彼女は特に気にした様子もなく首を振る。
「ないわよ。
あのときは一人で、みっちり詰めてたから」
さらりと答え、
それから、わずかに目を細める。
「気になる?」
「いえ、その……」
「“誰か泊めたことあるのかな”って?」
あまりにストレートに言われて、
悠人は反射的に視線をそらした。
「わ、わかりやすいですかね、自分」
「わかりやすすぎるくらい」
彼女は小さく笑い、ソファの空いているスペースをポン、と叩く。
「ほら。立ってると落ち着かないから、座りなさい」
「お邪魔します」
ソファの端に腰掛ける。
彼女との距離は、肩と肩が少し離れる程度。
けれど、さっき会社で感じた「近さ」とは違う。
ここには、オフィスにはない柔らかい空気があった。
それでも、意識は過剰なほど研ぎ澄まされている。
同じソファに座っている、その事実だけで――
どうしてこんなに心臓が忙しいのか、自分でもわからない。
「そんな端っこに固まらなくてもいいのに」
氷見が、少しだけ身体をこちらへ寄せる。
ソファが、お互いの体重でじわりと沈んだ。
その沈み具合が、距離の近さを物理的に教えてくる。
「今さら、遠慮する必要ある?」
「いえ……ない、ですかね」
「ないわよ。
だって、シャワーまで借りてる人が、距離感だけ“常識的”にしようとしても、
もう手遅れでしょ」
口調は淡々としているのに、
その内容は妙に容赦がない。
ただ、不思議なことに――
責められている、というよりも、転がされている感覚の方が強かった。
「ねえ、佐伯くん」
「はい」
「そんなに緊張してると、こっちまで落ち着かない」
軽くため息をついたあと、
彼女はふいに手を伸ばした。
悠人の前髪を、指先でつまむ。
「乾かしなさいって言おうと思ったのに、
タオルで雑に拭いただけでしょ」
「あ、すみません」
「謝るところじゃない。
注意されてるの」
彼女の指が、前髪をすくい上げるように動く。
額に、ひやりとした指先の感触が残る。
近い。
息が触れそうな距離。
視線を上げようとすると、
自然と彼女の胸元が視界に入ってしまう。
大きめのTシャツの襟元が、わずかに開いていて、
その隙間から、細い首と、鎖骨のラインが覗いていた。
(やばい)
そう思って、慌てて視線を反らす。
けれど、額に触れる指は離れない。
指先が、前髪を払うたびに、
髪と皮膚の境目を、やわらかく撫でていく。
「動かないで」
「あ、はい」
従うしか、なかった。
額がじんわりと熱くなっていく。
それはシャワーのせいじゃないと、わかっている。
氷見は、一通り前髪を整えると、
ようやく指を離した。
「……これで、少しはマシ」
「ありがとうございます」
そう言いつつ、期待していた冷たい指先が離れてしまったことに、
どこか拍子抜けした自分がいる。
(何を期待してるんだ俺は)
内心で頭を抱えたくなった。
氷見は、彼のそんな心中を知らない――ような顔をしながら、
ソファの背にもたれ直す。
「で、どう? 家に人をあげる女の子って、
軽そうに見える?」
「え? いや、そんなこと全然」
「でも、さっき“泊めたことあるか”気になってた」
「それは……」
言葉に詰まると、彼女はほんの少しだけ口角を上げた。
「別に責めてない。
ただ、気になるならちゃんと聞けばいいのに、って思っただけ」
「ちゃんと聞いたら、嫌な気持ちにならないですか?」
「誰が?」
「氷見さんが」
「ならないわよ」
彼女は即答した。
「だって、聞いてくる時点で、それだけ私を意識してるってことだもの」
さらりと言いながら、視線を外さない。
その視線に射抜かれて、悠人は思わずたじろいだ。
「……自覚ある?」
「何の、ですか」
「今日の佐伯くん、いつもの倍くらい顔に出てる」
彼女の指が、再び動く。
今度は、頬のすぐ横のソファの背に、軽く添えられた。
指先ひとつ分の距離。
もし彼女が少しでも動けば、頬に触れてしまう距離。
「仕事中はもう少し、誤魔化すの上手かった気がするんだけど」
「今日は、その……」
「“今日は”?」
「近いので、色々と」
「色々?」
あえて繰り返し、彼女は首を傾げる。
その仕草が、普段のクールさからは想像できないほど柔らかい。
「どこが、そんなに“色々”?」
問いかけながら、彼女は少し身を寄せる。
脚が触れ合うかどうかのラインを、わざと踏むように。
ソファが、さらに沈んだ。
触れたわけではない。
……けれど、触れないことが逆に、感覚を研ぎ澄ませる。
自分の膝と、彼女の膝。
数センチの空間を挟んで、そこだけ空気が濃くなったようだった。
「えっと……」
どこから説明すればいいのかわからない。
どこまで言っていいのかもわからない。
氷見は、そんな彼の迷いをじっと観察している。
まるで、どこまで踏み込ませるかを見極めているように。
「……その、距離近いですし。
部屋着も、いつもと違って、その……」
「その?」
「落ち着かない、というか」
どうにか絞り出すと、
彼女はようやく、小さく「ふふ」と笑った。
「――そう。なら、成功ね」
「え?」
「“落ち着きすぎないようにする”のが、今日のコンセプトだから」
彼女はあっさりと告げる。
「言ったでしょ。
人にペース握られるの、好きじゃないって」
「ああ……」
「だから、佐伯くんには、
ちゃんと私に振り回されててほしいの」
その言い方は、冗談めいているのに、どこか本気だった。
振り回されている、という自覚はある。
でも、それを本人からはっきり宣言されると、妙に照れくさい。
「……氷見さんって、結構、人たらしですよね」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてるかどうか、微妙なラインですけど」
「微妙なラインが好きなの」
即座に返される。
彼女の指先が、ソファの背からすっと離れ、
今度は悠人の手の甲のすぐそばに落ち着いた。
触れてはいない。
ただ、手と手の間の空気が、やけに熱く感じられる。
「ねえ、佐伯くん」
「はい」
「こういう状況、初めて?」
彼女は視線を落とさずに聞く。
「同期の家に泊まるのは、初めてですけど」
「そうじゃなくて」
彼女はわずかに目を細める。
「“相手のペースで、じわじわ距離詰められてる”って自覚しながら、
そこに乗っかってる状況」
あまりにも正確すぎる言い方に、返す言葉が見つからなかった。
図星を刺された痛みと、
それを言語化されてしまったくすぐったさが、同時に押し寄せる。
「……初めて、ですね」
正直に認めると、
彼女はほんの少しだけ、満足そうに息を吐いた。
「そう。なら、慣れるまで付き合ってあげる」
「付き合って、って」
「経験値、って一人じゃ増やせないでしょ」
さらっと、とんでもないことを言う。
心臓が、また妙な高鳴り方をした。
「ま、安心して。
今日は“ここまで”だから」
お読みいただきありがとうございます。
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次回は20時更新です。お楽しみに。




