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恋のフローチャートは、彼女の指先で  作者: 深町 アオ


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仕様書にはない距離感

 部屋に入ると、まず目に飛び込んできたのは、整然とした無機質さだった。


 白い壁、シンプルなグレーのソファ。

 低めのテーブルに、スチール脚のモダンなチェア。

 飾り棚には、背表紙の揃った本が並んでいる。


 女の子らしい小物はほとんど見当たらなかった。


「散らかってるけど、そこ座って」


「いや、全然……むしろきれいすぎません?」


「それはそれで、落ち着かないって言われるのよね」


 氷見は鞄を置いて、すぐにキッチンへ向かう。

 キッチンカウンターの向こうで、髪をゆるくほどきながら、

 冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出した。


「コーヒー? それとも水?」


「あ、水で大丈夫です」


「大丈夫、じゃなくて。どっちがいいか聞いてるの」


 さらりとした言い回しなのに、

 こちらの逃げ道をきっちり塞いでくる。


「……水で」


「了解」


 グラスに水が注がれていく音が、妙に静かに響く。

 彼女は自分にはブラックのコーヒーを淹れ、

 マグカップを片手にテーブルへ戻ってきた。


 さっきまでオフィスで見ていたスーツ姿とは違い、

 ブラウスのボタンを上から二つほど外している。

 ジャケットも脱ぎ、カーディガンに着替えていた。


 それだけの変化なのに、

 “職場の氷見”とは、まるで別人のように見えた。


「そんなに見る?」


 彼女が椅子に腰掛けながら、淡々と指摘する。


「あ、ご、ごめん」


「別に。見られて困るような格好してないし」


 そう言って、彼女はマグカップの縁に口をつけた。

 ふと、視線だけを上げる。


「……少し、崩してるのはわざとだけど」


「え?」


「オンとオフくらい、切り替えたいの。

 ずっと“怖い氷見さん”だと、さすがに疲れるから」


 冗談めかして口にしながらも、

 彼女の眼差しだけは、どこか試すようだった。


「でも、その顔見てると――」


「その顔?」


「ね。“崩しすぎじゃないですか”って思ってるでしょ」


 見透かされたような言葉に、悠人は言葉を詰まらせる。


「ち、違いますよ。ただ、レアだなって」


「そう。レアなら、ちゃんと見ておきなさい」


 さりげない一言。

 けれど、見ていい、と許可されているような響きがある。


 その余裕に、またペースを握られている自分を自覚する。


「……仕事、しよっか」


 氷見はテーブルに自身のノートPCを広げ、

 悠人のPCを覗き込める位置に椅子を引いた。


 距離は、オフィスよりも近い。

 肩と肩が触れるか触れないかのラインを、きっちり保っている。


 あえて触れない、そのわずかな隙間が、妙に意識される。


「さっきのフロー、ここから先を一緒に詰める。

 私は仕様の抜けをチェックするから、佐伯くんは分岐の整理に集中して」


「あ、はい」


「それと」


 彼女が、そのままの距離感で顔を近づける。

 声が、耳のすぐそばで落ちた。


「うちのソファ、寝心地いいけど」


「え?」


「今日中に終わらなかったら、そこで寝てもらうことになるから。

 覚悟して、ちゃんと集中してね」


 それは脅しとも、軽い冗談とも取れる言い方だった。

 しかし、そのどちらでもない何か――

 期待と、わずかな挑発が混ざったような響きがあった。


「そ、そんな、迷惑じゃ……」


「迷惑だったらそもそも呼ばないわよ」


 彼女はあっさりと遮る。


「それに、途中で帰られたら困るのは私。

 私が“残ってほしい”って思ってるから、呼んでるの」


 その言い方には、逃げ場がない。

 彼女は、いつでもそうだ。

 主導権を、当たり前のように握っている。


「……わかりました。全力でやります」


「最初からそう言えばいいのに」


 彼女は満足げに小さく頷き、再び画面に視線を落とした。


 ◇


 それから数時間、

 ふたりは淡々と、しかし密度の高いやり取りを続けた。


 氷見は、指摘こそ厳しいが、

 できた部分は素直に認めてくれる。


「ここはいいわね」


 そう言って、さりげなく褒める。

 そのたびに悠人は、子どもみたいにやる気を補充されていく。


 ただ――


「この部分、まだ甘い」


 そう言って画面を指先でなぞるとき、

 彼女はわざわざ、悠人の手のすぐそばまで身を寄せる。


 肩が一瞬触れ合うか、触れ合わないか。

 視線を上げれば、すぐそこに彼女の横顔がある。


 彼女は気にしていないのか、

 あるいは、わざとなのか。


 ――その境界が、わからない。


「……あの」


「なに?」


「さっきから、ちょっと近くないですか?」


 勇気を振り絞って言うと、

 彼女は一瞬きょとんとした顔をした。


「そう?」


「そうです。というか、普通に緊張する距離です」


「へえ」


 興味深そうに、彼女はわずかに身を引いた。

 しかし、そのまま悠人の顔を覗き込むようにして、

 少しだけ口の端を上げる。


「……じゃあ、この距離は?」


 さっきより、ほんの数センチだけ離れた位置。

 それでも、意識するには十分すぎる距離感。


 心臓の鼓動が、またうるさくなる。


「ちょっと……まだ近いです」


「そう」


 彼女はあっさりと言った。


「じゃあ、このくらいで我慢しなさい」


 それは、彼の許容量を測ったうえで、ぎりぎりのラインに設定された距離だった。


 彼女がほんの少し笑ったのを見て、悠人は悟る。


(……完全に、ペース握られてるな)


 悔しいような、くすぐったいような感覚。

 でも、不思議と嫌ではない。


 むしろ、この微妙な距離感こそが、

 今の彼女との関係を象徴しているような気がした。


 ◇


 時計の針が、日付を越えた頃。


「ふう……なんとか、形になってきたわね」


 氷見が大きく息を吐き、椅子の背にもたれた。

 彼女のノートPCの画面には、ほぼ完成に近い仕様書のアウトラインが並んでいる。


「佐伯くんのフロー、悪くなかったわ。

 整理の仕方次第で、ちゃんと使える」


「よかった……。氷見さんがいなかったら、絶対ここまで来てないです」


「そうね」


 あっさり肯定されて、思わず苦笑してしまう。


「自分でも、ちょっとは否定してくださいよ」


「事実を曲げてまで、慰める趣味はないの」


 そう言いつつも、彼女の表情はどこか穏やかだった。


「……で。どうするの?」


「どう、って?」


「ここから帰るか、それとも――」


 彼女は視線だけをソファに向ける。

 柔らかそうなクッションが、静かに沈んでいる。


「さっき言った通り。

 ここで寝てもいいし、タクシーで帰ってもいい」


 選択肢を提示しながらも、

 その声にはわずかな含みがあった。


「佐伯くんが、自分で決めなさい」


 主導権を握っているのは、明らかに彼女。

 それでも最後の一線だけは、彼の口から言わせようとしている。


 悠人は一度、深呼吸をした。

 タクシー代は、もちろん痛い。

 それ以上に――


「……迷惑じゃなければ、ソファ、お借りしてもいいですか」


 決め手になったのは、

 彼女ともう少し、同じ空間にいたいという気持ちだった。


 氷見は、悠人の答えを聞くと、

 ほんのわずかに肩の力を抜いたように見えた。


「いいわよ。最初から、そのつもりだったし」


「え?」


「帰る気なら、もう少し早めに選択肢潰してた」


 さらりと言いながら、彼女は立ち上がる。


「シャワー使う? タオルは新しいの出すけど」


「え、いえ、そこまでお世話になるのは……」


「遠慮してるふりして、図々しい方を選んだの、誰だったかしら」


 淡々とした声。

 けれど、その言葉にはどこか楽しげな棘がある。


「……反論できません」


「そうでしょ」


 彼女は小さく笑うと、

 ソファの上のクッションを整え始めた。


「とりあえず、ここを簡単にベッド代わりにするから。

 佐伯くんは、その間にシャワー借りるか借りないか、決めておきなさい」


「決めるって……」


「何事にも優先順位と決断が必要なの。

 さっき教えたでしょ、“欲張りすぎると破綻する”って」


 仕事で使った言葉を、そのまま返される。

 反論の余地はなかった。


 彼女は、テーブルの上に残ったマグカップをキッチンに運びながら、

 ふと振り返る。


「――ねえ、佐伯くん」


「はい?」


「私、基本的に人を家に呼ばないの」


 その言葉は、さっきも聞いた。

 けれど、今度は少しニュアンスが違った。


「だから、勘違いしてもいいけど、急ぎすぎたら嫌いになる」


 ふっと、意味ありげな笑みを浮かべる。


「焦らされるくらいがちょうどいい、って覚えておきなさい」


 そう言い残して、彼女はキッチンの明かりの中に消えていった。


 残された悠人は、

 胸の高鳴りを持て余しながら、

 洗面所へ続く廊下をちらりと見やる。


(……これは、完全に、遊ばれてるよな)


 そう思いながらも、

 その“遊ばれ方”が、どうしようもなく心地よく感じている自分がいた。


 氷見綾香という女は、

 やっぱり徹頭徹尾、主導権を握るのが上手い。


 ――そして、彼は気付いている。


 その主導権を、簡単に手放してしまうくらいには、

 もう彼女に惹かれてしまっているのだということに。

お読みいただきありがとうございます。


もし「続きが気になる」「氷見さんが可愛い」と思っていただけたら、 ページ下部の【☆☆☆(評価)】や【ブックマーク】を押していただけると執筆の励みになります。


次回は16時更新です。お楽しみに。

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