家仕様の氷見さんと、三つのルール
胸のあたりで、なにか柔らかいものがふわふわと上下している。
――いや、胸じゃない。
毛布だ、と気づくまでに、数秒かかった。
うっすらと目を開けると、視界に入ってきたのは、見慣れない天井だった。
白くて、余計な装飾のない、シンプルな天井。
(あれ……)
寝返りを打とうとして、ソファの背に肩がぶつかった。
そこでようやく、昨夜の出来事が一気に逆再生される。
残業。
氷見の誘い。
彼女の家。
距離の詰め方。
頬に触れた、あの指先。
胸の鼓動が、寝起きにしてはやけに早い。
ソファの上で身体を起こすと、肩にかけられていた毛布がずり落ちた。
部屋はすでに、柔らかな朝の光に照らされている。
カーテンの隙間から差し込む光が、テーブルの上のマグカップを照らしていた。
コーヒーのかすかな香りが、空気の中に残っている。
――ということは。
「おはよう、佐伯くん」
予想通りの声が、キッチンの方から聞こえてきた。
振り向くと、エプロン姿の氷見が、
片手でマグカップを持ちながらこちらを見ていた。
昨夜と同じ、白いTシャツにショートパンツ。
その上から、グレーのシンプルなエプロンをつけている。
髪はひとつにまとめられていて、
いつものオフィスで見るきっちりしたポニーテールより、少しだけラフな結び方だった。
その“生活感”のある印象と、彼女の顔立ちの整い方のギャップに、
思わず息を呑む。
「お、おはようございます」
声がわずかに裏返った。
氷見は、何も言わずにマグカップをもうひとつ持ち上げる。
「コーヒーと、オレンジジュース。どっち?」
「あ、えっと……」
寝起きの頭では、そんなささいな質問にも即答できない。
「“どっちでもいい”は禁止」
容赦なく釘を刺される。
「昨日言ったでしょ。優先順位と、決断」
仕事の話で使った台詞を、
目覚めの一杯の選択にまで持ち出されている自分が、少しおかしくなった。
「……コーヒーでお願いします」
「了解」
氷見はコーヒーの方を持って、ソファの横のローテーブルに置く。
同時に、自分のマグカップにも口をつけた。
その仕草を、悠人はぼんやりと見つめる。
朝の光の中で見る彼女は、
オフィスでの“氷見綾”とも、昨夜の“距離を詰めてくる彼女”とも少し違って見えた。
少し眠たげな目元。
メイクは最小限――いや、ほとんどしていないのかもしれない。
それなのに、頬のラインも、唇の形も、驚くほど整っている。
(素でこれって、反則では)
心の中でそんなことを呟きながら、
コーヒーに手を伸ばす。
カップの縁に唇をつけた瞬間、
舌の上に、思ったよりしっかりした苦みが広がった。
「……けっこう濃いですね」
「寝不足のときは、これくらいじゃないと頭が起きないでしょ」
氷見は当たり前のように言う。
「砂糖? ミルク?」
「ブラックで大丈夫です」
「さっきまで、“濃いですね”って顔してたのに?」
「いや、その……氷見さんがブラック飲んでたんで」
口にしてから、自分でも何を言っているのかよくわからなくなった。
氷見は一瞬、まばたきをしたあと、
小さく、喉の奥で笑う。
「……それ、理屈になってないわよ」
「ですよね」
「でも、嫌いじゃないわ。そういう単純さ」
からかっているのか、褒めているのか。
その曖昧なラインの上を、彼女の言葉は器用に歩いていく。
「顔、まだ眠そう。
洗面所、使ってきなさい」
「あ、はい」
「その前に」
立ち上がろうとしたところで、
彼女が、すっと手を伸ばしてきた。
Tシャツの胸元のあたりを、軽くつままれる。
「これ、ずれてる」
「え? あ、すみません」
昨夜慌てて着替えたときのまま、
少し片側に引っ張られたようになっていたらしい。
彼女は、まるで自分の服を直すみたいな自然さで、
襟元を軽く整えた。
指先が、鎖骨のあたりに、一瞬触れる。
ほんの一瞬。
軽いタッチ。
なのに、そこだけ熱を持ったみたいに、感覚が残る。
「……はい、これで人前に出してもギリギリセーフ」
「ギリギリなんですか?」
「“男物のTシャツ着て女の家から出てきました”みたいな、わかりやすい感じは、
会社の近くじゃやめてほしいから」
見透かしたような言い草に、反射的に視線をそらした。
「そこまで考えてませんでした」
「わかってる。だから、代わりに私が考えてるの」
氷見はあっさりと言う。
「――ここでは、ね」
その最後の一言に、含みがあった。
◇
洗面所で顔を洗って戻ってくると、
テーブルの上にはいつの間にか、トーストとスクランブルエッグが並んでいた。
「……すみません、なんか色々と」
「“お世話になってすみません”って顔してるけど」
氷見は、パンにジャムを塗りながら言う。
「その割に、素直に座ったわね」
たしかに、悠人は何も考えずに椅子に座っていた。
食べろ、と言われるのが自然だと思ったからだ。
(あんまりにも当然みたいに段取りされるから、
“従うかどうか”考える前に動いてるな……)
自覚して、少しだけ背筋が伸びる。
「文句ある?」
「いえ、全然」
「でしょうね」
氷見は自分のトーストを一口かじりながら、
悠人のお皿を顎で示す。
「食べなさい。時間ないから」
「はい」
食パンのサクッとした感触と、バターの香り。
眠気が、少しずつ遠のいていく。
スクランブルエッグは、ふわふわというより、しっかり固め派らしい。
味付けは、シンプルな塩胡椒。
それが、妙に彼女らしいと思った。
「……氷見さんって、料理するんですね」
口に出してから、失礼だったかな、と一瞬不安になる。
だが、彼女は特に怒った様子もなく、淡々と返した。
「しないで生きられるほど、収入高くないから」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「わかってる。
“意外ですね”って言いたいんでしょ」
さらりと言い当てられて、ぐうの音も出ない。
「意外、というより、その……」
言葉を探していると、彼女は少しだけ首をかしげた。
「その?」
「……なんか、家庭的ですね」
結局、そのままの感想しか言葉にならなかった。
彼女は一瞬だけ目を瞬かせ、それから、ふっと頬を緩める。
「それ、あんまり人前で言わないで」
「え?」
「“氷見さん、家庭的なんだって”って広まったら、
会社でのキャラがブレるから」
その言い方は真面目なのに、どこか冗談めかしている。
「じゃあ、今のナシで」
「ダメ」
あっさり却下される。
「言ったことは取り消せないでしょ。
私の前では」
「……ですよね」
“私の前では”という言い方が、妙にひっかかった。
彼女は、さらにパンをちぎりながら続ける。
「ただの同期の前で見せる顔と、
うちに呼んで、コーヒー飲ませて、シャワー貸して、朝ご飯食べさせてる相手に見せる顔が、
同じじゃつまらないでしょ」
言葉の内容は淡々としているのに、
その重みは、決して軽くない。
「……じゃあ、これは“家仕様の氷見さん”なんですね」
「そう。
会社仕様よりちょっとだけ、サービス多め」
「サービス、って」
「勘違いしなくていいけど」
そう前置きしてから、彼女はナイフを軽くテーブルに置いた。
「優遇されてるって勘違いするのと、
ちゃんと“優遇されてる理由”をわかってるのは別だから」
「……理由?」
「昨日、ちゃんと最後まで仕事つきあったでしょ。
あれ、わりとポイント高いの」
彼女は軽く肩をすくめる。
「面倒な仕様整理を途中で投げ出さない人は、
こっちも安心して“遊べる”から」
その“遊べる”に、仕事以外の含みがあることは、
わざわざ言われなくてもわかった。
胸のどこかが、ちり、と熱くなる。
「……ちゃんと使われてる感じがします」
「実際、使ってるもの」
即答。
「昨日も、今日の朝も。
こっちのペースに、ちゃんと乗ってきてくれるから、
段取りが組みやすい」
氷見は、素知らぬ顔でコーヒーを一口飲む。
「――で、その流れでひとつ、お願い」
「お願いですか?」
「お願いというか、条件」
彼女の瞳が、すっとこちらを射抜く。
「昨日うちに泊まったこと、会社では黙っておいて」
予想していた言葉ではあった。
けれど、実際に口にされると、少しだけ胸がざわつく。
「……やっぱり、まずいですかね」
「“まずい”の基準次第だけど」
言いながら、彼女は視線だけソファに流す。
「変な噂立てられるの、好きじゃないの。
仕事と関係ないところで評価されるのも、興味ない」
「それは、わかる気がします」
「だから、私から誰かに話すことはない。
佐伯くんも、同じでいてほしい」
それは、“お願い”のトーンではなかった。
静かで、揺らぎのない目。
そこにあるのは、譲る気のない線引きだ。
――けれど同時に、その線を超える権利を、
昨夜の時点で自分にだけ与えてくれている、という事実もある。
「わかりました。誰にも言いません」
悠人は、まっすぐ答えた。
氷見は、その返事に、わずかに眼差しを和らげる。
「“言いません”じゃなくて、“バレません”でいてほしいけどね」
「バレません?」
「行動とか顔とか。
わかりやすく変わったら、勘のいい人にはすぐ気づかれるでしょ」
そう言って、彼女はじっと悠人の顔を見つめる。
「……今朝の時点で、もうちょっと怪しいけど」
「すみません」
「謝るところじゃないって」
同じやり取りを、何度目か繰り返す。
「とりあえず、“うっかりバレ”を防ぐために、
いくつかルール決めましょうか」
「ルール?」
「そう。
昨日も言った通り、人のペースを握るには、
最初にルールを決めるのが一番早いの」
その言い方に、妙な説得力がある。
「ルールその一」
彼女は指を一本立てる。
「会社の最寄り駅に着いたら、そこで解散。
一緒にオフィスには入らない」
「はい」
「ルールその二。
会社の中では、昨日までと同じ距離感。
必要以上に目で追わない、話しかけすぎない」
痛いところを突かれて、思わず視線が泳いだ。
「今日、絶対守ってね?」
「……善処します」
「善処じゃダメ。守る」
ぴしゃりと言われる。
「ルールその三」
彼女は、三本目の指を立てた。
「会社では、“昨日の続き”を期待しない」
「昨日の続き、って」
「昨日みたいな距離感。
あのソファとか、指とか、そういうの」
さらりと具体例を出されて、心臓が一瞬跳ねる。
彼女は、その反応を見て、満足そうに小さくうなずいた。
「――だから、代わりに」
「代わり?」
「仕事でちゃんと結果出したときだけ、“次のステップ”を解禁する」
その言葉に、喉が鳴る。
「次のステップって」
「具体的に知りたい?」
氷見は、少しだけ身を乗り出した。
目の前にある、朝食のテーブル。
それを挟んだ距離すら、急に縮まったように感じる。
「教えてほしいなら、条件つき」
「条件?」
「来週のクライアント打ち合わせ」
彼女は淡々と続ける。
「そこで、佐伯くんの担当パート、ちゃんと通したら」
「通したら?」
「そのときに、ひとつだけ“昨日の続き”をあげる」
あげる、という言葉に、
ぞくりとした感覚が背筋を走る。
報酬としての“続き”。
彼女は、それをあくまで仕事と同じ文脈で語っている。
でも、その中身が仕事ではないことは、明らかだった。
「……プレッシャーがえぐいですね」
「やる気出たでしょ」
「出たような、空回りしそうな」
「そこをコントロールするのが、私の役目」
氷見は立ち上がり、手早く食器をキッチンに運び始める。
「ほら。ぼーっとしてないで、スーツに着替えなさい。
貸してたTシャツとジャージは、そのまま脱衣所に置いておいて」
「あ、はい。洗濯までは……」
「洗うのは私だから気にしなくていい。
代わりに、仕事でちゃんと返して」
背中越しに言われたその台詞は、
いつも聞いている“仕事ができる先輩”の声と、
昨夜の“距離を詰める彼女”の声が混じったように聞こえた。
◇
準備を終え、玄関で靴を履く。
スーツに袖を通し、ネクタイも締めたはずなのに、
胸のどこかはまだ、さっきまでの“家の空気”を引きずっていた。
「……あ、ちょっと」
ドアノブに手をかけたところで、
氷見に呼び止められる。
振り向くと、彼女が一歩近づいてきた。
視線が、悠人の胸元――ネクタイの結び目に落ちる。
「それ、少し曲がってる」
「え?」
「朝からだらしないの、嫌い」
そう言って、彼女は迷いなく距離を詰めた。
ネクタイの結び目に、両手が触れる。
指先が喉元にかすめて、肌に冷たい感触が走る。
彼女の顔が近い。
視線を動かせば、睫毛の一本一本まで見えそうな距離。
コーヒーと、柔らかな香水の匂いが混ざって、
呼吸が浅くなっていく。
ネクタイの結び目を整えながら、
氷見はふと顔を上げた。
「動かないで」
「はい」
「……顔、赤い」
「これは、その」
「“その”じゃない」
彼女は軽く口元を緩める。
「ネクタイ直してるだけで、そんな真っ赤になられると、
悪戯したくなるからやめて」
「氷見さんが言います?」
「言うわよ」
結び目をきゅっと軽く引き締めて、
彼女は手を離した。
「はい。これで、外に出してもまあまあ見られるレベル」
「さっきから、ギリギリとか、まあまあばっかりですね」
「完璧にしちゃったら、成長余地がなくなるでしょ」
クス、と喉の奥で笑う。
「それに、完璧は仕事にだけ割いておきたいし」
その言葉は冗談半分、本気半分に聞こえた。
「――そろそろ行きましょうか」
彼女は自分も靴を履き、玄関の鍵を手に取る。
「さっきのルール、覚えてる?」
「駅で解散、一緒にオフィス入らない」
「あともう一つ、追加」
「まだあるんですか」
「うちを出た瞬間から、
“会社仕様の氷見綾”に戻る」
そう言って、彼女はドアノブに手をかけた。
「つまり、ここから先は――」
ドアを開ける直前、彼女は振り返る。
目の奥に、ささやかな悪戯っぽさが光った。
「さっきまでみたいに、甘やかさないってこと」
その宣言を合図に、玄関のドアが開く。
廊下に出た瞬間、
彼女の表情が、ほんのわずかに引き締まったように見えた。
それは、会社で見慣れた“クールな氷見”の顔だった。
お読みいただきありがとうございます。
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次回は20時更新です。お楽しみに。




