第十三話 胸の棘と、縺れる糸。
剣の用意した温かいお茶を手に、二人はダイニングテーブルに向かい合って座っていた。お互いに思うことは多々あるものの、憶測や推測で会話を進める気力はなく黙り込み、壁に掛かった大きな時計が秒針を刻む音だけが静かな部屋に響いた。部屋中に重苦しい空気が充満する中、沈黙を破るように玲一のプロテクターから着信音が聞こえた。それは大和の到着を知らせる通信であった。
剣の部屋へ案内され、血色を失ったままベッドで眠りについている虎路の姿を確認し、大和は沈痛な面持ちで二人に頭を下げた。
「大和さん。頭を、上げてください。・・・玲一、とりあえず今回の事態について、経緯を話して貰えるか?」
「うん・・・。恵くん帰った後、袴田さんの手伝いしてて。本部のビルから殆ど出た事が無いって話を聞いたからさ、なら一緒に街に出ようって誘ったんだよ。電車に乗るのも初めてっぽくって、人ごみに疲れたみたいだったから、早めに戻ろうと思って駅ビルに入ろうとした時に―――早川って、知らない若い女が声をかけてきたんだよ。袴田さんに。
ぱっとみは可愛らしい外見だったけど・・・まぁ、嫌な目をした女だった。で、その女を見た袴田さんから血の気が無くなって、震えが止まらなくなって・・・。元カノだのなんだの言ってたけど、全くそんな雰囲気じゃなかった。
・・・これ、咄嗟に録音したんで、実際に聞いて貰えますか?」
玲一は手慣れた手つきでプロテクターを操作し、録音を流す。雑音の中、構内に響くヒステリーな女性の声を、三人は静かに聴いた。言葉の内容を確認し、大和は玲一の機転に対し改めて頭を下げ、謝罪を述べた。
「大和さん、オレが聴きたいのはそんなんじゃないっすよ。・・・袴田さんについて、ちゃんと説明してもらえませんか?前に、記憶喪失とは聞いていました。けど、今日一日で、袴田さんが一体何者なのか、全くわからなくなりました。早川って誰ですか?元カノと言っていた、悪意の塊みたいなあの女は――――――袴田虎路とは、何者ですか。」
玲一のかつてない真剣な声色に、大和は顔を上げる。緊張の中、深い水底のように息苦しい沈黙を、か細く弱々しい大和の声が破る。
「・・・余りにも、聴くに耐えない話で。きっと君たちは、僕を軽蔑する事だと思う。」
そう、大和は額に手を当て、視線を床に落とし壁面にもたれ、力なく言葉を続けた。
「どういう順序で説明したら、伝わり易いだろうか。・・・そう、だな。まず、袴田虎路が地球の人間か、との問いに関しては・・・半分正解、と言ったところかな。木村君、トラが何か失言しちゃった?」
「電車に乗った時に、『地球』は不思議だと。けど、確かにこれまでも袴田さんの発言って、何処かふわふわと浮いていると言うか・・・浮世離れしてる気がしてて。知識も妙に偏っていて、やたら『華園』に詳しかったですよね。
何より、袴田さんが『守護者計画』と関係のない話をする時に、どこか幼さを感じていました。それに近視感を覚えて・・・どことなく、ピサンリに似てるなって。」
大和は堪らず苦笑し、玲一と剣それぞれに視線を移した。
「君たちは・・・本当に、勘がいい。少し長くなるけど、いいかな。―――まず初めに、結論を簡潔に述べるね。・・・早川俊昭と言う一人の青年が、自らの命を絶とうとした。意識不明の状態だったその身に、消滅しかけていた環を司る『門番』、キクロスを封じ同化させた。それが、“袴田虎路”だよ。」
願い、それは生きる導。ただ此処にあるだけの存在、そんな人生に。この世界に、存在する意味を、願いを、初めてこの手に掴んだ。
大和はその右手に宿る紋様を見つめ、あの日の出来事が幻ではなかったのかと、夢現に手元の資料に目を通していた。その望みのままに、その願いを叶えるべく、当てもなく様々な情報を探ったが、何もわからない。存在の証は確かにその右手に刻まれているのに、何もわからない。そんな日々を重ねていた、ある日。それは唐突に訪れた。
大和の跡取りとして、当主である祖父亡き後、当主代行を務めていた祖母の命により、大和グループの代表取締役社長として関係各所へ顔見世の挨拶回りを行っていた最中。ざわり、と全身が逆立った。直感的に、その右手に宿る何かと同じもの、それが近くにいる―――そう感じた。そして、祖母が監視役として派遣している立野をどうにか言い包め、僅かな暇を作り一人その場所へ向かった。
鬱蒼とした樹々が広々と茂る樹海。日中であっても陽の光を遮るその深い森は、常人の精神では立ち入ることさえ躊躇うであろう雰囲気に包まれていた。しかし、大和にとってそんなことはどうでもよかった。身に纏う高価なスーツが木の枝に引っかかろうとも、革靴が泥に塗れようとも、身なりなどお構いなしに深淵へと歩みを進めた。
暫く進むと、薄暗い樹々の景色の中に違和感を覚える。目を凝らしてその違和感に意識を向けると、樹にもたれるように倒れている人の姿を捉えた。まだ年若い青年が横たわっており、その周囲にはその人物の持ち物であろう黒いショルダーバッグと、幾つかの薬瓶とその中身の錠剤、ペットボトルが転がっていた。
(薬物の過剰摂取による自殺・・・か。)
大和はその横たわる青年に深々と一礼をし、さらに歩みを進めようと森の奥へ向き直る。すると、数メートル先の樹の根元に白く光る何かを見つけ、慎重にそれに近づいた。それは白くぼやけた、今にも消えそうにふらふらと揺れる子どもの姿をしていた。
「幽霊・・・。いや、違う。君は、彼女と同じ存在か?」
大きな眼は虚ろに揺れ、目の前の子どもは今にも消え入りそうに、その身体は向こう側の景色を透かし映した。大和は自身の右手を見やる。目の前の子どもは、この右手に刻まれた桜の痣、あの時の、救いを求め、手を差し伸べてきた彼女と同じものであると、そう感じた。幽霊か、妖怪か、はたまた鬼か悪魔か。その正体など、どうでもよかった。彼女の願いを叶えるための、目の前に現れた稀有な手掛かりを、手放す訳にはいかなかった。
「彼女もまた、消えかけていた。そして、僕の手を取り、この手に跡を残して・・・消えた。けど、此処にいる、いるはずだ・・・。なら、目の前の、この子が、唯一の手掛かりが消えないようにするためには・・・。」
無心だった。大和は傍らに横たわる青年の脈を測り、その肉体がまだ生命活動を続けていることの確認と、カバンの中に遺書を見つけ、彼が明確な意思で自殺を図ったことを確認した。
「これはあくまで推測だけど、僕の右手に宿る『門番』は恐らく―――死を司る『門番』だと思う。死に限りなく近い状態の早川俊昭とキクロスを、この『門番』の力を以って結び付けたんだと。・・・軽蔑、どころじゃないね。当時は必死で考えが至らなかったけど、今なら非人道的な行いだったと理解できる。僕は、死を望んだ早川君の遺志を、願いを踏みつけた。これは赦されることではないと、自覚している。」
出逢ってまだ半年足らずであるも、日々を共に過ごしてきた仲間の、抱えていたあまりの事情に、剣と玲一は言葉を無くす。
ただ少しの沈黙の後、意を決したように剣が口を開く。
「大和さん、敢えて尋ねます。・・・早川さんは、本当に自殺だったんでしょうか?」
「ちょっ、剣く・・・」
「構わない!・・・構わない。その質問は、正しい。」
剣の質問の意図を汲み、止めようとした玲一を遮り、大和は一呼吸おいて話を続ける。
「僕もね、自分自身が一般的な人間とだいぶずれている自覚はあるよ。だけど、曲がりなりにも組織を束ねる、大和の人間として役職に就くべく教育を受けてきた。全従業員とその家族、関係者諸々。それら責任の上に存在する者としての責務がある。」
苦しそうに語るその表情に、自嘲気味な笑いがもれる。
「早川君の自殺は本当だよ。その後の調査で、そう至るべき根拠も掴んでいる。ただ、僕がしたことは彼の遺志を踏みにじる・・・墓場荒らしそのものだったけどね。
昏睡状態の彼に、意思の疎通を図れない程に衰弱した『門番』を同化させ、その後知り合いの医師が勤める病院に運んだ。・・・それから半年ほど、意識は戻らなかった。その間、ご家族に当たり障りのない説明を行ったり、彼が何故自死に至ったのか・・・その経緯について調査したりしてね。
意識を取り戻した彼と、初めて会った日のことは今でも鮮明に覚えている。目の前の彼は、それはすでに早川俊昭ではなかった。」
意識が戻る気配がなく、願いのままに永久の眠りについたように横たわり続けた彼は、その日。病院のベッドの上で、まるで小さな子どものようにあどけなく、きょとんとした表情でこちらを見つめていた。問いかけ、話しを進めると、自分が対峙している相手が、目の前に存在している人間ではない事実が固められていく。半年前まで早川俊昭だったその人物は、自身をキクロスと名乗った。
「・・・袴田さんの身体を覆う、首まで伸びた鎖のような痣・・・。あれも、この蝶みたいな『契約者』の証ですか?」
剣は自身の左鎖骨に手を当て、大和に問いかける。
「見ちゃったか。・・・ううん。僕の右手、鹿蔵君の左肩、木村君の左足に小野原君の左手・・・。これらの紋様は、『契約者』の証と言えるだろうけど、トラのは違う。
早川君もキクロスも、意識の無い状態で、意思の疎通も図れていない。そもそも・・・『契約』していない。早川君という器に、キクロスという『門番』の・・・魂と言うべきか。それを封じて、僕の死を司る『門番』の力でで繋ぎ止めている状態なんだと思う。あの、虎路の全身を縛り付ける鎖の痣は、その影響と考えている。
しかも、第三者である僕が介入しているから、余計にその体内で一体どうなっているかがわからない。彼が目覚めた時、キクロスの意識も混濁していて、落ち着くまでに相当の時間がかかったが・・・未だに記憶の欠落があるらしい。それに、今まで早川君と思しき人格が現れたことはない。・・・現在彼がトラの中に存在しているのかどうかも、確かじゃないんだ。」
大和は壁に背を預けたまま、ずるずると床にへたり込む。二年前のあの日から、ずっと胸に刺さり続けた罪悪感。それは口にすることで鋭い棘となり、改めて自身に突き刺さる。
「大和さん。その・・・鎖の痣は確かに目を引いたのですが、それ以上に背中と腹部の古傷、火傷の痕から切り傷まで相当数ありましたけど、あれは・・・あれが、自殺の原因ですか。」
剣の発言に、言葉を無くし険しい顔をしていた玲一がハッと大和の方を向く。
「そうだよ、早川くんの自殺の原因って何なの?」
「私も、詳しく聴きたいです。」
三人共に寝室を振り向く。そこにはドアの縁に寄りかかるように身体を預けた虎路が立っていた。
「・・・大和。貴方が私についた嘘については言及しません。事実、貴方の行動が無ければ、私はあの時に消え失せていたでしょう。それほどまでに、衰弱していました。・・・鍵である精神体が消滅すれば、門は開き、こちらとあちらの世界がどうなっていたかもわかりません。結果として、世界の現状は貴方が守り防いだものだとも言えます。
ただ・・・今、私は。早川俊昭という人物を、その名を初めて聴きました。この身体の、本当の名前を。―――教えてください。この身に、この人に、一体何があって、今、こうなっているのかを。」
「・・・あぁ、わかった。早川君についての資料を取ってくるから、少し待っていてくれ。鹿蔵君、木村君、トラを頼んだ。」
そう言って、大和は部屋を出た。剣は虎路を支えソファに移動させ、そのままキッチンへ向かった。
「袴田さん、今日は本当にすみませんでした!!」
座っているのもやっとで、ソファに全身を預ける虎路の正面で、玲一は勢いよく頭を下げる。
「木村様、止めてください。あなたに責任はありません。むしろ、あの場から救っていただいてありがとうございました。・・・街の散策も、楽しかったですよ。
それに、謝罪を述べなければならないのは・・・私です。『門番』であることを、お二方に伏せていたこと、大変申し訳ありませんでした。」
頭を上げた玲一に向かい、ゆっくりと頭を下げようとする虎路の額を、キッチンから戻った剣の左手が受け止めた。
「袴田さん。たぶん今、極度の緊張状態から解放されて身体に負担がかかっているのと、脱水症状も起こしかけていると思います。頭はあまり動かさない方がいいです。」
剣はそのまま虎路の頭を軽く持ち上げ上体を起こすと、右手に抱えたトレーをテーブルに置き、ぼんやりとした表情の虎路の前に飲み物を並べた。
「胃の内容物を全て戻していたので、刺激が少ないようにぬるめのお白湯にしました。あとは香りで気分が落ち着けばいいかと、カモミールティーを豆乳でラテにしています。飲めそうだったら、飲んでみてください。」
「・・・いや、マジでそのホスピタリティなんなの?剣くん、お店出した方がよくない?」
シリアスな場面などお構いなしで平常運行の剣のもてなしに、玲一が真顔で呟く。
「玲一、飲食と接客をなめるなよ。衛生管理に経理運営、店内整備に仕入れ。接客から何から大変なんだからな。」
剣はそうたしなめると、玲一の前にも温かいお茶を出し直す。キッチンへ戻ろうとしたタイミングで、資料を手にした大和が部屋に戻ってきた。大和と自身のお茶を用意し、剣が席に着くと、渡された資料にそれぞれ目を通し始めた。
早川俊昭は早川克司と比紗子の間に産まれた第一子であり、一人っ子であった。スポーツ観戦が好きな父親の勧めで、幼少期に地元のジュニアサッカースクールに通い、その才能は周囲の大人たちも目を見張るものであった。当時のチームメンバーも、彼はプロ選手になるであろうと確信していたほどだった。
彼の人生に起こった最初の不幸は、小学生の時に不況の煽りを受け、父親が会社にリストラされたこと。早川克司は真面目な性格であったため、一刻も早く再就職を、と積極的に活動するも不況の折り、中々実を結ばず、夫婦仲は冷え込み喧嘩が絶えず、家庭内の空気は悪化していった。
収入等で前職と同等の条件を諦め、ようやく採用された会社は転勤ありきの業務であった。父親本人は、単身赴任で少しでも家族の負担を減らすように考え就いたが、家族が別居するなんておかしい、と母親の主張により、転勤の度に一家揃って引っ越すこととなる。
もちろんサッカースクールに通う余裕などなく、さらに度重なる引っ越しにより友達という友達を作ることも困難になった状況下において、早川俊昭は明るく人懐っこい性格から、大人しく寡黙な少年へと変貌していった。
それでも最初の内は、努めて明るく振舞いクラスに溶け込んでいたが、引っ越しが重なると出逢ったその場で別れがチラつき、まともに一から人間関係を構築する気力も失っていった。学校が変わる度に授業の進捗にも差があり、進んでいた時はともかく、遅れていた時は自力でその差を埋めるために必死であった。
大好きなサッカーに関しても、最初の内は積極的にグループの輪に入っていったが、チームスポーツである以上、いついなくなるかわからない自分が中途半端に輪を乱すことになるのを恐れ、一人で練習するようになった。それでも続けてさえいれば。ボールを触る感覚を忘れず、身体を鍛えてさえいれば、いつか必ずチャンスはある筈だと、一人きりで鍛錬を欠かす日はなかった。
父の仕事は以前より厳しく、残業が重なり、業務は前職より大変なものであったが収入は大幅に減り、そのことを快く思わなかった母と険悪な雰囲気となり、家庭内は日常的にギスギスとしていた。サッカーだけが、自分が自分でいられる唯一の手段であった。
引っ越しの回数が両手の指いっぱいになろうとした頃に父が再度の転職を果たし、高校は落ち着いて通えるように、と話してくれた。そして、これが彼にとって最悪の悲劇の始まりであった。
同じ学校に通い続けられる。そんな普通のことが、幸せだった。家計に負担をかけないようにと公立ではあったが、その地域では割と評判のいい高校へ入学を果たした。久しぶりにチームでプレーが出来るとサッカー部に入部し、その才能を発揮した。
元々の才覚に加え、幼少期にサッカースクールに通って基礎技術を身につけていること、長年にわたり日々培った鍛錬の成果は、強豪校でもない公立校では抜きんでていた。幾多の転校により、クラスでは良くも悪くも目立たずにひっそりと過ごす処世術を身につけていたが、サッカーに関しては全力で向き合うことしか知らなかった。サッカーに対する姿勢も実力も、そもそもが周囲と違っていたのだ。そして、入部から数ヵ月。一年にしてレギュラーメンバーに選出されることとなる。
その翌日、いつものように部室に入ると、自分のロッカーが無くなっている。昨日まで、普通に話していた部員や、クラスメイトが話しかけると気まずそうに逃げていく。打って変わっての剣呑な雰囲気に、戸惑いながら放課後、部室に向かうと、それまで見たことがない生徒が数人、顧問と待ち構えていた。
「早川だっけ?お前、新入生のくせにすごいことやっちゃったなぁ~。顧問脅かすとか、さすが他所モンはやること違うなぁ!」
中心人物と思われる人間が一人、部室内のベンチに腰掛け、その傍らの数人がニヤニヤと早川を囲んだ。言葉の意味が理解できず顧問を見ると、顧問はずっと下を向いていた。
「言っている意味がわかりません。どういうことでしょうか、飯塚先生。朝からぼくのロッカーが無くなっていることと関係がありますか?」
そう言い終わると同時に、横に立っていた一人が足元のバケツを早川に向けて勢いよく蹴飛ばした。
「はぁ?!オマエ、馬鹿なん?自分がやったこともわかってないって。マジ、ウケるわ。」
「いやいや、スカしててムカつくわ、その態度。ほら、ヅカちゃ~ん。オレらに言ってくれた通りに、説明してやってよ。そいつに、何されたんだっけ?」
自分を囲む数人の男子生徒が代わる代わる口を開く。早川は、改めて顧問に向き直りその言葉を待った。
「あ・・・。いや、そのだな。早川、お前がな、数日前に、自分をレギュラーにしろって・・・俺をな、脅迫したんだよな?・・・なっ?」
目の前の教師は、耳を疑う言葉を発した。泳いだ視線を決して早川に向けることなく。
「えー、ヅカちゃん優しい~!違うでしょ、ナイフ突き付けられたんでしょ?」
「やー、オレは嫁さんと娘さんの写真を目の前で切り刻まれて、こうされたくなかったら・・・って脅迫されたって聞いたよ!」
「ギャハハ、最悪~!!」
そして状況を理解する。入学してこの数ヵ月、毎日部活に出ていたが、ベンチに座っている男を含め誰一人部活で見た覚えはない。不良か何かわからないが、教師を巻き込んで自分をハメようとしているのだと。
「飯塚先生、どういうことですか。ぼくはそんなことした覚えはありません!」
顧問の教師は、こちらを見ない。ずっと足元に視線を落としている。気付けば、腹部に走る痛み。早川は見覚えのないその数人の生徒に囲まれ暴力を受ける。彼らは、楽しそうに、大声で笑いながら。その身体を何度も何度も踏みにじり、蹴り上げた。
一度も反撃することもなく、一方的な暴行を受けた早川に待ち受けていたのは、停学処分。暴行を受けている間、この圧倒的理不尽について、彼らはわかりやすく解説してくれた。
「他所モンが、我がもの顔で歩いてん、じゃねーよっ!!」
「オマエさぁ、そこにいる大ちゃんか何者かわかってんの?大ちゃんに逆らったらさぁ、ここじゃ生きていけないんだよ!」
「都会育ちだかなんだか知らねーけどよ、目障りなんだよオマエ!」
ベンチに座った中心核の生徒、名を吉井大輔。彼の父親は地元で幅を利かせる吉井産業の社長であった。また、親類には議員や公務員が多く、さらに地域一帯の働き口は吉井一族が占めており、生徒のほとんどの親がその関連会社に勤めていた。まさに親の雇用が人質状態のため、吉井大輔の独裁は幼少期より横行していた。代わり映えのない、小さな世界で。物珍しい“他所モノ”であった早川俊昭は、格好の餌食となったのであった。
一方的な暴行であるのは明らかだったが、世間体と自分の身にしか興味のない母親は、息子の言い分など一切聞く気はなく、停学中もずっと罵倒を浴びせてきた。父親はさすがにおかしいと感じたものの、新しい仕事で日々疲れ切った状態で、黙秘する息子を問い質す気力もなかった。
これまでは多少のトラブルに巻き込まれても、皮肉にも引っ越しが逃げ場として存在していたが、今回はそれがなかった。そして、父親が今回就職した先こそが、吉井の息がかかった企業であり、就職難に苦しんだ父親を間近で見続けていた早川は、抗うことも出来ずに彼らの憂さ晴らしの対象となった。“いじめ”と称するのもぬるい、数々の悪行が記された手元の資料を読み進め、剣と玲一の表情は見る見る間に険しさを増していく。
学校にも、家にも、どこにも居場所がなかった。それでも、サッカーボールに触れている時間、ただそれだけが、彼を支えた。それは、ずっと昔からだった。
これまでの“標的”は、「ごめんなさい」「許して」と泣き縋って来た。当然、標的とされた相手は特別に何かをしたわけではない。ただ、“気に入らない”、“なんかムカつく”、“暇だったから”などの理由で、彼らは平然と人権を踏みにじってきた。だというのに、この“他所モノ”は、どうやっても泣きもせず、屈しない。殴っても蹴っても、在りもしないでっちあげで社会的にダメージを負わせても、どうやっても折れない早川に、彼らは痺れを切らした。
「彼の、唯一の希望を潰したんだよ。」
大和は、剣が淹れたお茶に口をつけ、ぽつりと呟く。冷めきった液体が喉を伝う。
剣と玲一がその声で、資料から大和へ視線を移す。
「早川君は、ずっと一人でサッカーの練習を続けていた。その当時は、人目に付きにくいように河川敷の橋の下の空き地でね。それを知った彼らは、複数人で早川君を取り押さえ、近くの工事現場から持ってきたスコップで・・・足を、潰したんだ。」
酷ぇ、と玲一が呟きをもらす。大和は苦し気な表情で話を続ける。
「いじめ、どころか傷害事件だよ、日常的な暴力行為も全て。肉体に残った傷も十分な証拠。なのに、この一件ですら、工事現場から無断でスコップを持ち出したという窃盗の濡れ衣を早川君にきせているんだ。そして、退学処分が下っている。
・・・この時に、彼は靭帯を痛めている。日常生活を送る分に支障は少ないけど、走ることが厳しく、激しい運動は完全にアウト。サッカーという、唯一の希望を砕かれた。これが、彼が自らの命を絶つ決意に至った原因だと考えている。」
「待って!!暇つぶしって・・・そんなレベルじゃないでしょ、これ!明確な害意があんじゃん!!それに・・・っ、早川さんのご両親っつーか、お母さんおかしいでしょ!」
「僕も、そう思う。」
玲一の悲痛な叫びに、大和は苦悶の表情で同調する。
「だからこそ、僕は自分を赦せない。これだけ苦しみぬいて、死を望み、行動を起こした、早川君の遺志を・・・僕は、僕の望みのために汚してしまった。死してなお、苦しめてしまった。・・・償いようが、わからないんだ。」
大和はそのまま頭を抱え、俯く。自分たちとそう年齢の違わない、ほぼ同年代の人間が、寄る辺もなく一人ぼっちで苦しんでいたという現実に静かな絶望感が漂う。そんな中、剣の柔らかな声が静寂を破る。
「袴田さん、無理しないでください。早川さんに起きたことを知りたい、知らなくてはならないという気持ちはわかります。けど、今この資料を無理に読んでも、早川さんの傷を抉るだけになるかもしれません。」
はっ、と大和と玲一は虎路に視線を移す。虎路は血の気の戻らない顔のまま資料に手をかけているも、ページをめくるのを身体が拒否しているように動けず、浅い呼吸を繰り返していた。剣は隣でその様子を見守っていたらしく、資料を取り上げ肩を貸す。
「鹿蔵様、私は・・・。」
「今、袴田さんが最優先すべきは休むことです。横になりましょう。・・・眠るのは、怖いかもしれません。それでも、休むべきだと思います。一晩休んで、回復が見込めなければ、病院に行きましょう。玲一、袴田さんに付いていて貰えるか?なんなら、子守唄を唄ってもいいぞ。」
「剣くーん・・・そんなん言われたら、オレ唄っちゃうよ、美声披露しちゃうよ?」
場を和ませるための冗談なのか、本気なのか、相変わらずわかりにくい剣のボケに苦笑いしつつ、玲一はベッドに横になった虎路の傍らに椅子を運び、弟妹にしていたように頭を撫でて他愛のない話を語りはじめた。
二人の様子を見守り、剣は話の続きは場を変えようと、大和と共に部屋を後にした。




