第十一話 意地っ張りと、その答え。
恵は図書館を飛び出し、勢いのまま無我夢中で校庭を駆ける。本校舎の側にある大きなクスノキが目に入り、その裏手に回り大きな幹に背を預けた。肺が酸素を求めて呼吸が速く、浅くなる。はぁ、はぁ、はぁ、と、久しぶりに感じるその息苦しさに、苦悶の表情を浮かべた。
(成長するにつれて、発作が治まって。今では季節の変わり目に、急激な気温差で息苦しさを多少感じるくらいまで回復していた。それでも、急激に負担をかけるとこの有様だ。
・・・さっきのあれは、なんだ?虎に似た化け物、ボクへの殺意に迷いがなかった。そもそも、大学構内の様子がおかしい。この時間帯で、ここまでまったく人の姿を見ていない。まるで、あの化け物とボクの二人だけが世界に取り残されたような・・・いや。世界から、切り取られた?・・・だとすれば。どこに逃げても、どこまで走り続けても、あいつの手の平の上って事じゃないか?)
喉の奥から鉄の味がする。中々整わない呼吸に、静かに怒りが込み上げてきた。
「散々苦しんで、ムカついて、・・・悔しくて仕方なくても。・・・生きてきたんだよ、今まで!!なのに、こんなふざけた事があるか。・・・くそっ!」
ちくしょう、とやり場のない怒りを。手の平を爪が食い込むほど強く握り絞め、勢いよく背後の木肌を殴りつけた・・・はずだった。だが、そこに在る筈の幹の感触は無く、振り上げた腕の反動で、背中ごと身体が宙に放り出されたようにバランスが崩れる。まるでクスノキに吸い込まれたように、恵は後手にそのまま倒れこむ。
不思議な感覚だった。ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐり、倒れた際に痛みは感じず、背中には柔らかな感触。ゆっくりと瞼を上げると、四角い空が目に入った。
「・・・化け物に命を狙われたかと思えば、今度は何だ。どうなっている、一体。」
くるくる目まぐるしい場面転換に、噴出した怒りも行き場所を失った。瞼を閉じ、大きく息を吐くと、すぐ側で声が聴こえた。
「ねぇ、あんた。」
がばっと上体を起こし、声の方を見やる。周囲には色とりどりの花が咲き乱れ、恵の目の前には陶磁のような白い肌、透き通る美しい銀糸に似た髪、水晶のような瞳をもつ少年が立っていた。その風貌からは考え付かないような、不機嫌そうな表情をして少年は言葉を続ける。
「死にたくないでしょ、ムカついているでしょ。おれもね、あいつら『半獣落ち』にムカついている。だからさ、お前の力を貸せよ。」
捲し立てるように、淡々と述べる少年。恵は呆気にとられポカンと口を開けて聴いていたが、脳が少年の言葉を理解し終えると、一気に感情が溢れた。
「おま・・・っ、このガキ!どういう口の利き方だ!?」
「そのセリフ、そのまま返す。おれの姿は『門番』となった十一歳で止まっているけど。存在している歳月で考えるなら、お前よりどれだけでも年長だ。・・・というか、こういうこっちの価値観、本当に下らない。
おれの名はジェミヤ。『箱庭』を燃やしたあいつらを、許せない。だから、お前の身体を貸せ。媒体が無いと、こっちじゃ何も出来ない。
いいか?理解する必要はない、それは時間の無駄だ。そもそもお前には選択権がない。選べ、おれを。―――死にたくなければ。」
ジェミヤと名乗るその少年は、生意気なその言葉で偉そうに命令を下す。だが、恵には最後の一言で充分だった。その差し出された手が善か悪か。どちらでも、良かった。死にたくない、兄に謝ることも出来ずに、死ねない。
「ボクの名は小野原恵。ちゃんと生かせよ、ジェミヤ!」
はっ、と意識を取り戻すと、見慣れた学舎の風景が目に入る。今のは夢か?と考えると、脳に直接響くような音で、自分に語りかける声が響いた。
《ケイ、おれが見えるか。足元の枝葉、それに触れろ。》
声に従い足元を見下ろすと、大きな根の間から、小さく真新しい枝葉が芽吹いていた。恵が左手でそれを掴むと、手の平に微かな痛みが感じられた。反動で目を閉じ、恐る恐る確認すると先ほどの新芽は姿を消しており、自分の左の掌にクスノキの枝葉が痣のように刻まれていた。
「あーっ、ヤダヤダ!おっかしぃなー!?」
聴いたことのない声が、校庭に響く。恵は我に返り、背後の様子を窺う。
「なんでかなぁ?・・・『門番』ってさ、『通路』を塞ぐための贄でしょ。『鍵の子』として、贄であることに疑問も、主体性も持たないように育てられて、その身を門に捧げ、『門番』という亡霊と化したんでしょ?・・・おかしいよね。お前ら、明らかに意図的に俺達から逃げているよなぁ?しかも、わざわざ『地球』にだ。・・・・・・誰だ?誰がお前らに指示を出している?
まさか、御前様と別に“賢者の石”を読み解くものがいるのか・・・?」
苛立ちが滲み出るその声は、独り言にも、誰かに語り掛けているかのようにも感じられた。
「まぁ、どっちでもいいや。『地球』のニンゲン殺して、『門番』を連れ帰ればいいんだろ?でもなぁ・・・ちょっと、イラつくから。さっさと終わらせて、『結界』解除して。滞在制限時間までひと暴れするくらい、いーよな?・・・じゃあ、」
言いかけ、その場から大きく跳ねたデネボラは、瞬間。クスノキの裏手に隠れた恵に向けて、再び自身の等身と変わらぬ大身槍を繰り出した。反応が遅れた恵を捉えたその刀身は、的確に胴体を貫くべく突き出されていたが、それは形のない何かに阻まれた。
《ぼさっとしないで。あんたらの脆弱な肉体は一瞬で壊れるでしょ?それじゃ困るんだ。おれは、あの『半獣落ち』を壊したい。ケイも死にたくないだろ、だったら死なないようにやってくれ。》
「わかる、わかっているけど、無茶言うなよ!」
《ある程度、攻撃を止めることは出来るけど。限界はすぐ来る。『地球』の痩せ衰えた大地でも、その恩恵を受ける事はできるかな・・・ケイ、左手のおれを地面に触れさせて。》
言われるがまま、恵はその場にしゃがみ左掌を地面に当てる。すると、何かと繋がったような感覚が襲い、触れた地面に見えない波紋を描くように振動が起こると、周囲の土が意思を持ったように礫となりデネボラへ向かった。
両腕で頭部を庇い、礫を受けきり辺りを見渡すと、先ほどの『地球』のニンゲンの姿がない。目くらましか、とデネボラは自身の『結界』に意識を集中し、『門番』の気配を探る。
「『結界』において、主の支配を逃れるだと?時間切れを狙っているのか。・・・おかしいねぇ。あの『門番』、捨て置けないでしょ。ガーディナーってやつらといい、『地球』で何が起こっている?・・・とにかく。このまま手ぶらでは帰れないよなぁ・・・。」
「おい、ジェミヤ。勝算はあるのか?」
恵は囁くような音量で姿なき相棒に尋ねる。ひと時の間を置き、脳内に答えが返ってくる。
《正直、結構難しい。この場とおれの相性が悪い。『地球』の生命力の弱さが想定外過ぎた。『結界』の時間切れと、おれのエネルギー切れと、どっちが早いか・・・。一か八か、『共鳴』で助力を求めた方がいいかもしれない。》
「『共鳴』?」
《『門番』同士に通じる信号を飛ばすイメージ、かな。近くに何かしら『半獣落ち』との対抗手段を持っている『門番』が居れば、あの虎堕ちをどうにか出来るかもしれない。しかし、『共鳴』したら確実にこちらの居所が『半獣落ち』に知られることになる。》
「時間切れと、エネルギー切れ、どちらの可能性が高い?」
《・・・申し訳ないが、ケイとの『契約』と、先ほど攻撃でかなり消耗している。》
「わかった。なら、『共鳴』してくれないか?」
《迷いが無いな。・・・承知した。おれの反応が無くなったら、とにかく逃げろ。大口叩いておいて、力になれず申し訳ない。》
リン、と耳元で涼やかな鈴の音が響く。これが『共鳴』というものだろう、と理解した恵は身を潜めていた建物の影から、校舎内に移動する。あの虎人間の、図体と武器の大きさを考慮すれば、一瞬で駆け抜けられる空間が広い場所よりは、障害物がある建物内の方が攻撃を避けやすいのではないかと考えた。
(子どもの姿でやたら高圧的な物言い・・・。そのくせに、己が非は直ぐに認め、ボクが年下であっても素直に謝罪の意を述べる。ジェミヤと比べたら、ボクはなんて小さいのだろうか。)
「みぃつけた。」
階段を三階まで登りきったところで、廊下の窓を破り、通路に降り立ったデネボラに進路を塞がれた。恵はそのまま勢いで手前の部屋に飛び入り距離を測るも、デネボラは物理的障害をものともせず壁を破壊し直進してきた。
「悪いねぇ、遊びたいのは山々なんだけど。・・・こっちも時間がないものでね!」
――――――避けきれない。そう確信した瞬間、デネボラが振りかざした大身槍で天井を割り、その勢いのまま恵に向かい振り下ろす様がスローモーションで目に焼き付いた。槍を振る風圧で身体が飛ばされ、その場にへたり込むように崩れ落ち、自身の最期を覚悟したその時。
カキン、と何かが激しく衝突する音が響き、それを合図に恵の意識が現実に引き戻された。目の前には大きな背中。自分の良く知る人物が、虎人間の振り下ろした槍を刀で受け止め弾き返す。
「―――ハッ!・・・お前、あの時のガーディナーじゃないか!!」
斬撃を弾かれ背後に飛び退き、デネボラは目を輝かせて楽しそうに嗤い、自分の攻撃を受けた目の前の人物に歓喜の声を上げた。
「その声、その槍・・・。貴様はアルファを撃った『半獣落ち』だな。」
姿勢を正し、刀を構え直し。恵が聴いたことのない、怒りに満ちた低く響く声で。その人物は言葉を続けた。
「弟が、世話になったな。」
それはまるで現実味のない、予定調和の創作物のように。目の前の出来事を、何処か冷めた第三者のように眺めている自分と。差し迫った死の恐怖から解放された安心感と。
八つ当たり、理不尽に責め立て傷付けたであろう兄が、ヒーローのように眼前に現れ助けてくれたこと。それは自分の願望が見せる夢か、現実か。
恵は強張った身体を動かすことが出来ずに、その場でただ目の前の光景を茫然と眺めた。
「あらぁ、声と槍で思い出していただけるとは、光栄だねぇ。・・・ボクはデネボラ。そこの土を司る『門番』を横取りしたの。それ、弟なんだ。お前の、生を司る『門番』も一緒に欲しいなぁ~ボク。ね、ちょーだい!」
そう言うとデネボラは、部屋中の障害物を薙ぎ払うように低く、槍を大きく振り回した。背後に庇う恵が動けない事を鑑み、剣は床に刀を突き差しその刀身に足裏を当て、勢い付いた槍の軌道を撃ち止めた。
制止した槍を踏み倒し、その足に全体重をかけ足場とし跳び上がり、床から引き抜いた刀を勢いそのままに。剣はデネボラに斬りかかった。
流れるような一連のカウンターに反応が追い付かず、剣の繰り出した斬撃はデネボラの左肩から右腹部を大きく斬り裂いた。刀を振りかざす際、剣の脳裏に玲一の“『半獣落ち』を、人に戻すことは出来ないか。”という言葉が過り、無意識に力を加減した結果、刀傷そのものは致命傷とはならず。しかし表皮を傷付けた反動で吹き出た返り血を浴び、人と変わらぬその血液の色に、剣の激昂は静かに治まった。
ぜぇぜぇと、傷口に手を当て、デネボラはふらつきながら後退る。
「・・・これは、予定外もいいところだなぁ・・・。その上、時間切れなんて。ツイていないなぁ。」
致命傷ではないが、出血量が多い。このままだと息絶えるのは時間の問題であり、剣は目の前のデネボラにどう対応すべきか困惑する。そんな胸中を知ってか知らずか、デネボラは虚ろな視線を剣に送る。
「・・・なぁに?そういう哀れむ表情されるのは、腹立つなぁ。次は、その顔、苦痛に歪めてやるから。・・・待っていろよ。」
砂塵と化し、大気に崩れ消えたアルファとエルナトとは異なり、デネボラはすぅ、とその身のまま姿を消した。『結界』が解除され、場が日常に引き戻る。剣は刀をプロテクターを介し転送、【コネクト・アウト】して恵へ向き直る。ただ茫然と、その場にへたり込む恵に手を差し出す。
「・・・恵、怪我はないか?」
恵はぼんやりと、目の前に差し出された手を見つめ、その視線を差し出した手の持ち主へ移した。その目に映ったのは、あの日から見続けた兄の苦々しく困惑した表情ではなく。昔の、不器用ながらの優しい微笑み。
自己嫌悪、後悔、責任転嫁。様々な想いが、感情が、胸の奥に、脳裏に渦巻いた。だが、変わらぬその兄の笑みにその全てが吹き飛び、最後に残ったのは“あの日のボク”。
「・・・剣兄ちゃん。酷いこと言って、ごめんなさい。」
日中であっても、生い茂る木々の影で薄暗く。『巣』を隠す大きな森。その道なき道を、デネボラは傷口を抑えながら歩み進めていた。酷い出血量に飛びそうになる意識を、杖代わりにしている槍の刃でその身に傷を作りながら、その痛みでどうにか留めていた。
滞在制限時間。それは『半獣落ち』が『門番』の欠片を用い、隙間から『地球』へ降り立つ際の枷。『結界』は、こちらと空間領域の異なる『地球』での行動を可能とする領域変換を指し、これを無くしては『半獣落ち』は『地球』にて存在する事すら容易ではないだろう。
御前様は、『地球』は我らが帰るべき場所である。我らを欺きかの地を抛り出し、その末裔は我がもの顔で、かの地を蹂躙している。我らには『地球』を、故郷を取り戻す権利がある。閉ざされた『通路』を開け。それを封する『門番』を奪え。かの地を、『地球』を、この手に取り戻すのだ。そう、我ら『半獣落ち』に仰った。
「御前様に。真意を問わねばならぬ・・・。」
満身創痍のデネボラは、乱れた呼吸で重たい身体を引きずった。
「あらあら、死にかけの大猫がどうしたのカな?」
草葉の陰から、ひょいと姿を現わせるその人影を目にし、デネボラは歩みを止める。
「・・・サビク。」
「うふふ。ダサいワね、デネボラ。あんな小さなボーヤたちに好き勝手にヤられちゃって。あんた、アタシの可愛い手駒のアルファちゃん、コロしてくれちゃったでしょう?あのコ、おバカだけど扱い易くって重宝していたのに。まったく、酷いコトしてくれるわぁ~。」
蛇の頭を持つその『半獣落ち』は、口からチロチロを長細い舌を出しながら喋る。
「毒蛇が、まさか助けに来てくれた訳はないよなぁ?・・・どけよ。ボクはまだ死ぬわけにいかない。」
デネボラは、槍に掴まり立つのがやっとの状態で、目の前のサビクを睨み付ける。サビクは楽しそうに、両手を広げ目の前のデネボラを嘲笑する。
「あははっ、強がるわねぇ~ネコちゃん!わかっているのでショう?アタシの目的。いーわぁ、出血大サービスで教えてあげちゃう。あんたの推察通り、エルナトちゃんには色々と実験台になってもらったわぁ~。もちろん、本人に了承なんてとってないケど。
で、アタシ。女神のような優しさを持っているワケ。だから、さっきのあんたの問いかけに答えてア・ゲ・ル。アタシの実験は、御前様の許可をいただいているのよ~。」
デネボラは、表情を失い目の前のサビクを焦点の合わないまま力なく見つめる。小さな、小さな不安定な足場で、信じ縋っていたそれが、偽りであったと。サビクの言葉は、デネボラの、その小さな足場を打ち砕いた。
「いーワぁ、いーワ、その表情!!良い仕事するじゃなぁ~い、デネボラ!・・・アタシはね、ヒトの持つ感情が、それが壊れる様を、絶望に彩られる様を。それを見るのがだぁ~い好きナの。」
サビクは、ニタリと口元を歪ませ、嬉しそうに。その手に握った小刀で、意志を失ったデネボラの首を一切の躊躇いなく、掻き切った。傷口から溢れる鮮血を浴び、サビクは満足そうに、絶命し崩れ落ちたデネボラの亡骸の、その頭を勢いよく踏みつけた。返り血をペロリと舌で舐め取り、踏みつけた足に重心をかける。
「・・・ココロは複雑ネぇ。絶望は本当に美しいワ。半獣であるエルナトやデネボラですら、こんなに魅力的にコワれゆく。なら、『地球』のニンゲン。感情の塊、あのボーヤたちはどんな絶望を魅せて、壊れてくれるのかシら?・・・うふふふふ。楽しみネ。」
剣はデネボラの返り血を大学構内の水道で洗い流そうとしたが、赤黒く染まった衣類をどうしようもなく、玲一に連絡をとり助けを求めた。
玲一と虎路、大和に相談してから一週間。背中を押してくれた玲一には申し訳なかったが、恵に向き合う覚悟が決まるまでに、それだけの時間を有した。剣は、とにかく自分の想いを弟に伝えるべく、彼の通う大学に赴いた。守衛所で弟との面会を申し出ると、校内を自分で探してくれと入館証を渡され、帳簿にサインをして入校した。
銀杏並木を歩く在校生に尋ねると、ちょうど恵を見知った人に当たり、図書館にいるのではないかと案内してもらう。結局、図書館に恵の姿はなかったのだが、表現し難い違和感がその場に残っており、剣はそのまま学舎周辺を見渡していた。
その時、鈴の音に似た何かが頭の中に響いた。刹那、同じ風景の、異なる空間に飛ばされたことを理解する。『結界』、それを剣は肌で感じ取った。そして、強く導かれるように音に呼ばれ、辿り着いた先に――――――半獣に討たれようとしている恵の姿があった。
その後は記憶が曖昧になっている。激しい感情にのみこまれ、衝動に身を任せた。そして眼前に広がる赤、その色に正気を取り戻した。
デネボラと名乗る『半獣落ち』が消え、『結界』から元の場所に戻り。腰を抜かしていた恵に手を差し出せば、まるで仲違えた“あの日”の続きのように、謝られた。その後、お互いにまともに口を開くこともなく今に至る。
(・・・いかん。これでは折角話をしに来た意味がないではないか。)
「その、恵。・・・・・・あの、さっきのだな。・・・その。」
意を決して口火を切ったものの、不器用の極みで言葉が続けられない剣。恵は、これまでの刺々しい態度が嘘だったかのように弱々しく、言葉に詰まる兄を見上げる。
「・・・そうだよね。今更謝ったところで、許して貰える訳がないよね。・・・身体が弱いのも、喘息が酷かったのも、ボクのせいなのに。ボクが全部悪かったのに、何も悪くない兄さんに八つ当たりで酷いことを言って。・・・嫌われたくないのに、嫌われることしか言えなかった。・・・なんでかな。」
昇降口の小さな段差に座っていた恵は、その身を小さく抱えるように、自分の膝を抱き寄せる。その横に壁を背に立っていた剣は、恵の語る心情が自分の考えていたものと大きく異なっていたことに驚き、慌てて話し出す。
「恵を許すとか許さないとか、どういうことだ?大体、嫌われているのは、憎まれているのは、俺だろう。俺が健康で産まれたから、弟のお前の身体が弱くなったって。母さんにそう言われて恨まれていた、この俺だろう?」
恵は剣の語る言葉に、苦しそうに、悲しそうに、泣きそうな顔で返す。
「あぁ・・・そうか。母さんまで、兄さんにそんな事を言っていたのか。最低だなぁ、最低だな・・・ボクらは。本当に、なんで産まれたのかな、ボクは・・・。」
(大好きだった兄ちゃんを傷付け、迷惑をかけ、子どもらしく遊ぶ選択を奪い。母さんを思い悩ませ、追い詰め、行き場のない理不尽な不安を兄ちゃんにぶつけさせた。ボクの存在は、昔からずっと、不協和音でしかなかない。)
剣も、恵も。自分を罪だと信じ、存在が望まれないものだと信じ、自ら不幸にしがみつく様に不器用に生きていた。
恵が、自分は死にたくないなんて望むべきではなかった。そう、考えたその時。細い肩を、大きな両手が力強く掴んだ。驚き、眼を見開き、顔を上げると目の前に剣の顔があった。視線を合わせるようにしゃがみ、真っ直ぐこちらを捉えるその真剣な顔つきに、息を飲んだ。
「俺は、恵が産まれて嬉しかった。弟が出来て、嬉しかった。・・・お前は人と話すのが下手な俺の話を、いつも目を輝かせて聴いてくれた。俺は、お前のお兄ちゃんで嬉しかったし、誇らしかった。
だから、お前が怒って泣きじゃくって、発作が悪化して入院したあの日。自分がどんな無神経なことをやって、お前を傷付けたのか、お前に嫌われたのかを考えると辛かった。
怖かった、知るのが。そして、怖くて、逃げた。・・・・・・ごめん。」
ぽんぽん、と弟の頭を撫でる兄の大きく優しい手に、恵は肩を震わせ静かに涙を流した。剣はそのまま立ち上がり、建物の陰に向かって話し出す。
「で、玲一。いつまで隠れているつもりだ?さすがに着替えが欲しいのだが・・・。」
剣の言葉に、物陰からひょっこりと瞳をウルウルさせた玲一が現れる。
「だっでさ、剣ぐん・・・!よがったぁ~、仲直り出来て良かっだぁ~!!」
玲一は着替えを持ってとっくに到着していたが、会話のない二人を物陰から見守っていた。返り血に染まり、濡れたシャツを着る訳にもいかず、上半身裸で建物の脇に潜んでいる剣が不審者として通報されたらヤバいなと考えはしたが、それよりも今この兄弟の邪魔をしてはいけないと、タイミングを計っていた。
玲一から受け取った服を着て、剣は守衛所へ入館証を返却しに向かった。元々人見知りの恵は、つい先日自身の晒した醜態を見聞きしていた玲一と二人で取り残され、その微妙な気まずさに居心地の悪さを感じて黙っていた。
「なあ、恵くん。オレね、お兄さんの同僚の木村玲一って言うんだけど。この間はお兄さんとの話に割って入って、申し訳なかった。」
そんな恵の心情を察してか、玲一は緊張を解すように明るく話しかける。
「それでさ、これはオレのわがままなんだけど。恵くんに、どうしても伝えておきたいことがあるんだ。・・・良ければ、聞いてくれないかな?」
思わせぶりな玲一の語り口に、恵は引きずられるように頷く。
「あんがと。この間さ、恵くんはお兄さんの夢について色々言ってたじゃん?あれが本心じゃないっていうのは、他人のオレでもわかるんだけどさ。天然入っているとはいえ、真面目だし勤勉だし、割と何でも器用に熟す堅実な剣く・・・お兄さん、がさ。どうして正義の味方・・・ヒーローなんて、現実問題叶えようもない夢を追ってたって、思う?」
玲一は窺うように恵を見上げる。丁寧に問われ、冷静に考えると、確かにあの兄が。・・・祖父が存命なら、叱られるような夢を頑なに追う理由は全く想像がつかなかった。わかりやすく困惑する恵に、兄弟の面影を感じた玲一は柔らかく微笑み話し続けた。
「前にさ、本当に意味わかんないって剣くん本人に聴いたんだよ、オレ。・・・恵くんはさすがに覚えてないと思うんだけど。なんか小さい時に、誕生日プレゼントで恵くんが似顔絵描いてくれたんだって。すごく嬉しかったんだけど、そんとき風が吹いてさ、プレゼントの絵が窓から落ちちゃって。それ追いかけて二階の窓から飛び降りたって・・・。
絵を空中キャッチして、飛び出した勢いで近くの銀杏の枝につかまって、そのまま真下の集めた落ち葉の山に落下したらしいんだけど。」
玲一の話で、恵の脳裏に当時の記憶が蘇る。クレヨンで描いた、へたくそな似顔絵。そのプレゼントを心から喜ぶ兄。直後、風に飛ばされた絵を追って、窓から飛んだ兄。あの時は、心臓が止まるかと思った。
「・・・その時、恵くんがさ。“お兄ちゃん、カッコいい!ヒーローみたい!!”・・・って、目を輝かせて言ったってさ。それで、ヒーロー、目指してたって。」
あまりの衝撃の告白に、恵は両手で顔を覆いその場に小さくしゃがみこんだ。やっぱり、ボクのせいじゃないか・・・。そう思うと共に、あの純粋すぎる兄は自分が守らねば、と使命感に駆られたのであった。




