第十話 兄の想い、弟の想い。
久方ぶりの再開を喜ぶような空気は一切なく、小野原恵からは静かな怒りが発せられていた。虎路は想定外の状況に困惑しつつも、一礼して退出する。応接室を後にすると、お茶を二つお盆に乗せた玲一が通路に立っていた。
「どうしたの、袴田さん。すごい神妙な顔になってるけど・・・。」
「木村様。いえ、その・・・。鹿蔵様とお客様の雰囲気が、少し気になりまして。部屋に二人きりにしてしまって大丈夫かと、気にはなるのですが。さすがに同席する訳にもいけませんし・・・。」
「剣くんがお客と気になる雰囲気。袴田さんがそう言うってことは、確かに気になるね。わかった、ちょっと様子見てくるね!」
玲一がノックの後入室すると、二人は席にもつかず、剣呑な空気の中テーブルを挟み立ち尽くしていた。応接室は広めのスペースに、余裕のある大きなソファとガラステーブルが設置されているのだが、長身の男性二人がテーブルを挟んで立っていると閉塞感が強い。静かにテーブルにお茶を並べ、通常であれば退出するところ、玲一は扉の側に“私は壁です”と言わんばかりにそっと控えた。
「玲一、どうした?」
「いやですね、鹿蔵さん。忘れたんですか?応接室の使用の際は、不正等無いようにと第三者の立ち合いが原則じゃないですか。いつものように、ボクはいないものとして取り扱いください。」
剣から当たり前のように尋ねられ、玲一はしれっと口から出まかせを述べた。剣は怪訝な表情を見せたが、諦めたように来客に意識を戻す。
「恵、とりあえず座らないか。」
剣に勧められ、恵は向かいのソファに腰を下ろす。一度、扉の前に控える玲一の姿を確認し、剣に向き直ると苦々しげに口を開く。
「おじいさんが亡くなってすぐ、母さんとボクを棄てて。連絡一つもなく、あんた何してんの?」
「いや、連絡をしていなかった事は謝るが・・・そもそも、どうして俺がここにいることを知っているんだ?」
「あんたの上司、大和さんって人。その人が挨拶に来たんだよ。」
「大和さんが?」
(あぁ、剣くんとこもか・・・。大和さん、激務のくせに律儀っつーか、なんつーか。表向きの仕事わざわざ用意して、名刺まで作っといてさ。ボクらが最悪の事態に陥った場合に、残された家族に申し訳が立たないからって。自ら挨拶して回ってたんだよな・・・。継次に聴かなきゃオレも知らなかったよ。まぁ、さすがにガーディナーの詳細は話してなかったけどね。剣くん、墓穴掘らなきゃいいけど・・・。)
「もしかして、恵。お前、『守護者計画』の事を大和さんに聞いたんじゃ・・・。」
玲一はあくまで自分は壁、と気配を消すよう努めていたが、考えた瞬間に全力で応えてくる剣の発言に、頭をごんっと勢いよく壁に打ち付けた。
「なに、その『守護者計画』って。あんた、そんな歳になってもまだ子供の夢みたいなこと語ってんの?」
恵は大きく、あからさまにため息をつく。それは剣を煽るものであったが、当人ではなく壁と化したつもりの玲一がカチン、と反応した。
「正義の味方になりたい、だっけ?二十歳も超えた成人が、まともな思考じゃないよね。本当に、あんたの存在はボクと母さんにとって恥以外のなにものでもないよ。ねぇ、自分自身で恥ずかしいって自覚ないの?」
明らかな害意。剣の客人であり、その関係性がわからない玲一は口を挟むべきではないと、友人を貶される怒りを抑えていた。当の剣は、ただただ悲しそうに、目の前の恵を見つめていた。
「何その顔、被害者面?黙ってないで、何か言ったらどうだよ。・・・それとも、欠陥品の弟なんて最初から存在してなかったって。ボクの事、そういう風にでも思っているのかな。要らない人間に何言われても、痛くも痒くもない?」
「・・・ちょっと待て、お前、剣くんの弟なのか?」
恵の言葉に堪らず玲一が口を挟む。剣が制止しようと立ち上がるも、玲一は止まらない。
「弟なら、お前だけは・・・お前だけは、剣くんの夢を馬鹿にするなよ!!」
「玲一、止めろ!」
恵に食いかかろうとした玲一を止め、剣が振り返ると、恵は静かに席を立ち二人のやり取りを無視するように扉を開ける。通路から振り向き、玲一に侮蔑の視線を向け、低く言葉を吐き捨てる。
「・・・赤の他人が、知った風な口を利くなよ。」
通路に控えていた虎路が送り届けようと後ろを追うが、それを拒絶し恵は一人でフロアを後にした。
「ねぇ、剣くん。・・・勝手してごめん。でもさ、なんでわざと言わせるだけ言わせていたの?あれ、剣くんもきつかっただろうけど、弟くんもすごくしんどそうだったよ。」
「ああ、そうか。・・・・・・俺は、また間違えてしまったか。」
剣は壁にもたれ、両手で顔を覆うと大きく息を吐いた。中々見ることのない、その落ち込みきった剣の様子に、玲一はかける言葉を失う。その後ろに、虎路も心配そうに大人しく控える。しばらくすると、意を決したように剣は二人を見る。
「その、迷惑でなければ・・・話を聞いて貰えないだろうか。」
三人は剣の部屋へ場所を移動し、リビングのソファで静けさの中、剣が口を開くのを待った。玲一が剣の用意したほうじ茶を手に取り口をつけると、静かに剣が語り始める。
「どこからどう話したものか・・・。袴田さんは、俺の家庭事情はご存じですか?なんとなく、大和さんなら調べていそうな気がするのですが。」
「そうですね。お二方は気分を害する話だとは思いますが、大和の方で鹿蔵様と木村様の家庭環境や親類等の身辺調査を行っていると思います。ですが、個人情報の観点もありますし、必要性を感じなかったため私は把握しておりません。」
虎路の言葉に、玲一は微妙に表情を歪めるも、こちらが命を懸ける覚悟を持っているとすれば、それを預かる覚悟も必要かと自分を納得させた。さきほどの張りつめた空気から解放され、剣の表情が微かに綻んだことを確認し、ずず、とお茶を口にした玲一が言葉を返す。
「剣くん。オレたちに話すことで、剣くんの中で少しでも整理がつけばいいって思う。弟くんってあれだよね、昔少し話してもらったあの弟くんなんだよね、・・・あれ。なんかすごく拗れちゃっているみたいだけど、何か力になれるかもだし。ゆっくりでいいから、好きなように話せばいいよ。」
隣で虎路が頷く。剣は深々と頭を下げ、不器用ながらにその身の上を語った。
母と、その父である祖父と、五つ下の弟、恵。自分を含めたその四人で、祖父の家で暮らしていた。母は教職で帰宅が遅く、定年退職後で時間に余裕のあった祖父と殆どの時間を過ごしていた。弟の恵は身体が弱く、特に喘息が酷かったため、幼い頃からずっと病院の世話になっていた。家でも生活の殆どがベッドの上だった。
母の助けになりたいと、料理を始めとしたひと通りの家事を祖父に教わり、腕を振るった。母が父の役割を担う代わりに、自分が母の役割を手伝おうと。そうすることが最善だと信じていた。
一日の大半をベッドの上で過ごし、発作でまともな外出もままならない恵に、学校での出来事や、祖父に教わったこと、今日見たテレビ番組のことを話したりしていた。
それは自分が小学生の時だった。ある日突然、恵が泣きじゃくり、叫びながら責め立ててきた。
「なんで、お兄ちゃんは元気なの!けんこうな体なの!!どうして、ボクは息もちゃんとできないの!?どうして、どうして・・・っ。」
興奮した恵は酷い発作を起こし、そのまま病院に入院してしまった。その時に、やつれた母に責められた。恵が、可哀相。あんたが、恵の栄養も全部持っていったんだ。お兄ちゃんなのに、どうしてそんな酷い事をするの?!どうして・・・と。
母は、幼い剣の両腕を力の加減なく、爪が食い込むように握り絞め捲し立てた。駆け付けた祖父が二人を引き離した頃には、剣の表情は青ざめ身体は硬直しており、両腕からは血が流れていた。
「・・・祖父の助けはあったものの、職業柄。シングルマザーであることの周囲の偏見なんかもあったのだろうと、今なら当時の母さんの苦労が想像できる。父さんとも色々あったようだし、心身ともに限界を超えていたのだと思う。
五体満足で健康な俺の存在が、母さんと恵を苦しめていた。そして、二人を追い詰める原因だって、そう確信した。それから二人とも、俺を見なかったし、口をきいてくれなかったからな。
中学の時、ずっと可愛がってくれていた祖父が亡くなって、このまま小野原の家に俺がいるのは二人の為にならないと思い、父さんを頼って家を出たんだ。それで、父さんの実家である鹿蔵の家に養子に入った。」
剣の話に、玲一が悲痛そうな面持ちで小首を傾げる。
「剣くん・・・。想像以上にめちゃくちゃ、重い。そして、複雑すぎ。・・・けどさ、それ、剣くん全然悪くないからね?!しかも、さっきの弟くんの言い分だと話が真逆過ぎるし、なんっか、根本的にすれ違っている気がするよ?」
そう。自分が考え行動したことが、恵に取っては真逆の事に捉えられていたことを先ほど知り、剣は混乱していた。目の前で一生懸命自分の話を考えてくれている玲一から視線を移すと、その隣で虎路が静かに涙を流していることに気付き、ギョッとする。剣のリアクションに、玲一も隣を見て慌てふためく。
「は、袴田さん?大丈夫ですか?」
「・・・って、なんで袴田さんが泣いてんの?!」
「いえ、申し訳ございません。私にもよくわからないのですが、鹿蔵様の心情を思うと、胸が苦しくなりまして・・・。」
三人それぞれがあわあわしていると、その場の混乱を収めるかの如く、プロテクターから前触れもなく、聞き慣れた声が流れ出した。
「はい、いきなり割って入って申し訳ない!収拾がつかなくなったようなので、第三者の僕から少し補足説明をさせて貰うよ。あ、今更だけど、盗み聞きしてごめんね。」
その場の全員が、腕に装着したプロテクターに向かって叫ぶ。
「大和?」
「大和さん?!」
「悪趣味!」
虎路、剣、玲一がそれぞれ言葉を発した後、何事もなかったように大和が話し出す。
「いや、移動中で時間空いちゃったもので。気になっていたカノちゃんの来客について、報告聞こうとトラに通信飛ばしたら返事なくってさ。心配になって、勝手に通信回線開いて聞いちゃった。・・・カノちゃん、あくまで僕の方で調査した結果を踏まえてだけど、第三者の視点が少しは役立つと思うよ。このメンバーには話しても構わないかな?」
「はい。正直、恵や母さんの考えが俺にはわからない。これ以上、迷惑をかけたり、傷つけたくはないです。大和さんの方で得た情報を客観的に話して貰えたら、何か気付けるかもしれません。・・・お願いします。」
わかった、と大和は剣を取り巻く環境について、自身が得た情報を語りだす。
「まずね、カノちゃんの父親ね。俳優の、伊坂景士。本名、鹿蔵輝。」
「・・・はあぁぁぁぁあ?!」
「はい、キムっち、リアクションありがとう!さておき、続けるよ。去年、一般女性との結婚が報道されたのが記憶に新しいと思う。その連れ子って言われていたのが、小野原恵。この報道によると、カノちゃんの存在自体が、夫婦の中でなかったものにされているけど。カノちゃんは、高校進学時に父親の実家である鹿蔵家、つまりは父方の祖父と養子縁組して、戸籍上は実父である鹿蔵輝の弟となっている。
この辺、大人の事情だね。伊坂景士は、日本人離れした彫の深さと甘いマスクで、女性ファンをターゲットに売り出したところがあるから、まさか俳優業始める前、しかも十代で既に父親になっていたなんて公表できなかったみたいだね。若手の男性俳優、しかも顔の良さで売り出しているとくれば、その恋愛事情は業界の生き残りを左右するからね。
それでも、本人は小野原貴由と籍を入れて、きちんとカノちゃんの父親として、堂々と公表したかったみたいだけど。事務所と、何よりカノちゃんの母親の小野原貴由に反対されたみたいだしね。
で、籍を入れぬまま関係を隠し続け、第二子である小野原恵が産まれた。この子が重度の喘息を患っていて、母親は未婚の母であることと、健康に産んであげられなかったこと。俳優業が軌道に乗って、忙しくなった鹿蔵輝とのすれ違いのストレスから、心身のバランスを崩していたみたいだね。
実際のところは、当人にしかわからないのだろうけど。とにかく、小野原貴由と小野原恵は、どちらも全部自分が悪いって思いこんで、認めたくなくてカノちゃんを責めて、今もそれを続けているのではないかと推測するよ。」
大和が流暢に語る剣の家族事情が衝撃的すぎて、あれやこれやと問い詰めたい気持ちを抑えつつ、玲一が一言。
「大和さん、調査って探偵みたいなやつに頼む系?にしては、内情と言うか、やたら生々しい内容じゃないっすか?」
「さすがキムっち。実はこれ、カノちゃんのお父さん本人に聴いたんだよ。挨拶に伺った時に、わざわざお話しいただいて。・・・ただし、これはあくまで一辺の視点でしかない。事実、母親と弟側の言い分は僕は知らないし。っと、ちょうど時間だ。キムっち、後はお願いね。」
ほぼ一方的に介入し、さらに離脱した大和の回線が途切れ、玲一はぶつぶつ言いながらも仕切りなおす。
「結論からいくと、あーだこーだと考えてもどうにもならない。正面切って、腹割ってぶつかる他に方法はないと、オレは思います。」
びしっと、右手を差し出し真っ直ぐ意見するも、剣は苦しげに玲一を見返す。玲一は、その剣の表情に、ほんの数日前の自分を見ているかのような気分になり、心の中で苦笑した。自分と同じように悩み苦しむ友人を救うのに、自身の経験が役立てば。それはとても幸せな事なのだろうな、と。
目の前の友人の、見たことのないこの不安気な表情が。幼い頃から抱え続けているであろう、その胸の内の黒くて重い感情が。晴れるように。きっと、全部、絶対に、上手くいくことを祈る。
「剣くん。思いは、カタチにしないと伝えられない。頭の中だけで考えても、胸の中だけで思っても、誰にも届かない。
相手の反応が、自分の望んだものじゃなかったらって、最悪の結果を招いたらって考えたら、怖いよね。怖くて、逃げたくなる。・・・だけど、伝えなきゃ始まらないんだ。」
少しずつ、秋の気配が深まる季節。大学構内の銀杏並木も、もうしばらくすると黄葉し始める。落ち葉の掃除が大変になるな、と銀杏の木を見上げながら恵はふと思い出した。
二階の自分の部屋から見える景色、窓の外には大きな一本の銀杏の木。その銀杏の、移ろいゆく様子で季節を確認していた。地球の生物のほとんどが、当たり前のように呼吸する。それは生命維持のため必要なこと。その、当たり前のことが、当たり前にできない。
酸素を吸おうとする、懸命に、肺に空気を送ろうと、吸うのだ。だというのに、酸素が肺に上手く送られない。ひゅー、ひゅー、まるで、身体の何処かにぽっかり穴が開いたかのように。吸っても、吸っても、肺が満たされることはない。
小さな自分の胸を、小さな自分の手で抑える。背を丸め、それでも懸命に、息をする。みんなが、当たり前にできていること、当たり前にしていること。生きるために必要な、ただそれだけのこと。それが、できない。
なんで?ボクのからだは、なんで?壊れているの?欠陥品なの?・・・苦しい、苦しい、悔しい。ベッドの上で、ふとんを頭までかぶって、ぽろぽろと。どれだけの涙を流しただろう。白くて、L字の形をしたそれを、息を吐きって口に咥える。上からそれを押すのと一緒に、精一杯空気を吸い込む。苦みを少し感じたら、ほんの数時間だけ、普通になれる。呼吸が苦しくなくなる。吸入器が手放せなかった。
恵は、フラッシュバックした幼い日の記憶をかき消すように、左右に頭を振った。そして本来の目的であった、自身の通う大学構内の図書館へ向かった。
兄、鹿蔵剣の元を訪れて一週間が過ぎた。兄は、十数年前のあの日からずっと。自分を見る時に、悲しくて苦しい表情をするようになった。それは、自分自身を映す鏡のようで。自分がそうさせていると、自覚はあった。
それは、ほんの些細な出来事だった。今なら理解できる、誰も悪くなかったのだと。
当時、恵は小学校へ入学する前で、喘息の発作が度々起きたため家か病院のベッドの上で過ごしていた。剣は仕事が忙しい母を手伝うべく、毎日学校が終わると真っ直ぐ帰宅し、祖父と夕飯の支度をしたり、洗濯物を取り込んだりしていた。
時折、時間を作ってはベッドの上から外を眺めたり、本を読んでいる恵の元を訪れ、学校での出来事や、祖父と見た時代劇の話をしていた。幼い恵にとって、日々変化が訪れるのは窓の外の風景と、剣が話す内容が主だっており、その時間が何より楽しみだった。
ある日の事、ただいま!と元気よく剣が帰宅した後、外から剣を呼ぶ声がした。恵が窓から下を覗くと、姿は見えないが声が聴こえた。
「おい、剣!今日、拓也が野球に誘っただろ?一日くらい、いーじゃねーか!」
大きな声に、ガラガラと玄関の戸を開ける音が聞こえてきた。
「ごめん、翔真。拓也に謝っといてくれないか?今日は、じいちゃんが町内会に行っているから、どうしても行けないんだ。ごめん。」
「ちっ、もういいよ!お前なんかもう仲間にいれてやんねーからな!!」
「・・・ごめん。」
会話の後、玄関の戸を閉める音が聞こえた。下階から音が聞こえ、剣が家の中に戻ったことが窺える。尋ねてきた剣の同級生らしき子どもたちは、ちょうど恵の部屋の窓の下辺りに集まって話し始めた。
「小野原、今日もこねーの?あいついなかったら、うちのチームやばくね?」
「拓也キレるじゃん、信じらんねーっ。あんなやつ、もう友達じゃねーよ!」
「大体さ、なんで剣が家のことやんなきゃいけねーの?おれら小学生じゃん。母親の仕事でしょ、そんなの。子どもは遊ぶのが仕事ーって、うちのばあちゃん言ってたのに。」
「あれだろ、弟がさ、身体弱いとかなんとかで。メーワクな話だよな!そんな弟、ぼくはいらないなぁ。可哀相なやつなんだよ、剣は。お父さんもいないし。」
「あ、ママが言ってた!剣んちって、シングルマザーなんだって。シングルで二人も子ども作って、しかも一人は病気持ちって、どこから病気もらったんだか~って。そういえば、剣と遊ぶなって言ってたな。病気がうつるからって!ちょうどいいや、もうあいつハブろうよ。学校でもいい子ちゃんしてムカつくし~。」
子どもたちは、しばらく騒いだ後、興味を無くしたように帰っていった。恵は、喘息を理由に保育園や幼稚園へ通うことはなかったが、一日のほとんど、発作が酷くないときは祖父が用意してくれていた本を読んでいた為、理解力は同年の子ども以上に高かった。
剣の同級生たちの悪言。その純粋無垢な悪意は、家族以外の他者との関わりがほぼ無かった恵にはあまりに刺激的で。母が、兄が、自分が欠陥品である為に、理不尽に詰られ、嘲笑われている。その現実は、幼い恵にとって大きな傷となった。
それは防衛本能。幼い精神が壊れぬよう、自身を守るために。恵は自己攻撃の矛先を、兄である剣に向けた。それは、兄に対する甘えであったのかもしれない。優しい兄ならば、自分の八つ当たりも許してくれるだろうと。
「なんで、お兄ちゃんは元気なの!けんこうな体なの!!どうして、ボクは息もちゃんとできないの!?どうして、どうして・・・っ。ずるい、ずるいっ。お兄ちゃんが、全部持ってったんだ!ボクの元気も、ボクのけんこうも!!お兄ちゃんなんか、だいっきらいだ!」
苦しくて、悔しくて、ぐるぐるした胸の中をぜんぶ。発した言葉の意味なんて、わからない。それがどれだけ兄を傷付けるかなんて、考えられなかった。ただ、本当は助けて欲しくて。
その後の事は覚えていない。目を覚ますと病院のベッドに横たわっていた。隣で、母が泣きながら手を握っていた。
その日から、兄はずっと。悲しくて、苦しい表情を向ける。ボクは、その顔を見るたびに責められている気がして。顔を見たくなくて、言葉を交わさず、避け続けていたら、兄は、いなくなった。一度も会ったことのない、父の元へ行ったのだと、母から聞いた。
そして、謝る機会を失ったまま、十年以上の歳月が過ぎた。罪悪感という痛みが、その身を蝕んだまま。
「・・・なんでただ一言。ごめんなさい、が言えないんだろうな。」
図書館でレポートに必要な書籍を幾つか選び席に着いたものの、一度押し寄せた思考の波から逃れられず、先週までの出来事を思い返しては後悔の渦に巻き込まれていた。机上で組んだ手の上に額を乗せ、しばらくそのままでいると、目の前の机が眩しく輝く。
視線を窓に移すと、傾いた陽が差し込んできていた。虚ろに胸ポケットから祖父の形見の懐中時計を取り出し、時刻を確認する。
「もう、こんな時間。・・・帰るか。」
力なく、誰にも聞こえないような小さな声で呟く。席を立とうとしたその時、耳元にチリッと電気が走ったような感覚が襲う。
「・・・静電気?」
耳に手をやり、立ち上がって室内を見渡すこと数秒。いつもと、さきほどまでと何ら変化のない筈の日常の風景。なのに、足底からざわざわと這いあがる、違和感。
「静かすぎる。」
自分のいる場所が図書館であること考えれば、静かで当たり前と思えるが、平日の夕方に構内でこれだけ人の声も、物音も聴こえないのはおかしい。実際に、ここはよく利用しているが、外から運動系サークルの活動している声や音、車の音、鳥の鳴き声など、古い建物故に耳に入っていたはず。今、辺りは静寂に包まれ、自分の心音さえもが響いて聴こえる。異質な状況に動けずにいると、背後から何かの音が聞こえた。
「なになに~?折角、まじめにお勤め果たそうって『隠匿』の『結界』展開したってのに。一匹紛れ込んじゃってんじゃん。」
恵は勢いよく、音の方向へ振り返る。そこには自分より一回りほど大きな、虎の頭の人型の何かがいた。それは、にぃっと楽しそうに口角を上げた。その悪戯な笑みに、直観的に恵は近くの本棚の影を目がけ跳んだ。直後、ヒュッという何かが空を割く音と共に、激しく何かが砕ける破壊音が聞こえた。体制を整え振り向くと、先ほどまで自分が立っていた場所に、大きな槍がテーブルを裂き、床に突き刺さっている。
ざわりと、身が凍り付く感覚に襲われ、恵がその槍を茫然と見つめていると。先ほどの、虎の頭を持つ何かが、ひと際大きな音を上げた。
「ひゃっひゃっひゃ!なになに、ひ弱な虫けら一匹かと思ったら最高かよ!!今のを避けんのかよ。この間のガーディナーとかいうヤツと言い、『地球』楽しいじゃん!!」
考えるより先に身体が動き、恵は前側のドアから図書館を飛び出した。
「追いかけっこがお好みかい?こちとら、遊んでいるヒマはないんだけどねぇ。ま、一匹狩りするくらいの役得があってもいいか。・・・精々楽しませてくれよ?」
楽しそうに嗤い、デネボラは颯爽と恵の後を追う。




