第八話 変えられない過去と、これからの事。
「ん・・・。」
自身のくぐもった声で目を覚ますと、嗅いだことのあるような、どこか懐かしい消毒液の香りが鼻を掠めた。目に映るのは、見慣れない白い部屋。
「?」
「おっ、目ぇ覚めたか。・・・どっか痛いところはないか?」
居場所を確認しようと視線を左右に動かすと、左側から声が聞こえた。そちらに顔を向けると、見覚えのある人物が優しい微笑みをこちらへ向けている。
「玲兄ちゃん。」
干支を一回り以上離れた兄。彼は手をこちらにのばし、ヨシヨシと頭を撫でる。その温かい手のひらの感触に安心すると共に、は、っと記憶が蘇る。
「玲兄ちゃん、あの、牛の、牛のお化けは!?」
奈々穂は玲一にすがるようにしがみつき、先ほどまでの異常な状況を思い返し、みるみると顔を青ざめさせた。そんな奈々穂を心底不思議そうに見つめ、玲一は優しく、ゆっくりと話しかけた。
「奈々穂、怖い夢でもみたのか?・・・お前さ、オレのメール見て慌てたのか知んないけど。兄ちゃん!って、河川敷で寝転がってたオレを呼んで、勢いよくコケたんだよ。覚えてないか?・・・気を失ってたからさ、頭打ってたらって心配になって。そのまま病院に運んだんだよ。」
小さな子どもに優しく言い聞かせるように、玲一はそう説明した。奈々穂は、この身で経験した、握りつぶされるのではないかという恐怖と、目の前で血まみれだった兄の姿を思い起こし、そんな筈はー・・・と玲一の左腕を握った。
「・・・奈々穂?どうした。」
あの時、川の中で立っていた兄の左腕には大量の血がついていた。しかし、今掴んでいるこの腕には傷一つ見当たらなかった。
「・・・本当に、夢なの?」
疑うように、窺うように。奈々穂は玲一の眼をじっと見つめる。玲一は、その視線を逸らすことなく、安心させるように柔らかく微笑んだ。
「・・・どんな怖い夢を見たのか知らないけど。外傷もほとんどなかったし、脳波も異常ないってお医者さんに聞いたよ。念のため、三日後にもう一度検査に来るように言われたから。今日は、意識が戻ったらそのまま帰っていいってさ。・・・兄ちゃんが送っていくから。一緒に、帰ろ。」
兄の落ち着いたその対応に、幼ながらに違和感を覚えたものの、奈々穂はそれ以上を尋ねることはなかった。
奈々穂を家に送りついた時、時刻は二十二時を過ぎていた。遅いからと泊っていくことを母に勧められたが、残した仕事があると断るも、ぐずついた奈々穂が眠り落ちるまで側についていた。ガーディナー本部に帰り着いたのは、日付が変更してしばらくしてだった。
剣と大和と虎路の三人は玲一の帰還を待ち構えていたが、一連の報告の前に一先ず休ませて欲しいと願い立て、部屋に戻り電灯も付けずソファに身を投げ出した。カーテンを全開にしていると、窓から夜街の明かりが差し込む。それだけで室内は十分明るかった。
静寂の中で、自身の鼓動がやけに煩く感じられる。両腕で我が身を抱きしめ、今自分が生きて、ここに存在している事を実感すると、軽く震えた。
ふと、ポケットの中身を手に取り、目の前に掲げる。先ほどの帰り道、奈々穂から貰ったお守り。本当は、ちゃんと友達の誕生日プレゼントの代金と、往復の交通費は準備していた。小さいながら、奈々穂はその辺はしっかりしている。帰りの交通費が足りなくなった、その原因。それは、兄の就職祝いにと、衝動買いしてしまったお守り。
「いやさ・・・長寿祈願って。あいつ、一体なに感じ取ってんの。エスパーか。」
お守りを胸に抱き、瞼を閉じる。疲労感と、実際に直面した命のやり取りと。この一日のいろんな事がごちゃ混ぜになり、眠りにつきたくても、興奮で意識が途切れない。諦めて瞼を開け、ぼんやりと窓の方を向く。そして深く息を吐き、一番思い返したくないはないが、一番記憶に刻まれている、その過去にぼんやりと沈んでいった。
それは玲一の高校受験の時。六人の弟妹を抱えた家計の都合を考えて、徒歩で通える一番近い公立校の受験を考えていた。中学生の時は、苦手ながらも下の子たちにいい顔をしたい気持ちもあり、勉強は割とがんばっていた。その為、地元では割と評判の良い高校の合格圏内にも手が届いていた。その事を知った父親は、そちらの高校を受験するように勧めた。合格圏内とは言え、努力は必要になる上に交通費が相当な負担になること。しかもその学校は進学校であった。高校卒業後、進学は考えていなかった・・・と言うより、その選択肢がほぼ考えられない状況だったため、玲一は迷いながらも進路指導の先生に相談しつつ、その進学校と滑り止めで徒歩圏内の公立高の受験を決めた。
志望校のレベルを上げたため、玲一は必死に勉強に取り組んだが、受験シーズンに流行った風邪が家庭でも蔓延してしまい、高熱に倒れ実力を発揮することはできず、滑り止めの公立高に入学し、それからしばらくして悲劇が起きた。
その日の出来事を、玲一は十年近く経過した今でも鮮明に夢に見る。贅沢と言う贅沢は出来ず、時に家事手伝いや下の子の世話に追われて過ごした十六年であったが、それでも幸せであった。
父親が、見ず知らずの露出の多い派手な格好をした、化粧の濃い若い女性を家に連れてくるその日までは。学校から帰宅し、いつものように洗濯物を取り込み継次と二人、居間で折りたたんでいた。母が晩御飯の支度をしている間、隣の部屋で実菜と詩織が二人で大悟と睦月、奈々穂の相手をしていた。そんな日常の延長で、父親が帰宅した。大悟が部屋を飛び出し、先陣を切って玄関に出迎えに向かうと聞き慣れぬ声がした。
「やだぁ、ビンボーくさぁい。」
何事か、と継次と二人で玄関へ向かうと父親が立っており、その腕に絡みつくように若い女がしな垂れていた。状況が理解できず三人が言葉を失っていると、その様子をクスクスと嗤った女が甘ったれたベタついた声で父親に話しかける。
「誠人ぉ、ホントーにこんなガキたちのお父さんやってたんだ?ウケルー!」
父親は見たことのない表情で、感情無く目の前の三人を一瞥し、靴を脱いで存在を無視するように通り過ぎた。その先に、様子がおかしい事に気が付き料理の手を止めて出てきた母と、大悟を追ってきた実菜が立っていた。父親は、母に一言。話がある、と言い、そのまま居間へ女を連れて入っていった。
母は、玲一に弟妹達と隣の部屋に行くよう伝えたが、自分も居間に行くと引かなかった。継次は実菜に大悟を託し、詩織と下の子たちを隣部屋で見ていてくれと頼み、母と玲一について居間へ入った。
名前を聞いたかどうかも記憶にないが、あの男。戸籍と血縁上の“父親”だったあの男にべったりくっついていたあの女の、ベタつく喋り方と、甘えるようにわざと作った猫撫で声のあの不快さだけは、今でも吐き気を催す程度に思い出せる。
あの男の話を要約すると、その女と出会って、真実の愛に目覚めた。七人の子どもは、全員俺の血の繋がった子どもではないのだろう、お前が他所で作った不実の子なのだろう、俺はそれを知っている。俺に、その他人の子どもの世話をする義務など存在しない。今まで食わせてやっただけで感謝しろ。俺はお前と別れて、この女と結婚して幸せになる。この幸せを邪魔する権利は、お前らにない。
矢継ぎ早に、淡々と。業務連絡のように。あの男は、母にそう言った。その間も、女はベタベタと身体を男にすり寄せ、こちらを嘲笑っていた。座卓の上に、サイン済みの緑の紙を突き出され、母は、何も言わず、その紙に署名していた。
玲一は、その様子を眺めていた。その時、頭も心もぐちゃぐちゃだった。オレたちが、父さんの子どもじゃない?そんな訳、ない。全員、それぞれ両親のパーツを受け継いでいる。特に、オレ以外の男は全員、明らかに父さんそっくりだ。ふつふつ、と心に沸き上がった何かを、抑えることが出来なかった。
「母さん、ねぇ、なんで何も言わないの?なんでサインするの?父さん、どうしてそんな事言うの?どうして・・・。」
本当に訳が分からず、玲一は母の腕を掴む。だが母は、玲一の方を振り向かず、署名を続けた。言葉を続けようとした玲一を、継次が後ろから引っ張り、小声で囁いた。
「兄さん、うち壁薄いから、全部隣の部屋に聴こえる。感情的になったら、たぶん言い争いになるか、もっと大変な事になる。あいつらに、聴かせていい話じゃない。耐えて。」
三つ下の継次に諭され、玲一はそのまま俯いた。その様子を、座卓越しに見ていた女が吹き出し声を上げて笑いはじめた。
「あー、もう、マジうけるんだけど!なに、このお涙頂戴な家族ドラマ!!誠人、本気で“お父さん”やってたの!信じらんないっ。あとさ、そこのクソガキ。なに被害者ヅラしてやがんの?さっきから言ってんでしょーが。その、売女が、勝手にこさえたのがテメーらだっての。誠人が被害者なの。ワカル?馬鹿だからわかんないんでしょ?カワイソー。」
玲一は、俯いたまま、気付けば膝の上に強く握った拳の上に、ぽたぽた滴が落ちていた。悔しい、ムカつく、いろんな感情があったのだが、何よりも。母と継次は、目の前の女の性根がわかっていたのだ。こちらが、何か相手の意にそぐわぬ態度を示せば、汚い言葉で、大きな声で罵るのであろうと。そして、それを、幼い弟妹に聴かせたくなかったのだと。その事がわからず、一番上なのに、取り乱した自分が、情けなくて、恥ずかしい。
その後、二人が母を罵り上げ、家を出るまで。わずか三十分程度の出来事が、何時間もの地獄に感じられた。不条理に泣き崩れたかっただろう母は、ふらつきながら台所に戻り、調理を再開した。継次がそれを手伝いに向かい、玲一は隣の部屋で泣いていた弟妹たちを抱きしめた。
もちろん、その日から一家に“父”はいなくなった。全員の苗字が高岡から母の旧姓である木村に変わった。専業主婦だった母は、一家を支えるために仕事を探した。高校卒業後、生まれ育った土地から逃げるように去って以来、まともに働いたことが無い母であったが、パートの掛け持ちを始めた。
玲一は、父親が豹変したのは、自分が高校受験を失敗したからではないのか?という疑念に襲われるようになった。そして、その日から沈んだ空気の家に帰る度、家族はその事を責めたいのを我慢しているのではないか、と。全ての責任が自分にあり、自分のせいで、母に、弟妹に、苦労を与えてしまったのではないか、と。
疑心暗鬼に囚われた玲一は、家に帰るのが怖くなり、次第に寄り付かなくなっていった。滑り止めで受けた公立高はガラの悪い学校だったため、現実逃避の為の方法は幾らでもあった。酒と煙草は、根っこの良心がどうしてもと手を出さなかったが、制服やカバンの改造と言った小さい事から、短く切った髪を金と呼ぶよりまっ黄色に染め上げ、日々喧嘩に明け暮れていた。
殴るのも、殴られるのも、どっちも痛い。どっちも嫌だ。しかも、この暴力行為に意味も大義も存在しない。母校のメンツの為とか、ダチの為とか、そういうものが一切なく、ただ、自分を痛めつけるため。自分を壊すため。その為だけに、自身の痛みを無視したような喧嘩をする玲一は、殴られ血まみれになっても立ち上がるほどに狂気じみており、波校の金ザルと呼ばれその界隈でも恐れられていた。
中身の無い、傷つくだけの日々を数ヵ月過ごしたある日。不良仲間と盗んだバイクで走っている途中に警察に捕まり、補導された。親の呼び出しを伝えられた時、玲一の頭は真っ白になった。
(母さんが・・・警察に、呼び出される?オレのせいで?)
父親が家族を棄てたこと。それが自分の受験失敗のせいで、皆がオレを恨んでいるんじゃないかと。それが恐くて、恐くて、恐くて逃げ出したこと。殴り殴られ、痛みを感じれば感じるだけ、その恐怖を紛らわせられた。そうやって、逃げ続けた。なのに、もう、逃げられない。警察の世話になってまで、今更どの面を下げて会えばいいのか。
数ヵ月ぶりに目にした母の姿に、玲一は愕然とした。元々、育児に追われ化粧っ気はなかった。だが、今、目に映る母は、頭に白髪が目立ち、髪は艶を無くし、頬はこけ、眼の下はクマがくっきりと残っている。
先ほどまで出ていた冷や汗が全て飛び、玲一の全身から血の気が引いた。近くに立っていた警官が、そのあまりの様子に声をかけるが、それは耳に届かずそのまま微動だにせず立ち尽くした。
(オレは、何をやってたんだ?皆に責められるのが恐いからって、馬鹿やって気を紛らわせて、見ないふりして・・・何をやっていたんだ。母さんに、あんな姿させて、何やってんだ!!)
頭を、ガツンと凶器で殴られたような衝撃。長い長い悪夢から、ようやく目が醒めた感覚。自己保身に走り、家族を見捨てた。・・・あの男と一緒じゃないか。軽蔑した、あの男と。
玲一が俯きぐるぐると考えていると、警官に案内された母が、先ほどまで何も悪いことをしていないのに、頭の悪い息子のせいで警官と先生に頭を下げ謝罪し続けた母が、目の前に立っていた。顔を上げるよう隣の警官に指示を受けるも、恐怖で玲一は顔を上げることが出来ない。そうしていると、母の声が落ちてきた。
「・・・玲一。」
玲一は、おそるおそる顔を上げ、目の前の、変わり果てた姿の母を見つめる。
どのように殴られるだろうか、怒鳴られるだろうか、叱られるだろうか、罵られるだろうか、はたまた、無視されるだろうか。泣かれたら、どうしたらいいのだろうか。沢山のパターンが浮かんだが、その思考は全て一蹴された。
「あんた、元気にしてたんやね。・・・良かった。」
母は、手も上げず、怒鳴りもせず、罵りもせず。玲一の顔を見て、心底安心したように笑い、涙を零した。その母の姿に、再び保身に走っていた自身の思考に気付く。そして、そんな自分のちっぽけな考えを全て包むような、ただ、自分の無事に安堵する母の愛の前に、玲一はその場に泣き崩れた。言葉にならない、くぐもった嗚咽を洩らし、ただ、眼から涙が溢れ出す。感情の爆発に身体が追いつかず、動けなくなってその場にしゃがみこむその身体を支えて、母子は近くの椅子に移動する。玲一の顔面中からは水分と言う水分が流れ落ちる。
「あんたは・・・一番お兄ちゃんなのに、本当に甘ったれだねぇ。昔っから。こんな皆さんに迷惑かけて、こんな馬鹿な事して。後で、ちゃんと説教するから、覚悟しなね?」
母はハンカチを玲一の顔にあてがい、背中をぽんぽんと擦る。優しくされる資格なんかない、そんな事を考えても、言葉を紡げずひたすら、泣きじゃくる。
そんな、図体だけ育った幼い我が子をあやしながら、こんなに辛い思いをさせて、追い詰めてしまったのは自分のせいだと、母の優里は不甲斐なさを覚えた。玲一の根底は、この母に似たものであろう。
警察署を出る時に、担当してくれた警官が、文字通り泣き腫らして顔面が大変な事になっていた玲一に、「あまり、お袋さんを困らせるなよ。男だろ?しっかりがんばれ。」と一声かけてくれた。
逃げ出さないように、と母は玲一の手を握って帰路についた。酷い顔を隠すため、頭にはタオルがかけられている。散々泣きじゃくった結果、こめかみに激痛が走り、瞼を含めた顔面もズキズキと痛む。鼻水も駄々洩れだったため、鼻も真っ赤に晴れていた。そんな酷い顔の玲一は、継次たち弟妹に会うことに再びの恐怖を感じていた。逃げるのは止めた。しかし、どうやって償えばいい?許して貰おうなんて、おこがましい。どう償えば、何といえばいいか。母の手の温もりを感じながら考えていると、あっという間に家に着いてしまった。
玄関のドアを開けると、そこには継次と実菜が立っていた。母がただいま、と先に入る。実菜はおかえり、と返し後ろの玲一の顔を見てギョッと表情を変える。継次は表情を一切変えることなく、玲一を見下ろし静かに一言を放った。
「何しに来たの?」
場を凍らせる、というよりは玲一を凍らせるのに充分な一言であったが、母が軽く継次を小突いた。
「もう、つぐちゃん。せっかく連れて帰ってきたんだから、悪態つかないの。またお兄ちゃん飛び出ちゃうでしょ!それに、叱るのは母である私の役目なんだから、とっちゃ駄目でしょ?」
「はいはーい、つぐ兄、お母さんにへそ曲げさせないの!れい兄、その顔、たぶん元に戻るのに二、三日かかるよ。どうせしばらく謹慎なんだろうけどさ。・・・お帰りなさい!」
警察沙汰になったため退学も覚悟してはいたが、元々評判の良くない学校だったのと玲一の置かれた家庭環境を加味し、謹慎処分で納まった。
(あれから、もう十年近く。オレは、少しでも家族に償えただろうか?・・・いやぁ、さっそく奈々穂巻きこんじまった。・・・情けない。)
気付くと、部屋の中が明るんでいた。夜の明かりではなく、朝日が染める、白んだ明かり。
「うそーん。黒歴史回想してたら朝になっちゃったって・・・なんつー不毛な時間の使い方してんだ、オレ。いや、マジでさ・・・エルナトの発言とか、ピサンリの事とか、考えなきゃいけないの他にあったし・・・つーより、寝たかった・・・。」
両手で顔を覆い、後悔に身を任せること一分。
「ハイ、過ぎたことグダグダ考えるの、無駄!やっちゃったのは仕方がない。なので、今から考える。そう、考え・・・・・・さよなら、意識。」
睡魔って突然訪れるよねー・・・と言うのは、このまま昼まで寝こけた玲一の言い分である。ぐっすり眠って正午過ぎに慌てて飛び起き、プロテクターで虎路に通信した所、今日から一週間は大和が海外出張で不在にするため、戻ってから時間を取るとの話であった。さすがに連続して『半獣落ち』が襲撃する可能性も少ないだろう、とのことで、玲一は拍子抜けしたと共に、諸々考える時間が与えられたことに感謝した。
これからの事を真剣に考えるための、その時間を。




