エピローグ
駅のホームではしゃぐ女子高生二人から離れつつ、真夏にニット帽を被った男、アストラルは暫くホームを歩く。今は朝のラッシュの時間帯だ。昼間はがらんとするほど利用者の少ない駅でもこの時間帯では人にぶつからずにすむほどに空いてはいない。
暫く、人にぶつかりながら歩くが、やがてその窮屈さに男はイラついてきた。
「っち。鬱陶しいな。」
男はそっと人ごみを掻き分けて、ホームの端まで降りると徐にその長身を空中に躍らせた。
少しの落下の後、男の身体が宙に浮くとそのまま上昇する。
誰も、目の前で起こっている不思議な光景に気付いてはいない。
男がそこらにいる人間全体に幻視の術をかけていたからだ。彼らにはきっちり彼の姿は見えているが、認識できない。そういった状況があの場に作り出されていた。
人間というのは不思議な生き物だと男は思った。
目の前にあるものなのにそれを見ようとしない。見えないことに気付きもしない。そこにあるのに認めようとしない。
そっと駅舎を振り返る。少し高度を上げたために、そこからは駅舎が一望でき、そこの際で戯れる、二人の女子高生の姿が見えた。
その片割れに目を移す。助けてやったのに口の利き方がなってないと怒鳴った少女。
彼女もその一人だった。自分の過去のつらい思い出に我知らずに幸せを放棄して、見えていたはずのものを見ないようにしていたうちの一人。
彼の最も愛しい女性と同じ魂を持った少女の姿に我知らずに口元が綻ぶ。
「アストラル様〜。」
そのとき、弱弱しい声とともにふらふらとこちらに近づく姿が見えた。
「どうした?レヴィ。」
純白の羽根を生やした金髪の男だ。それは少女の守護天使だった能天使だ。名をレヴィリュースという。めんどくさいのでレヴィと略したら、なんとなく情けない顔をされたのを思い出す。
今は少女を助けたことによって、死神であるアストラルに加担したことになって堕天使扱いされて、地上に落されている。それをアストラルが拾ってやったのだ。
「は、はひ。もう!置いていかないでくださいよ。」
金髪を短くしてキャップを被っているが、元々が派手な典型的な天使の容姿の持ち主である。駅の周辺を歩いていると次々と女が寄って来て、取り囲まれていたのだ。
うまく姿隠しが出来ない様子で、その駄々漏れの光が女を寄せ付け、それをうまく避けることも出来ずにいたので、助けるのも鬱陶しいのでそのまま置いてきたのだが。
「お前が早く来ないからだろう?…それより、おまえその姿を人間に見られなかっただろうな。」
アストラルは顔にかけたサングラスを取りながら、レヴィリュースの翼を見た。
「それは、当たり前です!いくらなんでも羽を広げるところを一般の人間に見られるほど堕ちてません!」
「堕天にはされたがな。」
「しくしく。」
アストラルの言葉にレヴィリュースが泣く。
「僕だって、僕だって好き好んで、堕天されたわけじゃ…。」
きらきらと天使オーラを走らせながらむせび泣くレヴィリュースにアストラルはゲンナリする。女なら瞬殺の天使オーラは男で更に死神であるアストラルには当たり前だがまったく効果はない。
「お前が堕天されたのもある意味俺のせいでもあるからその辺はちゃんと地上での生活の世話はしてやっているだろうが。」
「そうですけど…。」
更に泣き崩れる輝かしくも美しい能天使にもしかしてこいつ自分の世話なくても女のところにいくらでも転がり込めるんじゃ、と思ってしまう。
「地上が嫌なら帰ればいいだろう?場合によっちゃ、天だっていいわけくらい聞いてくれるんじゃないのか?」
まったく自分でも信じていないが、もしかしたらと思った可能性を口にしてみるが、レヴィリュースは悲しげに首を振った。
「…無理ですよ。天は堕天にはひどく敏感です。最大の禁忌。一度でも堕天の烙印を押されたものは近づいただけでも雷に打ち落とされて消されてしまいます。」
それはアストラルも元天界の住人であったから知っている。だが、彼がそうであったのははるか昔のことだ。もしかしたら少しは変わっているのかもと思ったのだが。
「…今でも変わっていないんだな。」
「ええ。残念ながら。」
「…じゃあ、仕方がないじゃないか。それとも本格的に堕ちて魔界にでも行ってみるか?案外慣れれば住み心地は悪くないぞ。」
「そ、そんなの!だめですよ!無理です。神がお許しになりません!」
魔界の言葉だけで怯える天使にアストラルは半眼になる。
「そうだろうな。お前じゃな。」
レヴィリュースの派手さはむしろ輝きの好きな魔界の住人には受けるだろう。奴隷としてではあるが。だが、この性格の純粋さ、裏切られたというのに未だに神を信じているこの性格では魔界で持ちはすまい。
「ま。いくらでも時間はあるさ。ゆっくり今後の身の振り方を決めるといい。」
アストラルは中空に止まったまま、伸びをした。
全身につけたアクセサリーがじゃらりと音を立てる。
そんなアストラルを見上げる形でレヴィリュースが声をかけた。
「アストラル様は…。」
「アストラルでいい。様付けなんて天使にされても気持ち悪いだけだ。」
「そんな!六枚羽根のお方を呼び捨てだなんて。」
レヴィリュースが慌てたように頭を下げる。その様子にアストラルは舌打ちしたくなった。
まったく、あの場がいかに窮地だったとはいえ、かつての姿を天使の前に晒すとは羞恥以外の何者でもない。あれは過去に捨て去った姿だ。
天使の階級は上級になるに従い、羽根の多さで決まってくる。
最高位は六枚。それが、アストラルのかつて天使だったときの階級だ。
最も神に近しものといわれていた。だが今はその称号も忌まわしいものであり、また彼の名も天界では禁忌として扱われていることだろう。それをこの年若い能天使は理解しているのか。
「生きている間に六枚羽根のお方の姿をご尊顔で切るなんて夢のようです。」
(わかってないんだろうな…。)
アストラルはつい遠い目をした。
「で?さっき何か言いかけなかったか?」
自分の世界にどっぷり浸りかけていたレヴィリュースを現実に引き戻すために声をかけると、一瞬わからない顔をしたが、思い出したように慌てて答えた。
「え?あ、その。アストラル様はこれからどうするのですか、と。」
「…これから、ね。」
アストラルは地上を見下ろした。視線の先には一人の少女。
「気長に伴侶が来るのを待つさ。それまでは地上でぶらつくかな。」
「…マリア様ですね。」
「マリア、ね。」
幾崎マリア。それがあの少女の名前だ。
「…まったく、かの神の生誕に腹を貸した女と同じ名前だとはね。」
「そんな!恐れ多いです!美しく気高いお名前ですよ。」
「いいじゃないか。別に。俺死神なんだし。」
「理屈がわかりかねます。」
レヴィリュースがきぱりとはねつけた。普段は抜けさくで、なにやらせてもへたれなのに、神様のこととなるととたん聖人のように固くなる。
固いお目付け役が出来たようでなんとも面倒なことになったと思う。
地上に目をやればまだ友達とじゃれあっている少女の姿がある。飽きないことだと頬が綻ぶ。
だが、まあ。この天使と一緒にいるのも彼女が自分のものになるまでの間だ。
そうなれば、アストラルは魔界に帰るつもりだし、その頃ぐらいになればレヴィリュースも自分の身の振り方くらい固めてくれるだろう。
人の一生などアストラルにとってはまさに瞬きする間に過ぎ去ってしまうほどのときでしかない。だが、その間にあの少女はどれだけのことを学び、過ごすのか。
そうして、生きる間に輝いた魂は極上の光を帯びる。
かわした契約はいまだ有効だ。あの少女が死ねば、アストラルは迎えに行く。そしてそのときこそ永劫のときを共にするのだ。もうあの魂を天になど奪わせたりしない。
待っていたつもりはない。彼女に話したことは本当だ。
浄化された魂はそれまでの知識も記憶も燃やし尽くしてなかったことにする。同じ魂であろうと、かの女性とは彼女は別人だ。
混同するつもりもない。だが、それでもずっと望み続けたあの魂をともにある日が待ち遠しくてたまらない。
だが今更焦るつもりもない。本当に短い時間だ。待てばいい。
それまではじっと見守るつもりでいる。彼女の魂は既に彼のものだ。そして彼女の魂は彼でもある。生きている間は守るという契約もまだ有効。たとえ彼女が彼のことを忘れていても絶対だ。
「マリア様は…。」
地上の彼女を見ていると隣でレヴィリュースが神妙な顔で声をかけてきた。
「…なんだ。」
「本当に記憶を消してよかったのですか?」
「人として生きるのに必要ないだろう。」
「ですが、それではあまりに可哀想で。」
それはマリアがだろうか。それともアストラルがだろうか。
意味をとりかねたが、あえて聞き返したりはしなかった。
「可哀想なことなんてない。いずれはすべて思い出す。死んで魂ごと俺のものになればな。」
「でも、その間貴方は…。」
その言葉にどこに彼の慈悲が向いているのかを知ってアストラルは眉を顰めた。
「レヴィ。」
低く能天使の名前を呼ぶ。すると肩をびくつかせて能天使の顔が青ざめていく。
「…すみません。でしゃばりすぎました。」
慌てて謝る天使を一瞥し、すぐに視線を逸らす。
「…気をつけろ。」
そっと地上の少女を見下ろす。確かにあそこにいる少女に自分の記憶はない。アストラルが消した。あんな記憶はこの世界で、この国で生きる彼女には必要ないと思ったから。
そしてその思いは下で友人と戯れる彼女を見れば間違っていないことがわかる。
「…マリア。」
そっと、彼女の名前を呼んでみる。気付くはずはないけれど、
声を地上に投げかけると、不意にマリアが空を見上げた。目が合う。
そう思ったのは自分だけだろうか。アストラルは愛しい魂に微笑んだ。
「お前は、未来永劫俺のものだよ。」
それだけを風にのこしてアストラルたちはその場から姿をかき消した。
なかなか最終話アップせずすみません。
これで最後。
最後までお付き合いありがとうございました。