第9話:龍の鳴き声
村を後にして数時間、街道は次第に山道へと変わっていった。
鉄槍山脈の麓に近づくにつれ、岩がちな地形が目立つようになり、道の両脇には切り立った崖や深い森が続いている。シルフィード号の魔法式衝撃吸収機構があるとはいえ、路面の悪化は避けられず、馬車の進行速度も遅くなっていた。
「あと数キロで洞窟ですね」
アメリアが地図を確認しながら言った。
「地形からして、この先に大きな岩壁があるはずです。そこに洞窟の入り口があると思われます」
ルーカスは書斎の窓から外を眺めた。確かに、前方に巨大な岩山が見えている。長い年月をかけて風雨に削られた岩肌は、まるで古の巨人が積み上げたかのような威容を誇っていた。
「ついに到着か……」
胸の高鳴りを感じる。これが、自分にとって最初の本格的な異世界遺産調査となるのだ。
***
しかし、洞窟に近づくにつれて、奇妙なことに気づいた。
空気を震わせる、低く重い音が聞こえ始めたのだ。
最初は風の音かと思った。しかし、それにしては規則的すぎる。まるで巨大な生き物が、苦しげに呻いているかのような、不気味な響きだった。
「これが……龍の鳴き声か」
ルーカスは思わず身を震わせた。
音は腹の底まで響いてくる。聞いているだけで、何か得体の知れない恐怖が湧き上がってくるのだ。愛馬ゼファーも、明らかに落ち着きを失っている。
『ルーカス……何か変だ』
ゼファーの思念が伝わってきた。
『あの音……自然なものではない。何かが作り出している』
「作り出している?」
ルーカスは始祖の手記を取り出した。鳴き龍の洞窟についての記述を改めて確認する。
「龍の声は、大地の歌声なり」
大地の歌声……これは比喩なのだろうか。それとも、文字通りの意味があるのだろうか。
「あの音の正体は、風が洞窟の複雑な内部構造を吹き抜けることで生じる自然現象だと考えられます」
ルーカスは二人に説明した。
「洞窟内の空洞や岩の形状によって、風が特定の音階で共鳴するのでしょう。音響学の原理で説明がつきます」
しかし、実際にその音を聞いていると、学術的な説明では割り切れない何かを感じる。あまりにも不気味で、あまりにも人間の心に作用する音なのだ。
「村の人が恐がるのも無理はありませんね」
ジルが御者台から振り返って言った。
「こんな音が毎日聞こえてたら、そりゃあ商人も旅人も近寄りたがらないでしょう」
***
音はますます大きくなっていく。もはや「鳴き声」というレベルを超え、まるで山全体が唸っているかのような迫力だった。
その時だった。
突然、道の両脇の岩陰から、何本もの矢が空を切って飛んできた。
「危ない!」
アメリアの叫び声と同時に、シルフィード号の魔法障壁が青白い光を放って展開された。矢は障壁に当たって火花を散らし、馬車に届くことなく地面に落ちる。
「盗賊か!」
ジルが手綱を引いて馬車を停止させる。ゼファーが緊張で嘶き、前脚を上げて威嚇の姿勢を取った。
道の両脇から、十数人の男たちが姿を現した。粗末な武器と防具に身を固めた、典型的な山賊の一団だ。顔つきは荒く、目つきは獰猛。明らかに人を殺すことに慣れている連中だった。
「おい、そこの豪華な馬車!」
岩の上から、一人の大柄な男が声を張り上げた。おそらく頭目だろう。顔に大きな傷跡があり、片目が潰れている。
「聖なる龍の怒りに触れたいか!」
聖なる龍?ルーカスは眉をひそめた。盗賊が龍を聖なるものと呼ぶとは奇妙だ。
「その豪華な馬車と積荷を全て置いていけ!そうすれば命だけは助けてやる!」
頭目の声は、洞窟から響く不気味な音に負けないほど大きく、威圧的だった。
***
「ルーカス様、指示を」
アメリアが静かに尋ねた。その手は、既に腰のナイフに触れている。いつでも戦闘に入れる体勢だ。
「戦いますか?それとも……」
ルーカスは迷った。
確かに、シルフィード号は戦闘にも対応できる仕様になっている。アメリアの戦闘能力も未知数だが、相当なものだろう。ジルも、見た目以上に戦えるかもしれない。
しかし、本当に戦闘になった場合、誰かが傷つく可能性がある。それは避けたかった。
「まずは交渉してみよう」
ルーカスは馬車から降りることにした。
「危険です!」
アメリアが制止しようとしたが、ルーカスは首を振った。
「僕は話し合いで解決したい。彼らにも、何か事情があるかもしれない」
「若様……」
ジルが心配そうな表情を見せた。
「まあ、何かあったら俺たちがなんとかしますよ」
ルーカスは深呼吸をして、盗賊たちの前に歩み出た。
***
「私はアイゼンヴァルト公国のルーカス・フォン・アイゼンヴァルトだ」
ルーカスはできるだけ堂々とした声で名乗った。
「君たちとの間に争いを望まない。話し合いで解決できないだろうか」
盗賊たちがざわめいた。おそらく、まさか相手が公国の公子だとは思わなかったのだろう。
しかし、頭目の表情は変わらなかった。
「公子だろうが皇帝だろうが関係ねえ!龍様の領域を侵す者は、みんな等しく餌食よ!」
龍様?ますます奇妙な話だ。盗賊が龍を崇拝しているのだろうか。
「龍というのは……」
「黙れ小僧!」
頭目が手を振ると、部下たちが再び矢をつがえた。
「龍様の怒りを鎮めるためには、貢ぎ物が必要なんだ。お前たちの財宝は、龍様への供物とさせてもらう!」
その時、洞窟からの音が一段と大きくなった。まるで頭目の言葉に応えるかのように、空気を震わせる咆哮が響く。
盗賊たちは、その音を聞いて恐れ慄いた。しかし同時に、どこか満足げな表情も見せている。
「ほら見ろ!龍様もお怒りだ!」
頭目が勝ち誇ったように叫んだ。
「もう一度言う!馬車と積荷を置いて失せろ!でなければ、龍様の怒りを受けることになるぞ!」
***
ルーカスは困惑した。
盗賊たちは明らかに、洞窟の音を本物の龍の声だと信じている。そして、その龍を神のように崇めているのだ。
しかし、ルーカスには分かっていた。あの音は自然現象だ。龍など存在しない。
だとすれば、盗賊たちは偽りの信仰に基づいて人を脅しているのだろうか。それとも、彼ら自身も騙されているのだろうか。
「待ってくれ」
ルーカスは手を上げた。
「その龍というのは、本当に存在するのか?君たちは実際に見たことがあるのか?」
「見たことがあるかだと?」
頭目が眉をひそめた。
「馬鹿野郎!龍様は聖なるお方だ!おいそれと姿を現すものか!」
「しかし……」
「でも、声は聞こえるだろう!この怒りの咆哮が!」
確かに、洞窟からの音は続いている。その音の迫力は、確かに巨大な生き物の鳴き声のようにも聞こえる。
しかし、ルーカスには確信があった。あれは風と岩が作り出す音響現象だ。
ただし、それを盗賊たちに説明して信じてもらえるだろうか。そして、たとえ信じてもらえたとしても、彼らが大人しく引き下がるだろうか。
答えは、すぐに明らかになった。
「問答無用だ!」
頭目が剣を抜いた。
「龍様への不敬は許さん!お前たちも龍の餌にしてやる!」
矢が、再び空を切った。今度は、シルフィード号だけでなく、ルーカスに向けても放たれている。
絶体絶命。書物の知識だけでは、この状況を打開することはできない。
しかし、その時——




