第8話:地図にない村
鳴き龍の洞窟まで、あと一日の行程というところで、一行は予期せぬ場所に立ち寄ることになった。
街道を外れた谷間に、地図には記載されていない小さな村があったのだ。
「あれ?こんなところに村があったんですね」
ジルが御者台から首を傾げた。
「地図には載ってませんが……」
ルーカスも魔力投影式地図で確認したが、確かにこの辺りに集落の表示はない。新しい開拓村なのかもしれない。
「補給のために立ち寄りませんか?」
アメリアが提案した。
「食料や水の調達もそうですが、洞窟の現在の状況について、地元の情報を得ることができるかもしれません」
確かに、それは良い考えだった。書物の知識だけでなく、現地の生の情報も重要だ。
「そうしよう」
ルーカスは頷いた。
***
しかし、村に近づくにつれて、ルーカスは違和感を覚えた。
何かがおかしい。村には活気がまったく感じられないのだ。
家々は傷み、屋根の茅は色褪せ、あちこちに補修が必要な箇所が見える。畑は痩せ細り、作物もまばらにしか育っていない。人の姿もほとんど見えず、見えても皆うつむき加減で歩いている。
「随分と……寂しい村ですね」
ジルも困惑したように呟いた。
この時代、アストリア大陸の多くの村は、そこそこ豊かで活気があるはずだった。帝国の統治が安定し、街道の整備も進んでいる。特別裕福でなくても、最低限の生活はできているのが普通だ。
しかし、この村は明らかに違った。まるで何かに苦しめられているかのような、重苦しい空気が漂っている。
***
豪華なシルフィード号が村の入り口に現れると、数人の村人が顔を出した。
しかし、歓迎の表情はそこにはなかった。むしろ、警戒と敵意の視線が向けられている。
「また貴族様のお通りかよ……」
誰かが小声で呟くのが聞こえた。
突然、物陰から小石が飛んできた。馬車の側面に当たって、カツンと音を立てる。
「おい!」
ジルが声を上げた瞬間、十歳くらいの少年が路地から飛び出してきて、さらに石を投げつけた。
「貴族なんか来るな!」
少年の顔は、汚れと痩せこけた頬で痛々しかった。しかし、その瞳には確かな怒りが燃えている。
「坊主、やめろ!」
村の男性が慌てて少年を抱きかかえ、頭を下げた。
「申し訳ございません!子供のしたことで……」
しかし、その男性の瞳にも、謝罪とは裏腹の敵意が宿っていた。
「いえ、構いません」
ルーカスは馬車から降りて、できるだけ穏やかな声で答えた。
「私はアイゼンヴァルト公国の……」
「アイゼンヴァルト?」
男性の顔が強張った。そして、周囲の村人たちもざわめき始めた。
「また税金の取り立てか?」
「今度は何を持って行くつもりだ?」
「もう何も残っちゃいねえぞ!」
口々に上がる不満の声。ルーカスは困惑した。アイゼンヴァルト公国がこの村から税を取っているはずはない。ここは公国の領土ではないからだ。
***
村人たちの敵意は、時間が経つにつれてより明確になった。
ルーカスが貴族だと分かると、多くの家の扉が音を立てて閉められた。窓からは、警戒の視線だけが注がれている。
「これは……」
ルーカスは愕然とした。
書物で学んだ理想的な君主の姿とは、あまりにもかけ離れた反応だった。民は君主を慕い、困ったときには頼りにするものだと思っていた。しかし、現実は全く違う。
民衆は貴族を憎んでいる。それも、理不尽な理由からではなく、実際に何らかの被害を受けているからこその怒りなのだ。
「若様」
アメリアが静かに近づいてきた。
「この村に留まるのは危険かもしれません。敵意が高すぎます」
確かに、村人の中には農具を手に持つ者もいる。武器として使う気はないだろうが、いつ状況が悪化するか分からない。
「しかし……」
ルーカスは迷った。このまま去ってしまうのは簡単だ。しかし、それでは何も学ぶことができない。
なぜ村人たちは貴族を憎むのか。なぜこの村は衰退しているのか。その原因を知らずして、真の君主になることなどできるだろうか。
「いや、もう少し様子を見よう」
「ルーカス様……」
「大丈夫だ。何も悪いことはしていない。きっと、話せば分かり合える」
アメリアは心配そうな表情を見せたが、それ以上は何も言わなかった。
***
その時、ジルが動いた。
「ちょっと待っててください」
彼は馬車のキッチンから、いくつかの食材と鍋を取り出した。
「何をするつもりだ?」
「腹ペコの時に難しい話をしても、うまくいかないもんです」
ジルは人懐っこく笑った。
「まずは、みんなの胃袋から攻略しましょう」
彼は村の中央にある、唯一開いている建物—おそらく酒場兼宿屋—に向かった。
「すみません、ちょっと台所を借りられませんか?」
酒場の主人は警戒したが、ジルが差し出した銀貨を見て、渋々頷いた。
「何をする気だ?」
「温かいシチューを作ります。無料で、皆さんに振る舞うつもりです」
酒場にいた数人の男たちが、訝しげに顔を見合わせた。
「何の策略だ?」
「策略なんてとんでもない」
ジルは笑いながら答えた。
「ただの料理好きの猫族が、美味いもん作りたいだけですよ」
***
ジルの料理する姿は、見ているだけで楽しかった。
手際よく野菜を刻み、香辛料を調合し、肉を炒める。やがて酒場には、なんとも言えない良い香りが立ち込めた。
「おお……」
村の男たちも、その匂いに思わず鼻をひくつかせた。いつの間にか、女性や子供たちも酒場の外に集まってきている。
「できましたよ!」
ジルが作ったのは、シンプルだが栄養満点のビーフシチューだった。野菜の甘みと肉のうまみが絶妙に調和し、香辛料が全体を引き締めている。
「さあ、どうぞ!遠慮しないで!」
最初は警戒していた村人たちも、その香りには抗しきれなかった。恐る恐る椀を受け取り、一口食べてみる。
すると、その顔がパッと明るくなった。
「う、うまい……」
「何だこれは……こんなうまいシチュー、食ったことねえ」
「おかわり、もらえるのか?」
警戒心は、温かい料理と共に溶けていった。酒場は次第に和やかな雰囲気に包まれ、村人たちも少しずつ口を開き始めた。
***
「実は……困ってるんだ」
一人の農夫が重い口を開いた。
「洞窟の龍が、近頃ますます荒ぶって、旅人が寄り付かなくなった」
「龍?」
ルーカスが身を乗り出した。
「ああ、鳴き龍の洞窟のことだ。昔から時々鳴き声は聞こえてたが、最近は毎日のように、それも前より大きな声で吠えてる」
別の村人が続けた。
「おかげで、街道を通る商人も旅人も、みんな遠回りしちまう。この村は街道の宿場として成り立ってたのに、客が来なけりゃ商売あがったりだ」
「そういうことか……」
ルーカスは合点がいった。この村の衰退の原因は、鳴き龍の洞窟の異変にあったのだ。
「それで、税の取り立てというのは……?」
「帝国の役人が、『龍の被害は自己責任』って言って、税金の減免を認めてくれねえんだ」
農夫の顔が苦々しく歪んだ。
「それどころか、『治安維持費』とか言って、余計に税を取っていきやがる。もう限界だ」
村人たちの怒りは、理不尽な税制度に向けられたものだった。そして、その怒りが貴族全般への敵意となって現れているのだ。
***
話を聞いているうちに、村の長老が現れた。
白髪の老人で、杖をついてゆっくりと歩いてくる。村人たちは長老の姿を見ると、少し緊張したような表情になった。
「騒がしいと思ったら……また貴族様のお成りか」
長老の声は静かだったが、その瞳には深い諦めが宿っていた。
「私はアイゼンヴァルト公国の……」
「公国だろうが帝国だろうが、我らには関係ない」
長老はルーカスの言葉を遮った。
「高貴なるお方は、我らのような泥にまみれた者の苦しみなどわかるまい。同情されるのも、憐れまれるのも御免だ」
その言葉は、静かだが重い怒りに満ちていた。
「関わらんほうが、お互いのためだ」
長老はそれだけ言うと、背を向けて去っていった。
酒場は再び重い沈黙に包まれた。村人たちも、長老の言葉に気圧されたように黙り込んでしまう。
***
その夜、一行は村の外で野営することにした。
村人たちは最後まで複雑な表情だった。ジルの料理に感謝しながらも、貴族への根深い不信は簡単には拭えないのだ。
「想像していたのと、全然違った……」
ルーカスは焚き火を見つめながら呟いた。
書物で学んだ「民に慕われる君主」の姿と、現実との間には、あまりにも大きなギャップがあった。民衆は君主を必要悪としか思っておらず、できることなら関わりたくないのだ。
「でも、原因は分かりましたね」
ジルが慰めるように言った。
「龍の問題を解決すれば、村も復活するかもしれません」
「そう簡単にいくだろうか……」
ルーカスの心には、深い疑問が湧いていた。果たして自分は、本当に人々の役に立てるのだろうか。書物の知識だけで、現実の複雑な問題を解決できるのだろうか。
明日はいよいよ、鳴き龍の洞窟に到着する。そこで、自分の真価が試されることになるだろう。
しかし、今夜の経験は、ルーカスに現実の厳しさを教えてくれた。世界は、思っているよりもずっと複雑で、困難に満ちているのだ。




