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第10話:紫水晶の剣舞

 時が止まったかのような一瞬だった。


 ルーカスに向けて放たれた矢が、空中で軌道を変えて地面に落ちた。不可能なはずの現象が、目の前で起きている。


 次の瞬間、彼の前に一つの影が現れた。


 アメリア・ナイトシェード。


 しかし、そこに立っていたのは、もはや完璧なメイドではなかった。


 深い紺色のメイド服の下から、二本の鋭く光るショートソードが抜き放たれている。その刃は月光を受けて青白く輝き、まるで氷の欠片のように美しく、そして危険だった。


 彼女の紫水晶の瞳には、これまで見たことのない鋭い光が宿っていた。それは、獲物を狙う猛禽の眼差し。完璧に制御された殺意と、それを上回る冷静さが同居していた。


 「ルーカス様、下がっていてください」


 その声は静かだったが、有無を言わせぬ権威に満ちていた。


 ***


 「な、何だあれは……」


 盗賊たちが困惑の声を上げる。


 一瞬前まで、か弱いメイドだと思っていた女性が、突然戦士と化したのだ。その変貌ぶりは、まるで魔法のようだった。


 「女一人に何ができる!」


 頭目が叫んだ。


 「やっちまえ!」


 十数人の盗賊が一斉に襲いかかった。剣を振りかざし、斧を担ぎ、槍を構えて。彼らは数々の戦場を潜り抜けてきた歴戦の強者たちだった。


 しかし——


 アメリアが動いた瞬間、全てが変わった。


 ***


 それは、戦闘ではなく舞踊だった。


 アメリアは風のように軽やかに盗賊たちの間を駆け抜けた。その動きには一切の無駄がなく、まるで最初から全ての攻撃の軌道を予測していたかのような完璧さがあった。


 最初の盗賊が剣を振り下ろした瞬間、アメリアはその懐に潜り込み、剣の腹で相手の手首を叩いた。盗賊は苦悶の声を上げて武器を落とし、続く肘打ちで意識を失った。


 次の盗賊が横から斧で薙ぎ払おうとするが、アメリアは低く身をかがめてそれを避け、立ち上がりざまに剣の柄で相手のこめかみを打った。盗賊は白目を剥いて崩れ落ちる。


 三人目、四人目と、盗賊たちが次々と倒れていく。しかし、アメリアの剣は一度も致命的な一撃を与えていなかった。全て、相手を無力化するだけの、計算し尽くされた攻撃だった。


 「化け物め!」


 槍を持った盗賊が背後から突いてくる。しかし、アメリアは振り返ることなく、背中越しに剣を突き出して槍の穂先を弾き飛ばした。そして流れるような動作で回転し、剣の腹で相手の急所を打って昏倒させる。


 まるで、背中に目があるかのような動きだった。


 ***


 ルーカスは息を呑んで見つめていた。


 これは人間の動きではない。あまりにも速く、あまりにも正確で、あまりにも美しすぎる。


 アメリアの戦い方には、一種の芸術性があった。敵の攻撃を最小限の動作で回避し、最適な角度から最適な力で反撃する。それは、長年の訓練によって身につけた、完璧に洗練された技術だった。


 しかも、彼女は一人も殺していない。どれほど危険な攻撃を受けても、必ず相手を生かしたまま無力化している。その技術の高さは、かえって恐ろしいほどだった。


 「こんな……こんなことが可能なのか……」


 十数人の盗賊が、わずか数分で全て沈黙した。アメリアの周りには、呻き声を上げながら地面に転がる男たちだけが残されている。


 彼女自身は、メイド服の裾さえ乱れていなかった。返り血一つ浴びずに、まるで散歩から帰ってきたかのような涼しい顔をしている。


 ただ一人、頭目だけがまだ立っていた。


 ***


 「貴様……一体何者だ……」


 頭目は震え声で呟いた。


 その片目には、明らかな恐怖が宿っていた。数々の戦場で死線を潜り抜けてきた男が、初めて味わう圧倒的な実力差への恐怖だった。


 「ただのメイドです」


 アメリアは表情を変えずに答えた。


 剣を構えたまま、一歩、また一歩と頭目に近づいていく。その歩調は規則正しく、まるで死神の足音のようだった。


 「う、うわあああ!」


 頭目は恐怖に耐えきれず、剣を投げ捨てて逃げ出した。


 アメリアは追いかけなかった。ただ静かに立ち尽くし、頭目が岩陰に消えるのを見送った。


 「終わりました」


 彼女は剣を鞘に収めると、ルーカスに向かって完璧な一礼をした。


 「お怪我はございませんか?」


 その声は、いつものメイドとしての彼女そのものだった。まるで、先ほどの超人的な戦闘など夢だったかのように。


 ***


 「アメリア……君は……」


 ルーカスは言葉を失っていた。


 彼女の戦闘技術は、明らかに常人のレベルを超えている。一体どこで、どのような訓練を受ければ、あれほどの技術を身につけることができるのだろうか。


 そして、なぜ彼女がメイドなどという職についているのか。あれほどの実力があれば、どこの国でも騎士団長や将軍として迎えられるはずだ。


 「私は、ルーカス様をお守りするために参りました」


 アメリアの答えは簡潔だった。


 「それ以上でも、それ以下でもございません」


 しかし、ルーカスには分かった。彼女は何かを隠している。過去に、何か重大な秘密があるのだ。


 父の言葉が蘇る。「アメリアの過去を詮索するな。彼女の剣がお前の命を救う時が必ず来る」


 まさに、その通りになった。彼女の剣が、確実にルーカスの命を救ったのだ。


 ***


 「すげぇ……」


 ジルが馬車から降りてきた。


 「あんたの戦い方、初めて見ましたけど……芸術品みたいでしたね」


 その金色の瞳には、純粋な賞賛が宿っていた。恐怖ではなく、美しいものを見た時の感動だった。


 「ありがとうございます」


 アメリアは軽く会釈した。


 「しかし、猫族のジル様でしたら、私とは全く違うアプローチで同じ結果を出せたでしょう」


 「へ?俺がですか?」


 ジルは慌てたように手を振った。


 「俺なんて、ただの料理人ですよ。戦いなんて……」


 しかし、アメリアの視線は鋭かった。まるで、ジルの正体を見抜いているかのような。


 「そうでしょうか?」


 意味深な笑みを浮かべて、それ以上は何も言わなかった。


 ***


 気絶している盗賊たちを調べてみると、興味深いことが分かった。


 彼らは普通の山賊ではなかった。装備は粗末だが、体には戦場での古傷が無数にある。おそらく、元は正規軍の兵士か傭兵だったのだろう。


 「なぜこんな者たちが、山賊になったのでしょうか」


 ルーカスが疑問に思っていると、気絶から回復した盗賊の一人が呻き声を上げた。


 「うう……化け物め……」


 「君たち、なぜこんなことを?」


 ルーカスは盗賊に尋ねた。


 「元は兵士だったのではないか?」


 盗賊は驚いたような顔をした。


 「よく分かったな……俺たちは、帝国軍の退役兵だ」


 「退役兵が、なぜ山賊に?」


 「戦争が終わって、用無しになったのさ」


 盗賊の声には、深い怨嗟が込められていた。


 「国のために戦って、傷だらけになって……それなのに、平和になったら『もう用なし』ってか。年金も出ねえ、仕事も紹介されねえ。食うために盗賊になるしかなかったんだ」


 ルーカスは言葉を失った。


 彼らもまた、理不尽な現実の犠牲者だったのだ。英雄として戦ったはずなのに、平和な時代には居場所がない。そんな退役軍人の問題など、書物には書かれていなかった。


 ***


 「龍の件は、どうなっている?」


 ルーカスは更に尋ねた。


 「君たちは本当に龍がいると思っているのか?」


 「そりゃあ……声は聞こえるじゃねえか」


 盗賊は困惑したように答えた。


 「毎日あんな咆哮が響いてるんだ。龍以外に何があるってんだ?」


 「君たちは、龍の姿を見たことはないのか?」


 「見たことは……ないが……」


 盗賊の声が次第に小さくなった。


 「でも、頭目が『龍様への貢ぎ物を集めろ』って言うから……」


 ルーカスは事態を理解した。


 盗賊たちは、頭目に騙されているのだ。頭目は龍など信じておらず、単に部下を操るために「龍への貢ぎ物」という建前を使っているのだろう。


 「その頭目は、どこにいる?」


 「洞窟の奥に……隠れ家がある……」


 盗賊は観念したように答えた。


 「そこで、龍様への儀式をやってるんだ……」


 ***


 状況が見えてきた。


 鳴き龍の洞窟では、元帝国軍人の盗賊団が、偽りの龍信仰を利用して通行人から金品を巻き上げている。そのせいで村の商業が衰退し、人々が苦しんでいるのだ。


 しかし、問題はより複雑だった。盗賊たちも、社会から見捨てられた被害者の側面がある。単純に排除すれば良いという話ではなかった。


 「ルーカス様」


 アメリアが静かに言った。


 「この者たちをどう処置いたしますか?帝国の法に従えば、山賊行為は死刑です」


 「死刑……」


 ルーカスは震えた。


 確かに、法的にはそれが正しいのかもしれない。しかし、彼らの事情を知った今、簡単に死刑にできるだろうか。


 「いや、殺すのは避けたい」


 ルーカスは決断した。


 「別の解決方法を考えよう」


 アメリアは意外そうな表情を見せた。しかし、すぐに頷いた。


 「承知いたしました」


 ルーカスは、初めて自分の意志で重要な決断を下した。それは、書物に書かれた正義ではなく、現実を見据えた上での判断だった。


 洞窟からは、相変わらず不気味な音が響いている。本当の謎は、まだこれからなのだ。

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