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第3話:動く書斎

 公国の城門をくぐり抜け、街道に出ても、ルーカスは馬車の揺れをほとんど感じなかった。


 石畳から土の道に変わった瞬間、普通の馬車なら激しく揺れるはずなのに、シルフィード号の車内は書物が読めるほどに安定している。まるで雲の上を滑るように、滑らかな乗り心地だった。


 「これは……一体どうなっているのだ?」


 ルーカスの疑問に、アメリアが簡潔に答えた。


 「魔法式衝撃吸収機構が搭載されております。路面の状況を瞬時に感知し、揺れを相殺する仕組みです」


 「魔法式の……」


 「ご令嬢の公爵様も、なかなか凝った物を造らせなさったもんですね」


 ジルが感心したように呟く。彼は座席の肘掛けを撫でながら、その材質や加工を確かめるように触れていた。


 「この黒鋼の装甲も、ただの飾りじゃねえ。魔法攻撃にも物理攻撃にも対応できる、本格的な戦闘仕様だ」


 戦闘仕様?ただの視察旅行に、なぜそこまでの装備が必要なのだろうか。


 ルーカスの胸に、改めて疑問が湧き上がった。父は一体、どんな危険を想定しているのだろう。


 ***


 しばらく進んだところで、アメリアが御者台のジルに声をかけた。


 「少し休憩を取りませんか。ルーカス様に、馬車の設備をご案内したいと思います」


 「おう、いいですね。俺も中を見てみたかったんだ」


 馬車は街道脇の小さな泉のそばに停車した。ルーカスは久しぶりに外の空気を吸い、愛馬ゼファーの元へと向かう。


 「ゼファー、調子はどうだ?」


 美しい葦毛の馬は、主人の手を感じると嬉しげに鼻を鳴らした。ルーカスがその首筋を撫でると、温かい何かが心の中に流れ込んできた。


 『ルーカス』


 それは言葉ではない。思念だった。ゼファーとの精神的な繋がりは、幼い頃から続いているルーカスだけの特別な能力だった。


 『この旅は、ただの視察ではないね』


 『ああ。父君は、お前に世界の真実を見てほしいと願っておられる。そして……』


 ゼファーの思念に、わずかな緊張が混じった。


 『危険も多い。だが、お前には二人の優秀な守護者がついている。特に、あの女性は……』


 『アメリアのことか?』


 『彼女の剣技は本物だ。そして、猫族の青年も、見た目ほど軽薄ではない』


 ルーカスは微笑んだ。ゼファーの洞察力は、いつも的確だった。


 『君も気をつけてくれ、相棒』


 『当然だ。お前を守ることが、私の誇りだからな』


 ***


 「ルーカス様、お戻りになりましたら、こちらへどうぞ」


 アメリアに促されて馬車に戻ると、彼女は車内の一角にある、見落としていた小さなレバーを示した。


 「こちらを操作いたします」


 レバーを引くと、馬車の後部の壁が音もなく開いた。その向こうには……


 「な、何だこれは!」


 ルーカスは目を見張った。


 馬車の後部には、外から見た大きさとは明らかに釣り合わない、広々とした空間が広がっていたのだ。壁一面が本棚になっており、父の書斎にも劣らない蔵書が整然と並んでいる。


 中央には重厚な机と革張りの椅子が置かれ、その上には精密な地図や羊皮紙、インク壺や羽根ペンが用意されていた。机の上方には光石ライトストーンが設置され、柔らかな光が作業スペースを照らしている。


 「空間拡張魔法ですね」


 ジルが感心したように口笛を吹く。


 「こいつは凄え。まるで小さな図書館みたいだ」


 ルーカスは恐る恐る書斎に足を踏み入れた。古い革の匂いと、インクの香りが鼻をくすぐる。まるで、自分専用の小さな世界が馬車の中に作られているかのようだった。


 「この本は……」


 手に取った一冊は、各国の異世界遺産に関する詳細な調査報告書だった。他にも古代語の文法書、地形学の専門書、歴史書など、旅に必要な知識の全てが揃っている。


 「お父上が、私のために……」


 机の引き出しを開けると、そこには見覚えのない魔法具があった。小さな水晶球で、触れると微かに光る。


 「それは魔力投影式地図です」


 アメリアが説明する。


 「地図を広げてその上に置くと、主要な地形や都市名が光で浮かび上がります。現在位置も表示されますので、道に迷う心配はありません」


 さらに、机の脚部には隠し金庫が設置されており、重要書類を安全に保管できるようになっていた。


 「血の魔力でしか開かない特殊な錠前です。ルーカス様以外には開けられません」


 ***


 書斎の隣には、ジル専用のキッチンがあった。


 「おお、こいつは素晴らしい!」


 ジルは子供のように目を輝かせながら、コンパクトながら機能美に満ちた調理場を見回した。


 煙と匂いを瞬時に分解・排出する魔導コンロ、温度・湿度管理機能付きのスパイスラック、壁面に収納された様々な調理器具。全てがミリ単位で計算され、無駄のない配置になっている。


 「こりゃあ、どんな食材でも美味い料理に変えてみせますぜ!」


 ジルは早速、持参したスパイスを専用ラックに並べ始めた。彼の手つきは真剣そのもので、先ほどまでの軽薄さはどこにもない。


 その向かいには、アメリア専用の警戒席があった。


 運転席のすぐ後ろに位置するそのスペースには、外部の風景を水晶板に映し出す「千里眼の窓」が複数設置されている。これにより、全方位の死角をカバーできるようになっていた。


 「床下には武器庫もございます」


 アメリアが床の一部を開くと、彼女専用の武器や弾薬、手入れ用の道具が整然と収められているのが見えた。


 「こ、これは……」


 そこには、メイドが使うような代物ではない、明らかに実戦用の武器が並んでいた。二本一組のショートソード、投げナイフ、さらには小型のクロスボウまで。


 アメリアは何の感情も見せずに答えた。


 「任務を遂行するための、必要最小限の装備です」


 ***


 馬車の中央部には、共用のリビングスペースがあった。魔力式の冷暖房により、常に快適な温度が保たれている。浄水機能付きの貯水槽もあり、長期の旅でも水の心配はない。


 「まるで動く家ですね」


 ルーカスは感嘆の声を上げた。


 「父上は、一体どれほどの予算をかけたのだろう……」


 「公爵様は、ルーカス様の安全と成功を何よりも重視されたのでしょう」


 アメリアの声に、珍しく温かみが混じった。


 「それに、この馬車は単なる移動手段ではありません。ルーカス様の研究室であり、我々の作戦基地でもあります」


 作戦基地?またしても、ただの視察旅行にしては物騒な言葉だった。


 ***


 再び書斎に戻ったルーカスは、始祖の手記を取り出した。先ほどは時間がなくて詳しく見られなかったが、今なら時間はたっぷりある。


 ページをめくっていくと、確かに所々に解読不能な古代文字が出てくる。それも、単なる装飾ではなく、明らかに重要な情報が記されているように見えた。


 「星の涙。歌に弱し」


 そんな謎めいたメモも見つかった。星の涙とは何なのか。歌に弱いとは、どういう意味なのか。


 手記の最初のページには、こう記されていた。


 『失われし遺産の地図 アイゼンヴァルト家 守護者の記録』


 守護者。父もその言葉を使っていた。アイゼンヴァルト家は、何かの守護者なのだろうか。


 窓の外では、夕日が山並みを赤く染めていた。公国を出発してからまだ数時間しか経っていないのに、ルーカスには既に遥か遠くまで来たような気がした。


 それは物理的な距離だけではない。彼の人生そのものが、大きく動き始めたのだ。


 始祖の手記を胸に抱き、ルーカスは外の景色を眺めた。明日からは、どんな景色が待っているのだろうか。そして、この手記に隠された謎は、いつ明かされるのだろうか。


 馬車の中で過ごす最初の夜は、期待と不安を抱えながら更けていった。

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