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もう、人間界には戻りません  作者: 九葉(くずは)


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第九話 祝福石

「自称が公の場でなされた以上、双方の真贋を、石に、問う」――神官最高長の声で、神殿の空気が止まった。


神殿の大広間は、思っていたよりも、寒かった。


夏の終わりだというのに、石の壁の温度は、冬を抱えていた。

私は、襟元のリボンを、軽く、押さえた。

押さえた指の下で、母様の形見のロケットの感触が、いつもより、はっきりしていた。


私の隣に、リオンが、立っていた。

銀色の髪は、神殿のろうそくの灯りの中で、灯りより、わずかに、白く見える。

彼の左の指が、私の右手の指と、軽く、絡まっていた。


絡まりは、強くなかった。

強くなくて、それでも、離す気はない、という絡まりだった。


大広間の、向かい側。


そちらには、見知った顔が、並んでいた。


王太子アルベルト殿下。

アリエラお義妹様。

公爵──父。

継母メリナ。

それから、王家から立会人として、アルベルト殿下の叔父にあたる、王弟殿下が、ひとり。


父は、私と、目を、合わせなかった。

継母も、扇の陰で、視線を、伏せていた。

王太子殿下は、私を、見ていた。

見て、何も、言わなかった。

言いたいことが、彼の口の周りで、見えていた。

ただ、まだ、形になりきっていない。


アリエラだけが、扇を、強く、握っていた。

握る指の関節が、白かった。


中央には、祝福石が、置かれていた。


人の頭ほどの大きさの、薄い色の、丸い石。

中に、何かが、入っているわけではない。

ただ、ろうそくの灯りを、吸って、奥のほうで、ほんの少しだけ、揺れていた。

水のように。


神官最高長が、祭壇の脇から、ゆっくりと、進み出た。

祭服の銀の縁取りが、足音に合わせて、軽く、動いた。


「両家、ならびに、精霊王様。本日は、神殿の招請に応じてくださり、感謝申し上げる」


老人の声は、響いた。

響いたが、声を張った響きではなく、石の壁が、勝手に、声を運んでくれているような響きだった。


「神事の趣旨は、すでに、お伝えの通り」


最高長は、祝福石に、軽く、手を触れた。


「精霊王様の番に関し、自称する者あり。また、精霊王様より、番として認知される者あり。両者の真贋を、この石に、問う」


「両者、ともに、祭壇の前へ」


私は、リオンと、目を、合わせた。


リオンの指が、軽く、私の指を、握り直した。

それが、行こう、の合図だった。


私は、歩き出した。


公爵邸のホールでも、王宮の夜会でも、私は、こうやって、中央に、歩いたことが、なかった。

いつも、隅にいた。

今夜だけ、私は、自分の足で、中央に、歩いた。

足音を、自分の中で、数えた。

数えるのを、途中で、やめた。

数えなくても、足は、ちゃんと、動いた。


アリエラが、向かいから、私とほぼ同時に、進み出た。

私たちは、祝福石を挟んで、向かい合った。


「先に、自称者の方より」


最高長は、アリエラを、目で示した。


アリエラの頬が、ろうそくの灯りに、浮き出た。

浮き出た頬は、いつもの天使顔のときよりも、ずっと、若く見えた。

若く見えたのは、化粧が、薄かったから。

あるいは、急いで、作り直す余裕が、なかったのかもしれない。


「あ、あの──」


アリエラが、口を、開いた。


「私、その、最近の、噂は、誤解、で」


最高長は、答えなかった。

答えずに、ただ、祝福石の方を、目で、示した。


「ご自身の、口から、申されたことを、神殿は、皆、聞いている」


「えっ──」


「夜のサロンでの、ご発言。茶会での、ご発言。記録は、神殿に、ある」


アリエラの扇が、止まった。

止まったまま、扇を握る指が、震え始めた。


「お試しいただくだけで、結構にございます」


最高長の声は、丁寧だった。

丁寧であるほど、逃げ場が、なかった。


「精霊王様の真の番に、近しい方であれば、石は、銀色に、応じます。ただ、それだけにございます」


アリエラは、扇を、ゆっくり、閉じた。

閉じた扇を、片手に、握りしめた。

もう片方の手を、震えながら、祝福石に、伸ばした。


伸ばした手のひらが、石に、触れた。


──変化は、すぐだった。


祝福石の、奥の方の、揺れが、止まった。

止まって、その代わりに、表面が、薄く、黒く、濁り始めた。


最初は、薄い灰色。

それが、灰色から、煤色へ。

煤色から、深い、黒へ。


一拍置いて、神官団の、ひとりが、軽く、息を、呑んだ。


「黒、にございます」


最高長は、祝福石を見たまま、言った。


「精霊王様の番では、ない、ということ。さらに、虚偽の自称をなされた、ということ」


「あ──」


アリエラの口が、半分、開いた。


「あ、あの、これは、何かの、間違い、で」


「祝福石は、間違えませぬ」


最高長は、初めて、はっきりと、アリエラを、見た。


「五百年前の、判例があります」


その言葉で、誰も、何も、言えなくなった。

石の壁が、声を、戻してこなくなった。

神殿の中の空気だけが、ろうそくの炎を、軽く、揺らしていた。


アリエラが、よろけた。

よろけて、祝福石から、手を、離した。

離した瞬間、石の濁りが、ゆっくり、薄れて、また、薄い色に、戻った。


祝福石は、最初の状態に、戻っただけ、のように見えた。

だが、神殿の全員が、もう、最初の祝福石を、最初のように、見ることができなかった。


「ヴィオラ・アルテミシア嬢」


最高長が、私の方に、視線を、向けた。


「お試しいただきたい」


リオンの指が、私の指から、ゆっくり、離れた。

離れる時、彼は、私の指の先を、ほんの一度、握って、戻した。

それが、行ってこい、の合図だった。


私は、祝福石の前に、進んだ。


石は、私の目の高さよりも、少し、低い位置に、あった。

だから、軽く、屈むことになった。

屈んで、両手を、石の上に、そっと、置いた。


──置いた瞬間。


石が、銀色に、光った。


光、というよりも、内側から、温度が、立ち上がった、と言う方が、近い。

銀の光は、私の手のひらを、通り抜けて、神殿の天井まで、淡く、照らし上げた。


神官団の、全員が、跪いた。

最高長も、跪いた。

跪きながら、祭服の縁が、石の床に、擦れた。


立っていたのは、私と、リオンだけだった。


そして、向かいの、王太子殿下と、アリエラと、父と、継母。

彼らは、跪く間も、なく、ただ、その光を、見ていた。


私は、ゆっくり、両手を、石から、離した。


光は、私の手が離れたあとも、しばらく、銀色のまま、残った。

残ってから、ほんの少しずつ、薄れて、最後に、最初の薄い色に、戻った。


最高長が、跪いたまま、頭を、上げた。


「祝福石は、銀色を、示しました」


老人の声は、最初より、少しだけ、深くなっていた。


「精霊王様の真の番は、ヴィオラ・アルテミシア嬢、ただ、お一人にございます」


それから、最高長は、立ち上がった。

立ち上がって、神官団の方に、軽く、合図を、した。


合図を受けた神官のひとりが、巻紙を、広げた。

古代条約の写しと、神殿の判決文だった。


「神殿は、本神事の判定に基づき、以下を、宣告いたす」


最高長の声が、神殿の隅まで、届いた。


「アリエラ・アルテミシア嬢」


アリエラが、肩を、震わせた。


「あなた様は、公の場で、虚偽の自称を、行いました。これは、神殿規定の虚偽申告罪に、該当いたす。よって、嫡子認定を、ここに、取り消します。さらに、贖罪の要として、神殿付属の修道院に、入っていただきます」


「あ──、あの、お父様、お父様」


アリエラが、振り向いた。


公爵──父は、彼女の方を、見なかった。

見ずに、自分の足元を、見ていた。


ここで、最高長は、傍らの監査神官に、軽く、目で、合図をした。

中年の、痩せた神官が、巻物を、開いた。

最高長と、声の質が、違った。

もう少し、事務的な、低い声。


「アルテミシア公爵閣下」


監査神官が、巻物を、読み上げた。


「貴家門に関する、神殿の財産記録調査の結果、夫人メリナ嬢による、先妻様の遺品売却、ならびに、ご実家の借金返済のための不正な経路使用が、確認されております」


「……」


「これは、家門の管理責任に関わる、重大な失態にございます」


「……承知、いたしております」


父の声は、思ったより、低かった。

低くて、やっと、出ている、ような声。


「神殿は、神官団の領主監査権を、発動いたします」


監査神官は、続けた。


「アルテミシア公爵領の、経営権は、本日より、神官団の監査下に、置かれる」


「……」


「公爵閣下は、領主の名のみ、保持される。実権は、当面、監査官に、移ります」


父は、頭を、低く、下げた。

下げて、しばらく、上げなかった。

継母メリナは、扇の陰で、声もなく、肩を、震わせていた。


そして、メリナへの宣告は、最高長が、自ら、引き取った。


「メリナ夫人」


最高長の声が、戻った。


「貴殿は、先妻様の遺品の売却に、加え、ご実家の借金の返済に、不正な経路を、使われた。これは、神殿の調査により、確定しております」


「……」


「神殿は、貴殿に、領内からの、退去を、命じます」


メリナの扇が、彼女の指から、滑り落ちた。

滑り落ちた扇は、石の床で、軽い音を、立てた。

音は、すぐに、消えた。

誰も、拾わなかった。


最後に、最高長は、王太子の方を、見た。


「アルベルト殿下」


王太子殿下は、答えなかった。

ただ、最高長の方を、まっすぐ、見ていた。

見ながら、何度か、口の端を、引いた。

何かを、言おうとして、結局、言わなかった。


「殿下は、精霊王様の番──ヴィオラ嬢に対する、長期にわたる侮辱を、黙認し続けてこられた」


「……」


「家中での、不当な扱い。妹君による、功績の横取り。婚約四年間の、誠意の欠如」


「……」


「殿下は、それらを、知る立場にありながら、是正を、図られなかった」


最高長は、続けた。


「これは、王家の、名誉に関わる、重大な責にございます」


「……」


「神殿は、殿下の王太子継承権の、剥奪を、議会に、進言いたします。本日、立会人として、王弟殿下に、この場で、お聞きいただきました」


王弟殿下が、頭を、軽く、下げた。

それが、議会への進言を、受け取る、という合図だった。


王太子殿下は、ただ、立っていた。

立っていたが、足が、震えていた。

震えていたのは、足だけではなかった。


それから、最高長は、神殿の脇に、控えていた、ひとりの神官に、目で、合図をした。


その神官は、白い、布に包まれた、束を、抱えていた。


「最後に、もうひとつ」


最高長は、その布の包みを、神官から、受け取った。


「これは、神事の三日前、アルベルト殿下、自ら、神殿に、お届けくださったものにございます」


包みが、解かれた。


中から、出てきたのは、十枚の、白い、刺繍のハンカチだった。


私は、息を、止めた。


それが、私が、四年間、毎年、王太子殿下に、贈ったハンカチだと、私には、すぐ、分かった。

角に刺した、半月の刺繍。

雪結晶の、六本の枝。

銀色の鹿。

薬草の束。

夜啼鳥。

銀色の橋。

夏の夕方の、雲の形。


私は、それらを、もう、四年も前から、忘れていた。

忘れていたつもりだった。


「殿下のお書状には、こうございました。『神事の場で、貴殿のご判断で、お使いいただきたい。使い方は、お任せいたします』」


最高長は、そのハンカチを、祝福石の上に、そっと、載せた。


「神殿として、ひとつ、確認しなければなりませぬ」


最高長は、私の方に、目を、向けた。


「ヴィオラ嬢、これらは、貴殿の手によるもの、ですな」


私は、頷くしかなかった。


「神殿は、これらを、祝福石に、問う」


最高長が、ハンカチの束を、軽く、石の上に、押した。


──祝福石が、もう一度、光った。


今度は、銀ではなかった。

柔らかな、金色。

ろうそくの炎よりも、温かい色。


「祝福石は、金色を示しました」


最高長は、その金色を、しばらく、見つめてから、続けた。


「これは、贈り主の感情が、儀礼の範囲を超え、深い、愛情に、根ざしていた、という証にございます」


王太子殿下が、拳を、握りしめた。

握りしめた拳の関節が、白くなった。

何かを、口の中で、噛んだような顔を、していた。


四年、その引き出しに、ハンカチを、入れていたのは、彼自身だった。

神殿に、それを、自分から、届けたのも、彼自身だった。

祝福石に、それを、問うことを、彼自身が、選んだことに、なる。

彼が、自分で、自分の四年を、神殿の祭壇に、差し出した、のだった。


最高長は、最後に、頭を下げた。


「以上をもちまして、神事の判定を、終わります」


それで、宣告は、終わった。



父が、頭を下げて、神殿を、退いた。

継母が、扇を、拾わずに、退いた。

神官たちは、跪いた姿勢のまま、しばらく、動かなかった。


ただ、王太子殿下は、退かなかった。


私の方に、足を、踏み出した。

踏み出して、祝福石の脇まで、来た。

来てから、私の足元の、少し前で、跪いた。


「ヴィオラ」


声が、掠れていた。


「すまなかった」


私は、彼の方を、見た。


「すまなかった、戻ってきてくれ」


王太子殿下の声は、これまでで、いちばん、子どものような響きを、していた。


「お前がいなくては、俺は、王太子で、いられない」


私は、答えようとした。

答えようと、口を、開いた。

開いてから、迷った。


──私の、言葉で、終わらせたい、と、私は言った。


リオンに、それを、約束した。

神殿の壇上で、私の言葉を、私の口から、出す、と。


口を開いたまま、私は、息を、軽く、整えた。

整えてから、何かを、言おうとした、その瞬間。


私の背後で、ふわり、と、銀色の風が、立った。


銀色の翼が、左右に、広がった。


リオンが、私のすぐ後ろから、翼で、私を、囲った。

囲って、片腕を、私の腰に、回した。


「アルベルト殿下」


リオンの声は、これまでで、いちばん、低かった。


「彼女に、それ以上、近づくな」


王太子殿下は、跪いたまま、リオンを、見上げた。

見上げて、口を、開きかけて、また、閉じた。


リオンの翼の影が、私を、軽く、覆った。


「彼女の言葉は、彼女自身の口から、出るが」


「貴殿に、答える形では、出ない」


そう、リオンは、宣言した。


それから、彼の翼の影の中で、私の方に、声を、寄せた。


「ヴィオラ、君の言葉を、君の言いたい者にだけ、向けて、出していい」


私は、息を、吸った。


吸ってから、王太子殿下の方は、見なかった。

父の方も、見なかった。

継母の方も、アリエラの方も、見なかった。


ただ、神殿の天井を、見上げた。


天井には、銀色の、淡い光が、まだ、薄く、残っていた。

祝福石の、銀の光の、最後の、名残りだった。


「もう、人間界には、戻りません」


私は、言った。


声は、思ったよりも、平らだった。

泣いていなかった。

笑ってもいなかった。

ただ、平らに、私の口から、外に、出た。


それは、十三の春から、私の中で、宙に浮いていた言葉が、ようやく、形を、決めた音だった。


「皆さま、お幸せに」


その「お幸せに」は、二度目だった。

一度目は、王宮夜会の、あの夜。

二度目は、今夜。


二度の「お幸せに」を、私は、もう、一生、口にしないだろう。

それで、十分だった。



リオンの翼が、ゆっくり、私の周りで、戻っていった。

戻りながら、彼は、神殿の祭壇の前に、片膝を、ついた。


王太子殿下のように、跪いたのではなかった。

誰かに、許しを乞う膝でも、なかった。


リオンの片膝は、私の方に、向けられていた。


彼は、私の手を、両手で、取った。

取って、銀色の瞳で、まっすぐ、私を、見上げた。


「ヴィオラ・アルテミシア」


声は、神殿の天井に、銀の光と一緒に、残っていた。


「俺の番に、なってくれるか」


私は、答えなかった。

答える前に、神殿の中が、ろうそくの灯りごと、揺れた気がした。

揺れたのは、私の指の方だった。


リオンは、私の答えを、待った。

待ってから、ほんの少し、口元を、緩めた。

緩めてから、こう、付け加えた。


「答えは、宮殿に、戻ってから、聞こう」


それで、彼は、立ち上がった。

私の手を、握ったまま。


私たちは、神殿の大広間の、中央を、ゆっくり、歩いた。


歩きながら、私は、一度だけ、振り向いた。


跪いたままの王太子殿下。

扇を落としたままの継母メリナ。

頭を下げたままの父。

そして、神官団に支えられて、ようやく立っている、アリエラ。


四つの後ろ姿、というのは、本当は、おかしな言い方だ。

彼らは、私と、向かい合っているのだから。

だが、私には、それが、後ろ姿に、見えた。


私が、もう、彼らに、背を向けて、歩いている、ということなのかもしれない。


私は、振り返るのを、やめた。


リオンの翼の、銀の名残が、神殿の床に、薄く、光っていた。


光は、私たちの足音と一緒に、神殿の外まで、ついて来た。

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あまりに「、」が多すぎて読みづらいかも。
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