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もう、人間界には戻りません  作者: 九葉(くずは)


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第八話 行かなくていい、と君が言ったから

「行きません」と言うのは、簡単だった。


リオンが、それを、望んでいる。

私の言葉一つで、私は、神殿の壇上に、立たなくて済む。

立たなくて済めば、私は、王太子殿下の顔を、見なくて済む。

アリエラの泣き顔も、見なくて済む。

父も、継母も、見なくて済む。


「行きません」と私が言えば、リオンは、安心する。

それが、彼の千年の願いの、一番、上にある。


私は、図書室の、書架の前に、立っていた。

書架には、私には、まだ、読めない文字の、古い背表紙が並んでいる。

その中の一冊を、何も考えずに、指の腹で、なぞった。

なぞって、戻した。


戻した指が、少しだけ、震えていた。



神殿からの召喚状が、届いた、その夜。


私たちは、食堂で、向かい合って、座っていた。

卓の上には、巻紙が、まだ、広げてあった。

神殿の封蝋が、橙色の灯りに、深く沈んでいた。


「ヴィオラ」


リオンが、口を、開いた。


「番認定の、神事は、本来、俺の権限だけで、成立する」

「はい」

「君が、神殿に、出向く必要は、ない」


彼の声は、いつもより、丁寧だった。

丁寧すぎる、と感じた。


「リオン」

「ああ」

「でも、神殿様は、私の出席を、求めて、おられます」

「神殿が求めても、俺が拒めば、神事は、成立する形を変える」


「……変える、というのは」

「俺が、神殿の祭壇に、出向いて、番認定の儀式を、単独で、執行する。それで、対外的な手続きは、終わる」


「アリエラ、お義妹様の方は」

「神殿が、自称者として、別途、処分する。君の関与は、必要ない」


リオンは、それきり、口を、閉じた。

閉じた口は、私の返事を、待っていた。


私は、卓の上の、巻紙の文字を、見た。

見て、もう一度、読み直した。

同じ文章でも、二度読むと、別の意味に見えることがある。

今夜は、特に、そうだった。


「リオン」

「ああ」

「私、神殿に、出向きたいです」


リオンの目が、ゆっくり、瞬いた。


「……」

「自分の言葉で、終わらせたいのです」


「終わらせたい、とは、何を」


「父との、ことを」


私は、卓の上で、両手を、軽く、組んだ。


「アリエラ、お義妹様との、ことを。王太子殿下との、ことを」


「リオン、私、ずっと、笑って、隠して、来たんです」


「十三の春から、十六の春から、十八の春から」


「私の言葉が、私の中で、ずっと、宙に浮いたまま、行き場を、失っていました」


「神事の場で、それを、最後に、私の口から、出したいのです」


リオンは、答えなかった。

答えずに、自分のカップを、ゆっくり、両手で、包んだ。

包んでから、それを、口に運ばずに、卓の上に、戻した。


「君を、傷つけたくない」


低い声だった。


「そこに行けば、君は、また、誰かの言葉に、傷つく」


「リオン」

「俺は、君が、また、傷つくのを、見たくない」


「……」


「だから、行かなくていい」


リオンは、それきり、立ち上がった。

立ち上がって、卓の脇の、お湯の壺を、取った。

取って、何も言わずに、新しい茶葉の缶を、棚から、降ろした。


茶葉の缶は、私の好きな、苦みの少ない、薬草の葉だった。


リオンは、ティーポットに、茶葉を、入れた。

お湯を、注いだ。

注ぎ口の角度が、いつもより、慎重だった。

熱湯が、手元に、跳ねないように、丁寧に。


私は、その手元を、ずっと、見ていた。


──怒っている、のとは、違う。


そう、感じた。


ポットを振らない、その手元の、慎重さ。

お湯の温度を、確かめるような、左の指の動き。

何かが、見たことのない形で、彼の指を、硬くしていた。


千年、待って、ようやく、迎えに来た相手。

その相手を、また、誰かの言葉で、傷つけさせるかもしれない。

その傷ついた姿を、上手く、慰められるかも、彼には、自信がない。

そして、千年が、もう一度、振り出しに戻るかもしれない。


──彼の指は、それを、知っている指だった。


私の目元が、勝手に、熱くなった。

熱くなってから、私は、慌てて、それを、押さえた。

押さえても、止まらなかった。


リオンは、ポットを、揺らした。

揺らして、二つのカップに、薬草茶を、注いだ。

注ぎ終わって、私の前に、置いた。

置いてから、何も言わずに、自分の席に、戻った。


茶は、湯気を、立てていた。

湯気の向こうに、リオンの顔が、ぼやけていた。

ぼやけて、それから、いつもの、人ではない、銀色の輪郭に、戻った。


「リオン」


私は、ようやく、口を、開いた。

ぼやけたままの彼の方を、まっすぐ、見た。


「ごめんなさい」


リオンが、微かに、首を、傾げた。


「謝らなくていい」

「いいえ」

「ヴィオラ」

「リオン、私が、ここに戻ってこないかもしれない、と、思っているのですか」


リオンの目が、ゆっくり、瞬いた。

瞬いて、しばらく、答えなかった。


「……戻ってきてほしい」


それだけ、彼は、言った。


「でも、強要は、しない、つもりだ」


「……」


「だから、行かなくていい、と、言いたいだけだ」


私は、両手で、カップの両側を、包んだ。

包んだら、湯気が、私の頬に、かかった。


「リオン、私、もう、傷つかない、というほど、強くは、なれません」


「……」


「神殿に出ても、傷つくと思います。父の顔を見ても、お義妹様の顔を見ても、何かを、抉られます」


「……」


「それでも、出たいのです」


「ヴィオラ」


「私、私の言葉を、最後に、私の口から、外に出したい。一度だけでいいから、出したいのです」


「それを、ここの宮殿で、書面で、書いて、神殿に届けるのでは、どうだ」


リオンの声は、静かだった。

だが、もう、最初の、行かなくていい、ほどの、強さでは、なかった。


「書面では、私の声が、出ません」


私は、首を、横に振った。


「父も、お義妹様も、王太子殿下も、私の書いた文字を、何度も、書き換えてきました。アリエラのものとして、世に出されました。リネアの母様を救った薬草の処方も、彼女のものになりました」


「……」


「私の文字は、神殿でも、誰かに、書き換えられるかもしれません。それが、できないのは、声、だけなのです」


リオンは、長く、私を、見ていた。

長く見て、自分のカップを、ゆっくり、口に運んだ。

口に運んで、ほんの少しだけ、口元を、緩めた。

緩めたあとで、また、戻した。


「……ヴィオラ」

「はい」

「君が、それを、選ぶなら」

「はい」

「俺は、共に、行く」


私は、頷いた。

頷いて、ようやく、薬草茶を、口に運んだ。


苦みの、少ない、薬草。

私の、好きな、配合。

温度は、ちょうどよかった。

ちょうどよくなるまで、リオンが、卓の上で、じっと、見守っていたのだと、その温度が、教えてくれた。



そのあと、私たちは、テラスに出た。


夜の風は、もう、夏の終わりの匂いを、含んでいた。

青いリンドウの花は、夜風に、軽く、揺れている。


リオンは、テラスの真ん中で、ふと、私の前で、膝を、ついた。


「リオン……?」


私は、戸惑った。

人に、跪かれることに、私は、慣れていなかった。

婚約者だった頃でも、王太子殿下は、私に、跪いたことが、なかった。


リオンは、膝をついたまま、私の右手を、両手で、取った。

取って、額を、その手の甲に、寄せた。


「では、共に」


低い声だった。


「君が、神殿で、君の言葉を、出しきるまで、俺は、君の隣にいる」

「リオン」

「言葉を、出した後で、君が、もし、もう疲れた、と思ったなら」


彼の声が、わずかに、揺れた。


「俺の宮殿に、戻ってくれ」


私は、その「もし」の重さを、聞き取った。

彼が、どれほど、その「もし」を、恐れているかも、聞き取った。


私は、空いている方の手を、ゆっくり、彼の銀色の髪に、寄せた。

寄せて、髪に触れた。

人ではない髪は、絹より、軽くて、月光より、わずかに、温かい。


「リオン」


私は、彼の名前を、呼んだ。

今夜は、「様」を、つけなかった。

昨夜の半分の声ではなく、ちゃんと、最後まで、名前として、呼んだ。


「私、戻ります」


彼の額が、私の手の甲の上で、ほんの少しだけ、強く、押さえられた。


「私、リオンの、宮殿に、戻ります」


風が、青いリンドウを、もう一度、揺らした。


仔狐が、テラスの隅で、ふん、と、鼻を、鳴らした。

鳴らしてから、なぜか、立ち上がって、テラスの外の方を、見ていた。

夜の闇の方を。

一頭、もう一頭、と、見るような目つきで。


私は、その時は、気づかなかった。




翌朝。


私は、いつもの時間に、目を、覚ました。

寝台の枕元に、いつもの古株の、小狐型の精霊が、いなかった。


最初は、薬草園に、行ったのだろうと思った。

たまに、彼は、夜のうちに、外を、見て回ることがあった。

朝食の時間に、戻ってきた。


朝食の時間に、戻らなかった。


「あの、リオン」


私は、食堂で、リオンに、聞いた。

リオンも、軽く、首を、傾げた。


「いない、のか」

「はい、寝台にも、薬草園にも」


リオンは、立ち上がった。

立ち上がって、宮殿の中庭に、出た。

中庭で、ふん、と一度、息を、吸った。


「……気配が、ない」

「お、王宮の、結界の外では」

「結界の外、ではない。その先にも、ない」


リオンは、しばらく、考え込んだ。

考え込んで、もう一度、ふん、と息を、吸った。


「分からぬ」


彼は、率直に、言った。


「俺の眷属は、皆、俺の気配で、繋がっている。あの古株だけが、繋がりが、見えない。気配は、消えてはいない。ただ、見えない」


「……どこかに、行ってしまったのですか」


「行った、と言うほうが、近い。だが、行った先が、俺にも、追えない」


仔狐が見つからない、ということは、宮殿の中では、初めてのことだった。

もふもふ精霊たちは、皆、私たちの周りで、いつもと違う、落ち着かなさを、見せていた。

蝶型の一匹が、私のリボンの上で、何度も、止まり直した。

リス型の一匹が、私の靴の上に、しっぽだけ、こすりつけて、行った。


「ヴィオラ」


リオンが、私の方を、見た。


「神事まで、まだ、五日ある。古株は、必ず、戻ってくる」

「はい」

「探す。だが、無理に、探さない方がいい場合もある」


それは、何かを、知っているような、口調だった。

何かを、知っていて、まだ、私には、言わない、口調だった。


私は、聞かなかった。

聞かないことで、彼に、少しだけ、貸しを作っておこう、と思った。


でも、その貸しは、神事の日まで、戻ってこない。

そう、私は、なぜか、感じていた。


朝の薬草園で、仔狐の代わりに、リス型の精霊が、私の足元に、寄り添った。

寄り添ってくれたが、しっぽの動きが、いつもより、速い。


仔狐の、いない朝は、思っていたより、寒かった。

夏の終わりだと言うのに、肩のあたりが、心もとない。


リオンが、後ろから、軽く、私の肩に、上着を掛けた。


「すぐ、戻ってくる」


それは、仔狐に向けた言葉なのか、私に向けた言葉なのか、両方なのか、私には、判別が、つかなかった。


判別が、つかないままで、いいような、気もした。


風が、青いリンドウを、揺らした。

リンドウは、揺れたが、散らない。

散る時期では、まだ、なかった。


神事の日まで、五日。


私は、その五日の朝の、最初の朝を、仔狐のいない庭で、迎えた。

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