第七話 暴かれる嘘
「君のせいではない」――リオン様の額が、私の額に重ねられた瞬間、私の罪悪感は、いったん、溶けていった。
それは、嘘ではなかった。
ただし、本当でも、なかった。
額の熱が、離れたあとも、罪悪感は、戻ってきた。
戻ってくるたびに、私は、それをもふもふの首元に、押し込めた。
押し込めても、また、別の角度から、戻ってきた。
あの朝のことから、書き始めなければならない。
千年の話を聞いた、テラスの夜の、翌日のことだった。
私は、薬草園の、いつもの石畳の上に、しゃがんでいた。
青いリンドウの株を、剪定するふりを、していた。
ふり、と分かったのは、自分の指が、何度も、同じ枝を、無意味に握っていたから。
「ヴィオラ」
背後から、声がした。
振り向くと、リオン様が、私のすぐ後ろまで、来ていた。
気配が、まるで、なかった。
本当に、なかった。
人ではないからかもしれないし、私が、上の空だったからかもしれない。
「あの」
私は、立ち上がろうとして、立ち上がりそびれて、結局、しゃがんだまま、彼を、見上げた。
「あの、リオン様」
「ああ」
「王国の、収穫が、減って、いるのは」
そこで、私は、息を、吸い直した。
「私が、ここに、いる、せいでしょうか」
リオン様は、答えなかった。
代わりに、屈んだ。
私の目線の高さまで、長身を、二つに折った。
折ってから、彼は、長い指で、私の頬を、軽く、包んだ。
包んでから、額を、私の額に、寄せた。
「君のせいではない」
額が、触れた。
熱は、思ったよりも、低かった。
低かったが、確かに、温度が、あった。
「これは、精霊たちの、選択だ」
「……精霊たちの」
「彼らは、千年、待った相手の傍に、いたいのだ。それを、君のせいだと、君が、抱える義理は、ない」
私は、目を、閉じた。
閉じた瞼の裏で、噴水の枯れた縁の苔が、見えた気がした。
見たことがないはずなのに、見えた。
私の罪悪感が、勝手に、絵を、描いていたのかもしれない。
「……でも」
「でも、ではない」
リオン様の声は、強くなかった。
強くないことが、揺るがない、ということだった。
「君が、ここにいる選択をした。精霊たちが、その近くにいたい選択をした。残りの王国の話は、王国の話だ」
「……」
「君が、抱えるべきは、君自身の罪のぶんだけだ。それ以外の罪を、肩に乗せるな」
私は、小さく、首を、横に振りそうになって、止めた。
首を振ると、額が、離れる気がした。
離したく、なかった。
「リオン、様」
そう呼ぼうとして、思いがけず、声が、半分、止まった。
半分だけ、滑り出していたのは、「様」のないほうの、呼び名だった。
リオン様は、額を、離した。
離してから、ほんの少しだけ、私を見て、何も言わなかった。
ただ、彼の指が、私の頬から、離れる前に、一度、軽く、撫でた。
そのあと、彼は、立ち上がって、踵を返した。
返しながら、言った。
「君が、罪を、抱えたくないなら、抱えなくていい呼び方を、選べばいい」
それだけ、言った。
何の、呼び方だ、とは、彼は、言わなかった。
私には、それだけで、十分、伝わった。
その日の昼、リネアからの密書が、届いた。
宮殿の正門の近くで、銀色のリス型の精霊が、ぽとり、と巻紙を落とした。
仔狐が、それを、私の足元まで、運んできた。
封蝋は、リネアの実家の伯爵家のもの。
だが、蝋の押し方が、いつもの執事のものではなかった。
リネア自身が、自分で、封をした、と分かった。
私は、図書室で、巻紙を開いた。
前置きは、ほとんど、なかった。
『ヴィオラ。
今、社交界で、あなたについて、奇妙な噂が流れています。
アリエラ嬢が、夜のサロンで、自分こそが精霊王の真の番だ、と語り続けています。
最初は、誰も、本気にしていませんでした。
ですが、ここ半月で、信じ始める貴婦人が、増えています。
それは、彼女の話の確からしさのせいではありません。
ヴィオラ、王国の収穫が、確実に、落ちています。
民衆の間で、原因を、探し始めている者が、出ています。
アリエラ嬢は、その不安の中に、自分の物語を、置こうとしています。
あなたが本物の番ではない、自分こそ本物だ、本物が王国に戻れば加護も戻る、と。
心配しないで。
私は、あなたが、本物だと、知っています。
あなたが、私の母を、救った夜のことを、私は、忘れていません。
あの夜から、私は、一度だけ、社交界で、あなたの名誉を主張しようとしました。
止めたのは、あなたでした。
あなたが、もう、いいと言うから、私は、黙ることにしました。
ですが、今は、状況が変わりつつあります。
神殿が、動いてくれることを、私は、祈っています。
お元気で。
もふもふを、どうか、可愛がってあげて。
リネア』
私は、手紙を、二度、読んだ。
読んでから、卓の上に、伏せて、置いた。
仔狐が、卓の下から、私を、見上げていた。
「……だいじょうぶ?」
仔狐は、私の口調を、真似た。
真似て、首を、傾げた。
「……うん」
私は、答えた。
答えてから、自分の声が、思ったより、平らだったことに、気づいた。
私は、もう、十六の春みたいに、笑って隠す、必要がなかった。
笑いも、しなかった。
ただ、密書を、もう一度、開いて、リネアの「もふもふを、どうか、可愛がってあげて」の一行を、指の腹で、軽く、なぞった。
なぞった指が、ほんの少しだけ、温かくなった。
同じ日、王宮、執務室。
アルベルトは、机の左の、いちばん下の引き出しを、もう一度、開けていた。
中の、十枚のハンカチを、机の上に、出した。
出してから、しばらく、見た。
見て、見続けて、最後に、一枚ずつ、白い、麻の布で、包み始めた。
包む手は、丁寧だった。
丁寧でない、包み方を、彼は、もう、していられなかった。
包み終えた束に、彼は、自分の名で、書を、添えた。
『神殿、最高神官殿。
近く神事が、行われると、伺っております。
その場に、これらの品を、貴殿のご判断で、お使いいただきたい。
使い方は、貴殿に、お任せいたします。
使うべきでない、とお考えなら、廃棄も、ご随意に。
アルベルト』
それだけだった。
彼は、束を、神殿宛の早馬に、託した。
託してから、執務室に、戻った。
戻って、ぼんやりと、空の引き出しを、見た。
四年、ハンカチが、置かれていた場所だった。
何も入っていない引き出しは、思っていたよりも、奥が、深かった。
彼は、引き出しを、ゆっくり、閉じた。
閉じてから、ペンを、机の左の縁に、戻した。
そこには、十三年来の、薄く削れた跡が、ついていた。
跡の上に、ペンが、ぴたりと、収まった。
その夜、彼は、神殿に、書をもう一通、送った。
神事への、出席を、自ら、辞さない、という旨の、短い書だった。
同じ夕刻、王宮の南庭。
侯爵夫人主催の、夏の薬草披露の茶会が、開かれていた。
参加者は、二十人ほどの貴婦人と、三人の若い令嬢、それに、付き添いの神官が、二人。
中央の白布の上には、瑞々しい薬草の束が、何種類か、並べられていた。
それを並べたのは、アリエラ・アルテミシアだった。
「皆さま」
アリエラは、扇を広げて、参加者の前に、進み出た。
「本日は、私が、自ら、栽培いたしました薬草を、皆さまに、ご披露いたしますわ」
貴婦人たちの、何人かが、扇の陰で、目を、合わせた。
「……アリエラ嬢、自ら、栽培、と」
「ええ」
アリエラは、誇らしげに、頷いた。
「お姉様の、薬草園を、引き継ぎまして。私が、毎日、お世話を」
並んでいる束を、彼女は、一つ、取り上げた。
香草の、束、のはずだった。
だが、近くの貴婦人が、覗き込んだ瞬間、扇の陰で、息を、呑んだ。
葉が、黄色かった。
黄色いだけではない。
縁から、ぱさり、と、乾いた粉が、零れ落ちていた。
「あら」
侯爵夫人が、扇を、閉じた。
「アリエラ嬢、これは、香草、ですか」
「は、はい、香草、ですわ」
「香草というには、少し、香りが、薄いように、思えますけれど」
アリエラの頬が、赤くなった。
赤くなったが、彼女は、扇を広げ直して、続けた。
「お、おそらく、運搬の途中で、傷んだのですわ」
「左様ですか」
侯爵夫人は、言葉だけ、頷いて、それ以上、何も言わなかった。
茶会の隅で、付き添いの老神官が、静かに、立ち上がった。
「アリエラ嬢」
「は、はい」
「ひとつ、伺っても、よろしいか」
老神官の声は、柔らかかった。
柔らかかったが、断れない柔らかさ、というものが、声には、ある。
「あなた様は、夜のサロンで、ご自身が精霊王の番である、と、申されているそうにございますな」
「えっ──」
アリエラの扇が、止まった。
「事実、ですか」
茶会の、空気が、止まった。
扇の動きも、紅茶を口に運ぶ手も、止まった。
「は、は、はい、ですけれど、その」
アリエラは、答えながら、もう、答えを、後悔し始めていた。
老神官は、頷いた。
「であれば、ひとつだけ、お試しいただけますか」
老神官は、自分の懐から、白い、布の包みを、取り出した。
包みを、開く。
中には、小さな、ガラスの鈴のようなものが、入っていた。
「これは、神殿で、精霊の声を、伝える道具にございます」
「精霊の、声」
「精霊王の番に、近しい方であれば、これを、握っていただければ、内側から、声が、聞こえるはずにございます」
老神官は、その鈴を、卓の上に、そっと置いた。
「お試しください」
茶会の、貴婦人全員が、アリエラを、見ていた。
アリエラは、扇を、握った。
握って、ためらった。
ためらいを、ごまかすために、笑った。
笑いが、上手く、形にならない。
「私、その、精霊の声、というのは、いつでも、聞こえるとは、限りませんの」
「左様にございますか」
「私の、精神状態にも、よりまして」
老神官は、頷いた。
頷いて、それ以上、追求しなかった。
追求しないことの方が、追求するよりも、ずっと、残酷だった。
「では、本日は、お試しいただかなくても、構いません」
「あ、ありがとう、ございます」
「ただし」
老神官の声が、ほんの少し、低くなった。
「神殿は、いずれ、神事にて、真贋を、確かめる必要がございましょう」
アリエラの顔から、扇の陰で、色が、抜けた。
老神官は、頭を下げ、卓の上の鈴を、白い布で、包み直した。
包み直す動作が、丁寧で、静かだった。
丁寧であるほど、卓の上に、置かれた事実だけが、重く、残った。
茶会は、それから、しばらく、続いたが、アリエラは、ほとんど、口を、利かなくなった。
侯爵夫人が、隣の老夫人と、扇の陰で、目を、合わせた。
老夫人は、首を、軽く、横に振った。
──この娘、終わりだ。
そう、夫人たちの目は、語っていた。
茶会のあと、アリエラの後ろ姿を、何人かの貴婦人が、見送った。
見送りながら、誰も、声をかけなかった。
それが、社交界の、最も静かな、追放の形だった。
宮殿の、寝室。
夜が、更けていた。
私は、寝台の上で、起きていた。
横になっていたが、目は、開いている。
目を閉じても、リネアの密書の、文字が、瞼の裏に、貼り付いて、離れない。
仔狐が、私の枕の脇に、丸まっている。
今夜は、いつもより、しっぽの先が、ゆっくり、動いていた。
リオン様は、いなかった。
夕方、彼は、私に、告げてから、消えた。
「国境警備で、北方に、出る。すぐ戻る」
それだけ、言って、宮殿の天井から、銀の光と共に、消えた。
宮殿のどこかに、彼の気配は、残っていた。
残っていたが、姿は、なかった。
不思議な感覚だった。
夜が、深くなった。
私は、目を閉じた。
閉じても、眠れない。
罪悪感が、また、戻ってきていた。
昼に、額を合わせてもらった分量で、夜は、足りない。
私は、寝台の上で、寝返りを、打った。
打って、もう一度、目を、閉じた。
仔狐が、私の頬に、軽く、自分の鼻先を、押し付けた。
「……ありがとう」
私は、小さく、言った。
仔狐は、ふん、と鳴いて、また、丸まり直した。
どれくらい、経ったのか。
窓の外が、薄く、明るくなり始めた頃。
寝台の脇に、気配が、戻った。
私は、まだ、目を、閉じていた。
閉じていたが、それが、誰の気配か、すぐに、分かった。
「──戻った」
低い、声。
私は、目を、開けた。
リオン様が、寝台の脇に、座っていた。
座って、私の方を、見ていた。
朝の光が、銀色の髪の輪郭を、ほどいていた。
「あの、お帰りなさいませ」
「ああ」
「もう、お仕事は」
「終わった。北の方の精霊の、軽い諍いだった」
それから、彼は、ほんの少しだけ、目を、伏せた。
「君が、眠れない夜になる気がしたから、急いだ」
私は、何かを言おうとして、言えなかった。
代わりに、寝台の縁から、片手だけ、差し出した。
差し出す途中で、自分でも、何をしているのか、分からなくなった。
リオン様の指が、私の指を、軽く、握った。
「眠れたか」
「いえ」
「そうか」
それきり、彼は、何も言わなかった。
ただ、私の指を、ゆっくり、握っていた。
握り方は、握って眠らせる握り方ではない。
ただ、ここに、いる、と伝える握り方だった。
私は、目を、もう一度、閉じた。
閉じてから、口の中で、ためらいながら、呟いた。
「……リオン」
「様」を、つけなかった。
リオン様は、何も、答えなかった。
答えずに、私の指を、ほんの少しだけ、強く、握り直した。
それが、答え、だった。
仔狐が、私と彼の間で、ふん、と鼻を、鳴らした。
鳴らして、満足げに、また、目を、閉じた。
私は、ようやく、ほんの少しだけ、眠った。
その日の昼前。
宮殿の正門に、銀色の翼を持つ、伝書精霊が、降りた。
背に、神殿の封蝋の、巻紙を、運んでいた。
リオンが、それを、受け取った。
巻紙を、開く彼の指を、私は、隣で、見ていた。
見ているうちに、彼の表情が、初めて、私の知らない硬さを、帯びた。
「……何が、書いてあるのですか」
私は、聞いた。
リオンは、巻紙を、私の方に、軽く、寄せた。
『神殿、最高神官より、両家にお告げ申し上げる。
精霊王の真の番に関し、自称する者あり。
また、現に番として認知される者あり。
神殿は、双方の出席のもと、神事による真贋判定を、執行する所存である。
日時は、追って通達する。
精霊王側、ならびに、自称者側、双方とも、出席を求める。
欠席は、神殿への、不敬と見なす』
私は、その文面を、二度、読んだ。
二度読んでから、リオンの方を、見た。
「私も、行くのですか」
「行かなくていい」
彼の声は、即答だった。
即答だったが、その即答の硬さが、いつもの彼の硬さとは、違う気がした。
「君を、神殿の壇上に、立たせる気は、ない。番認定は、俺の権限だけで、成立する」
「リオン」
私は、もう一度、彼の名を、呼んだ。
「明日、考えます」
「考える、必要は」
「あります」
私の声は、自分でも、思ったより、はっきりしていた。
リオンは、口を、開きかけて、閉じた。
閉じた口の端が、ほんの少しだけ、強張っていた。
仔狐が、私たちの足元で、しっぽを、巻き直した。
巻き直しの仕方が、いつもより、ぎゅっと、固かった。




