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もう、人間界には戻りません  作者: 九葉(くずは)


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第六話 遅すぎた後悔

「『姉に劣る婚約者など、いらない』──アリエラの目を覗き込んで、俺はそう告げたつもりだった」


そのつもりだった。


実際には、俺は、何も、言わなかった。


あの夜、俺は、アリエラの涙を、白い手巾で、拭うのに忙しかった。

婚約破棄の宣告は、宰相補佐が、通達書を読み上げた。

俺は、頷きもしなかった。

ただ、アリエラの顔を見ていた。

アリエラの涙が、頬を伝うのを、自分の手で、止めるのに、必死だった。


そして、ヴィオラが、こちらを、見もしないで、歩き出した。

歩き出して、アリエラの掌に、銀の指輪を、置いた。

何も言わずに、置いた。


それが、ヴィオラの、最後の動作だった。


俺は、そこで、ようやく、ヴィオラを見た。

何かを言いかけて、口を、閉じた。

手巾の端が、握る指で、皺になっていた。

皺になった布を、俺は、なぜか、ずっと、握り続けた。


天井が、割れた。

銀の月が、降りてきた。

銀色の髪の、男が、俺の婚約者の腰に、腕を回した。

俺の婚約者、と心の中で、もう一度、言ってみた。

言ってから、自分が、ついさっき、その婚約を、放棄するのに、頷きもしなかったことを、思い出した。


何も、言えなかった。

何もしないまま、ホールから、ヴィオラは、消えた。


──あれから、三ヶ月が、経った。



執務室の窓の外で、麦が、揺れていた。

揺れ方が、いつもと、違った。


例年なら、収穫期のこの時期、麦は、頭が重くて、しなる。

しなりながら、風に押されて、波のように、傾く。

だが、今年は、揺れ方が、軽かった。

揺れる、というより、ふらつく、と言った方が、近い。


俺は、執務机に、視線を戻した。


机の天板は、左の縁の方が、薄く、削れていた。

俺が八の頃から、この机を、使っている。

ペンを置く時に、何度も、同じ位置に、当ててしまう癖があった。

癖は、十三年経っても、直らないらしかった。


机の上には、アリエラから上がってきた、薬草備蓄の報告書があった。

俺は、そのページの、ある一文を、もう一度、読んだ。


『南西部地区の薬草倉庫は、過去十年の比較において、現在の備蓄量が、低位と推定される』


──低位と推定される、か。


俺は、その一文を、指の腹で、軽く、なぞった。


ヴィオラの報告書では、こう書いてあった。

過去十年の在庫推移を踏まえると、現在の備蓄は、最低基準を、十二パーセント下回っている。

彼女の文は、いつも、数字が、混じっていた。

推定する、ではなく、下回っている、と書いた。

回りくどい言い方を、彼女はしなかった。


アリエラの文は、回りくどい。

回りくどくて、結論を、避けている。

避けているのか、それとも、その結論を、書ける根拠を、持っていないのか。


俺は、ペンを置いた。

置いた先は、また、机の左縁の、薄く削れた位置だった。


「殿下」


控えていた侍従が、扉の方から、声をかけた。


「神殿から、お呼びでございます」

「神殿が、俺を、呼ぶ?」


侍従は、頭を下げた。


「神官長様、直々に、と」



神殿の応接の間は、いつも通り、寒かった。

夏なのに、石の壁が、まだ、冬の温度を抱えていた。

神官長は、深い色の祭服に、銀の縁取り。

俺の前に座って、湯気の立たない茶を、勧めた。


「殿下」

「神官長」

「単刀直入に、申し上げます」


老人の声は、低い。


「王国の精霊の加護が、離れております」


最初、俺は、その言葉の意味を、捕らえそこねた。

神官長は、急かさなかった。

俺が、捕らえそこねたまま、二度、瞬きをするのを、待った。


「離れている、とは」

「精霊たちが、王都から、力を、引き上げております」

「いつから」

「概ね、三ヶ月、ほど前から」


三ヶ月。


その単語が、俺の喉の奥で、引っかかった。


──三ヶ月前、と言えば。


神官長は、俺の表情を、見た。

見て、視線を、卓の上の、自分の茶碗に、落とした。


「噴水の枯渇、井戸の水位低下、麦の不実、薬草の不育、家畜の繁殖不振。すべて、加護喪失の症状にございます」


「……加護、というのは」

「精霊の、加護でございます。王国の豊穣を、千年、支えてまいりました」

「俺は、そんな、神話の話を」

「殿下」


神官長は、初めて、顔を、上げた。


「神話、ではございませぬ。記録、にございます」


老人の目は、責めていなかった。

責めていなかったが、はっきりと、俺を、見据えていた。


「神殿には、過去千年分の、収穫量と、王家の代替わりの、記録が、残っております。豊穣の波形は、王の血筋ではなく、別の、血筋に、連動しております」


「別の、血筋」

「アルテミシア家の、女系の血筋に、ございます」


俺は、息を、吸い損ねた。

吸い損ねた息を、ゆっくり、吐き直した。


「……ヴィオラ、嬢の」

「左様にございます」

「彼女の、家系が、王国の、収穫を、支えていた、と」

「より正確には、彼女の家系の女性が、王都に近い距離にいる限り、加護が、王都に、留まる、ということに、ございます」


俺は、卓の上の、自分の茶碗を、見た。

湯気は、たっていなかった。

いつから、たっていなかったのか、思い出せない。


「彼女は、今、どこに」

「殿下、それは、殿下が、いちばん、ご存じのはずにございます」


森。

精霊王の、宮殿。

銀色の髪の男が、彼女を、攫った場所。


「……取り戻すには、どうすれば」


口にしてから、俺は、自分の声の、軽さに、驚いた。

取り戻す、と、平気で、言ってしまえる自分の口に、驚いた。


神官長は、答えなかった。

答えずに、続けた。


「殿下。神殿は、近く、王弟殿下にも、同じご報告を、申し上げる予定にございます」


「叔父上、にも」

「左様。王家の継承は、王の血筋に、ございます。ですが、王国の豊穣は、王の血筋では、ございませぬ」


「神官長」

「殿下が、お忘れになっておられたものを、神殿としては、お知らせするのみでございます」


それきり、神官長は、頭を下げて、応接の間を、出ていった。

俺は、しばらく、湯気の立たない茶碗の前に、座っていた。

座っているうちに、茶は、冷めるのではなく、最初から冷たかったのだと、ようやく、理解した。



執務室に戻った時、外は、もう、夕方だった。

窓の外の麦の揺れが、いっそう、軽くなっていた。


俺は、机の前に、座った。

座って、しばらく、何も、しなかった。


それから、机の、左の、いちばん下の引き出しを、開けた。


引き出しは、開けるのに、少し、力が要った。

蝶番が、軋んだ。

そういえば、この引き出しは、もう、何ヶ月も、開けていなかった。


中には、白い、布の束が、入っていた。


刺繍の、ハンカチ。

婚約期間の、四年間、毎年の、結婚記念日と、聖誕祭ごとに、ヴィオラが、俺に、贈ってきたもの。

合わせて、十枚。


最初の年は、確か、月の刺繍だった。

俺の好きな、半月の。

彼女は、何も言わずに、それを、俺に渡した。

俺は、何も言わずに、礼を述べた。

立場上、贈り物には、礼を述べる。

それが、貴族の、義務だった。


俺は、それを、義務だと、思っていた。


引き出しに、しまった。

使わなかった。

使えば、汚れるからだった。

公務の日々の中で、儀礼の品を、使ってしまっては、もったいない。

そう、思っていた。


俺は、いちばん上の一枚を、取った。


白い麻布。

角に、銀色の糸で、半月が、刺してあった。

半月の縁の、影の部分には、淡い灰色の糸が、混ぜてあった。

夜の影の、深さを、出すために。


俺は、それを、知らなかった。


知らなかったが、見れば、分かった。

この刺繍を、刺すのに、彼女が、どれくらいの時間、ろうそくの下で、針を、運んだのか。


俺は、二枚目を、取った。

雪結晶。

冬の祭の朝に、もらった一枚だった。

結晶の、六本の枝の、一本一本に、別の糸が、使ってあった。

太さも、撚り方も、違っていた。


俺は、三枚目を、取った。

四枚目を、取った。

五枚目を。


十枚目まで、机の上に、並べた。


並べてから、俺は、ようやく、気づいた。


刺繍の意匠は、すべて、俺の好きな、ものだった。


半月。

雪結晶。

木立の縁を、走る、銀色の鹿。

書架の隅に置く、薬草の束。

白い、夜啼鳥。

幼い頃、母が読んでくれた絵本に出てくる、銀色の橋。

俺が一度、口にしたきりの、好きな、夏の夕方の、雲の形。


──全部、俺の好きな、ものだ。


俺は、長い間、椅子の上で、座っていた。


ヴィオラが、俺の、何を、知っていたのか。

知って、何を、刺していたのか。


刺繍の中の、銀色の鹿は、俺が、八歳のとき、夏の狩りで、母に「ああいうのが好き」と、ぽつりと言った、あの鹿だった。

母以外、誰にも、言わなかったはずだった。

母は、もう、八年前に、亡くなっている。


ヴィオラが、どこから、その話を、聞いたのか。

俺は、知らなかった。


知らないままに、俺は、十枚のハンカチを、引き出しの底で、四年、眠らせていた。

眠らせていた、と思っていた。

眠っていたのは、自分の方だったのかもしれない。


俺は、十枚のハンカチを、揃えて、机の上に、置いた。

置いたまま、両手で、顔を、覆った。


──「儀礼的な品」と、俺は、確かに、思っていた。

そう、思うことにしていた。

そう思わなければ、四年、彼女と、対等に、付き合えなかった。


なぜなら、彼女は、俺の好きなものを、俺以上に、知っていたからだ。

それを、認めるのは、王太子としての、肩書きには、重すぎた。

だから俺は、これを、儀礼の品にしてしまった。

儀礼の品なら、引き出しの中で、四年、放っておいて、構わなかった。


「俺は」


声が、自分でも、低かった。


「俺は、自分が、賢かった気がしていた、だけ、だった」


部屋には、誰もいなかった。

聞いているのは、机の上の、十枚のハンカチだけ。

ハンカチたちは、何も、答えなかった。


ただ、銀色の鹿の刺繍が、夕陽を受けて、微かに、光っただけだった。



俺は、馬を、乗りつぶす勢いで、森に、向かった。


護衛は、振り切ってきた。

振り切る、というのは、王太子の、本当はしてはいけないことだ。

だが、今夜は、それを、気にしている場合では、なかった。


森の境界に、霧が、立ち込めていた。


俺は、馬から、降りた。

降りて、霧の方に、歩いた。


──歩けなかった。


正確には、歩いた。

歩いた、つもりだった。

だが、五歩進んでも、景色が、五歩前と、同じだった。

十歩、進んだ。

同じだった。

二十歩、走った。

同じだった。


「──結界、か」


俺は、剣を、抜いた。

抜いて、それを、霧に向かって、振った。

何かに、当たる感触はなかった。

ただ、腕に、軽い、衝撃だけが、戻ってきた。


「ヴィオラ」


俺は、霧に向かって、声を、出した。


「ヴィオラ、聞こえているか」


返事はなかった。


代わりに、霧の、ずっと奥の方から、笑い声が、聞こえた気がした。


女の、笑い声。

低く、抑えた、けれど確かに、楽しそうな、声。

その声に、いくつも、いくつも、小さな鳴き声が、混じっていた。

仔狐の、ような。

鳥の、ような。

何か、毛深いものが、転がるような。


──俺の知らない、音だった。


ヴィオラの笑い声を、俺は、四年の婚約期間で、何度、聞いただろう。

思い出そうとして、思い出せなかった。

思い出せない、ということに、ようやく、気づいた。


四年、俺は、彼女の、笑い声を、引き出しもしなかった。


霧の奥の、笑い声は、俺のものでは、ない。

俺のものでは、ないことが、すぐに、分かった。


膝が、勝手に、折れた。


霧の前で、俺は、地に、膝を、つけていた。

剣は、地面に、転がっていた。


「──」


何かを、言おうとした。

言葉が、出なかった。


俺は、王太子だった。

王太子は、地面に、膝を、つかない。

その教育を、十七年、受けてきた。


それなのに、今夜、俺は、誰にも見られていない、霧の境界で、地に、膝を、ついていた。


馬が、後ろで、いなないた。

近づいては、来なかった。


霧の奥の、笑い声は、もう、聞こえなかった。

代わりに、夜の、虫の声が、戻ってきた。


俺は、しばらく、そのまま、膝を、ついていた。


立ち上がる必要が、あったが、立ち上がる、という動作の、やり方を、思い出せなかった。

立ち上がる、ということが、こんなに、面倒な動作だったとは、知らなかった。


夜空の星が、いつもより、近く、見えた。


近い、というのは、空気が乾いている、ということ。

神官長が、言っていた。

加護が、離れている、ということ。


──俺のせいで。


そう、思った。

誰にも、言えなかった。

言うべき相手が、霧の、向こうに、いて、もう、戻ってこないことだけが、はっきりしていた。


俺は、ようやく、立ち上がった。

立ち上がるのに、何度か、足を、踏みかえた。


剣を、拾った。

拾うときも、上手く、握れなかった。


馬の方へ、歩いた。

歩きながら、何度か、後ろを、振り返った。


霧は、何も、答えなかった。


それが、彼女の、答えだったのかもしれない。

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