第五話 千年の片想い
壁画の女性は、私と同じ色の瞳をしていた。
それに気づいた日から、半月が、過ぎていた。
リオン様は、あの日「夜に話そう」と言った。
言ったが、その夜、私は眠ってしまった。
眠らせていただいた、と言う方が、近いのかもしれない。
母様の遺品が売られていた、と知った日。
私は、自分で思っていたよりも疲れていた。
夕方の図書室で、もう一度カップに茶を注いでもらった私は、それを半分も飲み終えないうちに、椅子の上で目を閉じてしまった。
気づいた時には、寝室の寝台の上にいた。
仔狐が枕元で丸まっていて、リオン様は、いなかった。
それから、半月。
リオン様は、壁画の話を、切り出さなかった。
代わりに、彼は、私の生活の細部を、少しずつ、変えていった。
朝食には、青いリンドウのジャムだけでなく、苦みの少ない別の薬草の蜜漬けが、添えられるようになった。
私の薬草園には、新しく、白い小花の苗が、植わるようになった。
何の苗ですか、と尋ねたら、リオン様は「君が好きそうな匂いがする草だ」とだけ言った。
私の好きそうな匂い、を、彼はどこから知るのだろう。
聞きたかったが、聞けなかった。
壁画の話と、繋がっている気がしたから。
半月目の夜。
私は、テラスに出た。
宮殿のテラスは、銀色の柵に、白い花が絡まっている。
夜になると、花は、淡く光った。
ろうそくも、ランプも、いらない。
空に、星が、出ていた。
公爵邸で見た星より、近い気がする。
近い、というより、空気が、星と私の間で、薄い気がした。
「ヴィオラ」
背後から、声がした。
振り向くと、リオン様が、テラスの入口に立っていた。
銀色の髪が、夜の中で、星より、少し、温かく見える。
「眠れぬのか」
「はい、なんとなく」
「そうか」
リオン様は、私の隣まで来て、柵に寄りかかった。
寄りかかって、しばらく、星を見た。
私も、隣で、星を見た。
言葉は、二人の間で、すこし、止まっていた。
「壁画」
先に切り出したのは、私の方だった。
「半月、お聞きしませんでした」
「ああ」
「リオン様が、話したくなければ、聞きません」
「いや」
リオン様は、夜空から、私の方に、視線を移した。
「話さねばならぬ」
そう言ってから、彼は、長い指を、軽く一度、握り直した。
握ってから、開いて、もう一度、握った。
その仕草を、私は、いつかどこかで、見たことがある気がした。
誰の仕草だったかは、思い出せない。
「千年前」
リオン様は、星の方を見たまま、言った。
「私には、番がいた」
千年。
昨夜、女の声が残していった、最後の言葉。
あの晩から、その単語は、私の中で、何度も、転がり続けていた。
「人の女だった」
リオン様は、続けた。
「私の力を、彼女は、畏れた。私が彼女を抱くと、私の力が、彼女の身体に染みた。染みすぎて、彼女は、長くは、生きられなかった」
「……」
「私は、彼女を、人の世から連れ出して、ここで暮らさせた。だが、それでも、人の身では、千年は、保たぬ」
リオン様は、そこで、一度、言葉を止めた。
ろうそくのない夜だったから、彼の表情は、星の光だけで、輪郭が決まっていた。
「彼女は、自分の死期を、自分で、選んだ」
「死期、を」
「人として、自然に枯れる前に、自分の意思で、終える、ということだ」
「……」
「私は、止めようとした。彼女は、笑って、私の指を握ったまま、こう言った」
リオン様の指が、また、軽く、握り直された。
「『私の魂を、精霊縁の血筋に、宿らせて。千年後、もう一度、貴方に逢いに来るから』」
私は、息を、止めた。
「『次に貴方の前に立つときは、私は、人として、もっと長く、貴方の隣にいられる女になる。そうしたら、貴方は、私を、攫って、構わない』」
「攫って、ですか」
「彼女の、口癖だった。攫って、と」
リオン様は、ようやく、私の方を、見た。
「彼女の魂は、精霊縁の血筋に、宿った。彼女は、その血筋の中で、生まれ直し続けた。だが、千年の間、誰の中にも、彼女の魂は、完全には、戻らなかった」
「……完全には」
「魂のかけらが、宿っただけの女もいた。だが、私の番には、戻らなかった」
リオン様の指が、星の方を、軽く示した。
「そして、千年目の春に、君が、生まれた」
私は、何かを言おうとして、何も、出なかった。
代わりに、自分の左手で、寝着の襟元の、母様のロケットを、握っていた。
握っていた手を、見られていた。
「そのロケット」
リオン様が、ロケットを、目で示した。
「中の宝石を、見せてくれ」
私は、震える指で、銀の鎖を引き、ロケットを、首から外した。
リオン様の手が、私の手の上に、重なった。
手の重なりは、軽い。
ただ、ロケットを開けるその一瞬、彼の指が、私の指よりも、ずっと、強く震えているのを、私は感じた。
ロケットの蓋が、開いた。
中には、深い青の宝石が、嵌っていた。
私は、何度も見ていた。
七歳から、十九まで。
リオン様は、長く、その石を、見ていた。
それから、自分の方の、瞳を、私に見せるように、ほんの少し、顔を、こちらに傾けた。
私の目の前で、二つの青が、並んだ。
──同じだった。
色が似ている、ではない。
完全に、同じ。
温度も、光の透き方も、少し緑がかる角度も、ぜんぶ。
「これは」
リオン様は、私のロケットの石を、指の腹で、そっと撫でた。
「彼女の、形見だ」
「……母様の、形見、ですが」
「君の母上は、彼女の血筋の、最後から二番目の女性だ」
私は、口を、半分だけ、開けた。
「最後の、女性、が」
リオン様は、頷いた。
「君だ」
「私──」
「だから、彼女は、君の母上の代から、君の母上を経て、君に、形見を渡した。次の代まで、と思って、託す血筋ではない。君が、最後の受け皿だ」
私は、ロケットを、閉じた。
閉じる指が、上手く、動かない。
リオン様が、私の指の上に、もう一度、自分の指を、軽く重ねた。
その指の重なりの中で、私は、ようやく、思い出した。
「あの、夜、私を連れ去った時に、聞こえた声は」
「ああ」
「あれは、母様の、声で」
「あれは、彼女の声でも、ある」
「『お母さまは、あなたを千年待った人のもとへ、送りたかったの』」
「彼女が、君の母上の口を借りて、最後に、君に告げた言葉、だな」
私は、ロケットを、握りしめたまま、しばらく、何も言えなかった。
握る指の中で、深い青の石が、いつもより、ほんの少し、温かい気がした。
それは、私の指の方の熱だった。
それでも、温かいのだった。
「ヴィオラ」
リオン様の声が、低く、続いた。
「これだけのことを、君に背負わせる気は、本当は、なかった」
「……」
「君に、千年前の女の代わりを、強要する権利は、私には、ない」
「リオン様」
「君が、望めば、私は、君を、人間界に、返す」
「リオン様、私──」
「君は、人として、生きてもいい」
私は、ロケットを、握る指を、ゆるめた。
ゆるめて、両手で、母様の形見を、胸の真ん中に、押し当てた。
押し当てたまま、目を閉じた。
──十八の春のことを、思い出した。
リネアの母様が、流行り病で、寝込んだ年だった。
公爵邸の薬草園で、私は、夜も寝ずに、薬を煎じた。
煎じた薬を、馬車を借りて、伯爵邸に届けた。
リネアが、玄関で、泣きながら、私の手を握った。
リネアの母様は、三日で、熱が引いた。
半月で、自分で歩けるようになった。
私は、それを、誰にも、言わなかった。
言う必要も、ない、と思っていた。
そうしたら、二月が経った頃、社交界の茶会で、アリエラが、扇を広げて、語っていた。
「リネア様のお母様を、お救いしたのは、この私ですのよ。お姉様は、薬草の知識もないのに、無理に走り回って、ご迷惑をおかけしましたけれど」
リネアは、その茶会の隅で、私を見ていた。
私と、目が合った。
リネアは、立ち上がろうとした。
私は、ゆっくり、首を、横に振った。
──もう、いい。
私は、心の中で、そう、呟いた。
もう、いい。
誰が、何を、信じても。
私は、自分が、何をしたか、知っているから。
その夜、馬車の中で、私は、しばらく、天井を、見ていた。
見ていただけで、何かを、考えていたわけではなかった。
頬の傷も、ドレスのシミも、薬草の手柄も、全部、私の中で、薄い水のように、混ざっていた。
涙は、出なかった。
十三の春に、もう、枯らしてしまったから、と、心のどこかで、誰かが、囁いた気がした。
それが、私自身の声だったのか、母様の声だったのかは、分からない。
「ヴィオラ」
声が、私を、呼んだ。
リオン様の声だった。
今、隣にいる、人ではない、銀色の。
「君は、人として、生きてもいい」
もう一度、彼は、それを、言った。
私は、目を、開けた。
開けて、リオン様の方を、見た。
深い青の瞳と、目が、合った。
私は、息を、吸った。
吸って、ゆっくり、吐いた。
それから、口を、開いた。
「いいえ」
短い言葉だった。
「いい、え?」
リオン様の声が、初めて、揺れた。
驚いた、というふうではない。
受け止めきれない、というふうだった。
「いいえ、リオン様」
私は、もう一度、言った。
「私、人として、ずいぶん、頑張ってきたつもりなんです」
「……」
「十三の春から、十六の春から、十八の春から」
「……」
「ですから、もう少しだけ、別の生き方を、してみてもいい、と」
「ヴィオラ」
「……いいですか」
リオン様は、何かを言いかけて、結局、言わなかった。
代わりに、彼の手が、私の右手を、取った。
ロケットを握っていない方の手。
彼の指が、私の指を、絡めて、握った。
握り方は、強すぎなかった。
ただ、離す気が、ない、という握り方だった。
私は、その手を、振り払わなかった。
振り払う発想は、もう、湧かなかった。
夜空の星が、いつもより、近い気がした。
近い、というより、私の方が、空に、半歩、踏み出した気がした。
同じ夜、王都の社交界。
侯爵夫人主催の、夜のサロン。
応接間に、扇の音が、流れていた。
焚き染めた香の匂いに、女たちの笑い声が、薄く混じっていた。
その部屋の中央に、アリエラ・アルテミシアは、座っていた。
今夜の彼女のドレスは、淡い緋色だった。
父の慰謝料の通告以来、公爵家は、目に見えて、財布の紐を絞っていた。
そのドレスは、ぎりぎり、新調できた一枚だった。
「ねえ、アリエラ様」
向かいのソファで、若い令嬢が、扇の陰から、声をかけた。
「お姉様の、お話、本当ですの?」
「お姉様?」
「精霊王様に、攫われたとか」
アリエラの扇が、ぴたり、と止まった。
止まってから、ゆっくり、開いた。
「あら、あれは、本当ですけれど」
声色は、軽かった。
軽すぎる、と、向かいの令嬢は、後で、振り返って、思うことになる。
「ですけれど、ね、皆さま」
アリエラは、扇を、ゆっくり、左右に、振った。
「精霊王様の、真の番は、本当のところは、私のはずですの」
応接間の、いくつかのカップが、止まった。
「えっ」
「何故、そう──」
「だって」
アリエラは、首を、ほんの少し、傾けた。
「私には、お姉様には、見えなかった、たくさんのものが、見えますもの」
「見える、と申しますと」
「ふふ。それは、内緒ですわ。でも、いずれ、神殿様が、お分かりになられると思いますの」
応接間の、笑い声が、何人か分、止まった。
止まったまま、しばらく、戻らなかった。
老侯爵夫人が、扇の陰で、ちらりと、隣の老夫人と、目を合わせた。
老夫人は、薄く、首を、横に振った。
──この娘、自分が何を口にしたか、分かっていない。
そう、夫人たちの目は、語っていた。
アリエラは、気づかなかった。
扇を、誇らしげに、もう一度、左右に振った。
振りながら、自分のカップに、口を、運んだ。
王都中央広場。
夜回りの兵士が、足を、止めた。
噴水の音が、しないのだった。
毎夜、この広場の前を通るたびに、低く、続いていた水音。
それが、今夜は、止まっていた。
兵士は、噴水の縁まで、歩いた。
ランプを、近づけた。
水盤には、薄く、水が、残っていた。
ただ、もう、吐き出されていない。
「……枯れた」
声が、自分でも、思ったより、低い。
兵士は、ランプを下ろした。
それから、空を、見上げた。
星は、いつもよりも、明るく見えた。
噴水の水音が、ない、せいだった。
王都郊外、王の畑。
朝の収穫を待つはずの麦の畝で、二人の農夫が、しゃがみ込んで、土を、つまんでいた。
「な、なあ、これ、何かおかしくねえか」
「ああ」
「先週まで、こんな乾き方、してなかったよな」
土は、指の間を、ぱさぱさと、こぼれた。
二人は、しばらく、何も言わなかった。
言わずに、空を、見上げた。
夜空の星は、いつもよりも、ずっと、よく、見える。
よく見える、ということは、空気が、乾いている、ということだった。
「明日、御役人様に、ご報告だな」
「ああ」
二人は、土を、もう一度、つまんだ。
つまんで、何かを、確かめるように、握り直した。
握っても、土は、握り返してこない。
それは、彼らが、長く、農夫として、覚えのない感覚だった。




