第四話 古代条約と肩に置かれた手
「『精霊王の番認定後、人間社会の血縁・婚約は無効となる』──リオン様が示した古代条約の文面は、私が知るどの法典よりも厳格だった」
朝の霧は、昨日より薄かった。
結界の境界に、五人。
家令アシュレイ。
父の側近のひとり。
護衛が三人。
それに、教会から立会人として、神官がひとり。
昨夜リオン様が言っていた通りの面子だった。
私は、結界のこちら側に立っていた。
仔狐型の精霊が、私の足元で、いつもより硬くしっぽを巻いている。
警戒、というより、緊張、というふうだった。
リオン様は、私の半歩前にいた。
朝の光が、銀色の髪の輪郭を、淡くほどいている。
「お嬢様」
家令の声が、霧の向こうから届いた。
私は、返事をしなかった。
返事をしてはいけない、と思ったわけではない。
ただ、声が、出なかった。
「お嬢様、お元気そうで、何よりでございます」
家令は、頭を、低く下げた。
低さの分だけ、長く下げたまま、上げなかった。
家令アシュレイが、私を「お嬢様」と呼ぶのは、母様が亡くなる前から、ずっとだった。
「家令」
リオン様が、初めて、声を出した。
低く、感情の薄い声。
「主人の使いか」
「は──」
「用件を、述べよ」
「公爵様より、ヴィオラ様にお戻りいただきたく、参上いたしました」
家令の声は、訓練された声だった。
ただ、その訓練の下で、ほんの少し、震えている。
「公爵様、ご体調が、芳しくございません」
体調、という単語に、私の指先が、わずかに動いた。
動いた指を、リオン様の視線が、ちらりと拾った。
拾って、何も言わずに、戻した。
「家令」
「は」
「返答の前に、こちらを見てもらいたい」
リオン様は、軽く、長い指を上げた。
その指の間に、いつの間にか、一枚の羊皮紙があった。
昨日、食堂で見せられたのと、同じ紙。
端が焦げかけている、私には読めない文字の紙。
家令の側にいた立会人の神官が、息を呑んだ。
「……古代、条約」
「読めるか」
「ま、まことに、僭越ながら」
「読み上げよ」
神官は、紙を受け取った。
受け取る指が、白い。
「『精霊王の認める番に対し、人間社会の血縁および婚姻に関する一切の義務は、認定の瞬間より、無効とす』」
家令が、目を伏せた。
側近の男が、口元を引き締めた。
神官は続けた。
「『また、番たる者に対する過去の侮辱、ならびに、その尊厳を損なうあらゆる行為は、神殿を執行者として、損害賠償請求の対象とする』」
家令の顔から、血の気が、はっきりと退いた。
「『執行先は、神殿の精霊縁地域保護基金。賠償の額は──』」
神官の声が、そこで、一拍、止まった。
止まってから、もう一度、紙を見直した。
見直して、ようやく、続けた。
「『該当家門の年俸の、五年分とする』」
側近の男が、何かを言いかけて、やめた。
護衛の三人は、立ったまま、視線を伏せている。
家令だけが、頭を、地に届くほど、下げ続けていた。
「お、お嬢様」
家令の声が、ようやく、頭を伏せたまま、漏れた。
「お嬢様、私は、私たちは、こんなつもりでは」
「家令」
私は、思わず、声を出してしまった。
リオン様が、ちらりと、私の方を見た。
止めなかった。
「家令、頭を、上げてください」
「お嬢様」
「頭を、上げて」
家令は、ゆっくり、顔を上げた。
頬が、げっそりと痩せていた。
昨日今日で、ではない。
私が屋敷を出てからの、ひと月近くで、削れたのだった。
私は、そこで、口をつぐんだ。
何を言えばいいのか、すぐには分からなかった。
代わりに、家令が、続けた。
「お嬢様。──ひとつ、ご報告がございます」
家令の声は、独白のように、低かった。
「先日来、神殿様の調査が、屋敷の財産記録にも、入りました」
「……はい」
「その過程で、判明したことが、ございます」
家令は、目を、わずかに伏せた。
伏せて、私の足元を見るようにして、言った。
「メリナ様が──奥様が、長らくの間、亡き先妻様、ヴィオラ様のお母君のお品を──」
息を、吸い直した。
「──売却なさり、ご自身のご実家の借金の返済に、充てておられた、と」
霧が、一瞬、止まった気がした。
止まったのは、私の呼吸の方だったのかもしれない。
「……母様の」
「ドレス、宝飾、書物、刺繍、そのほか諸々」
家令は、続けた。
「申し訳ございませぬ。私が、もっと、早くに気づいておれば」
家令は、もう一度、頭を伏せた。
伏せてから、上げなかった。
私は、そのまま、しばらく、立っていた。
母様のドレスは、私が十二の年に、屋敷の整理だ、と言われて、納戸に運ばれていったのを覚えている。
あの時、継母メリナは、丁寧に、丁寧に、それを言った。
ヴィオラさんも、もう少し大きくなったら、お母様のお品を、お選びになってね、と。
私は、それを信じた。
信じて、待った。
十二から、十九まで、待った。
待っている間に、ドレスは、どこか知らない場所で、誰かのものになっていたのだった。
「──」
私は、何も言わなかった。
何かを言うと、私が、私でいられなくなる気がした。
代わりに、リオン様の手のひらが、私の左の肩に、置かれた。
軽く、置かれた。
重さは、ほとんどない。
熱だけが、布越しに、伝わってきた。
私は、その手を、振り払わなかった。
振り払う発想すら、湧かなかった。
「家令」
リオン様の声は、私の頭の上から落ちた。
「報告、確かに受け取った」
「は──」
「公爵に伝えよ。賠償は、神殿経由で、定められた通りに納めよ」
「は」
「奥方は──」
そこで、リオン様の声が、ほんの僅かだけ、低くなった。
「奥方の件は、神殿が改めて呼び出すだろう。逃げるな」
「……承知、いたしました」
家令は、頭を伏せたまま、後ずさりに数歩、退いた。
側近の男も、神官も、それに続いた。
護衛たちは、最後まで、私の方を見なかった。
見られなかった、というほうが正しい。
霧の向こうに、彼らの背中が、消えた。
私の肩から、リオン様の手は、まだ、離れない。
「君が、情を残しても、構わない」
低い声だった。
「ただ、戻る必要は、ない」
私は、頷くこともできなかった。
ただ、肩に置かれた手の熱だけを、感じていた。
足元の仔狐が、一度、ゆっくりとしっぽを巻き直した。
王都、公爵邸。
公爵アルテミシアは、執務机の上に置かれた一通の書面を、何度か読み直していた。
二度目までは、目で追った。
三度目は、声に出さずに、唇だけが動いた。
四度目は、もう、紙の文字を見ていない。
神殿の封蝋が、机の縁で、わずかに割れていた。
急いで開けたから、割ったのだった。
「五年分」
声が、掠れた。
「五年分とは、何の冗談だ」
「あなた」
部屋の隅で、メリナが、扇を握りしめていた。
扇の骨が、握る力で、軋んでいる。
「あなた、まさか、本当に、払う、おつもりですか」
「払わぬ選択肢が、どこにある」
「神殿に、抗議を」
「神殿は、執行者だ。メリナ」
公爵は、ようやく、顔を上げた。
「神殿の執行命令に逆らえる権限は、王にもない」
メリナの唇が、震えた。
公爵の目が、もう一通の書類に、ゆっくり移った。
そちらの封蝋は、神殿のものではなかった。
公爵家の、財産監査の、内部記録だった。
「メリナ」
「は、はい」
「先妻の、セシリアの遺品の、目録、ここにある」
「あ」
「それと、過去七年の、家計簿の、出金記録」
メリナの顔から、扇の影の中で、色が抜けた。
公爵は、書類の一行を、指でなぞった。
もう一度、なぞる。
それから、メリナの方を、見ずに、言った。
「これは、お前の実家の、借金の、額と、ぴったり一致する」
メリナは、何も、言わなかった。
言えなかった、と言うほうが、正確だった。
公爵は、椅子の背に、もたれた。
もたれてから、長く、息を吐いた。
吐いた息は、執務机の上の蝋燭の炎を、ほんの一度だけ、揺らした。
宮殿の図書室。
私は、書架の間の、低い椅子に、座っていた。
仔狐は、いつもの通り、私の足元で、丸まっている。
今日は、いつもより、しっぽが、ゆっくり動いていた。
私を、慰めようとしているのかもしれない。
リオン様は、向かいの椅子に、座っていた。
座って、何も言わなかった。
ただ、卓の上の、冷めかけた茶を、ゆっくり、口に運んでいる。
私は、自分のカップを、見ていた。
湯気は、もう、立っていない。
母様のドレスが、どこの誰の手に渡ったのか、私は知らない。
継母メリナの実家の、借金の額が、どれくらいなのかも、知らない。
私が知っていることは、私の知らない場所で、母様の名残が、お金に変わっていた、ということだけだった。
「ヴィオラ」
リオン様が、ようやく、口を開いた。
私を、見ていた。
「飲んだほうがいい」
「……はい」
私はカップを、両手で、持ち上げた。
冷めた茶は、温度がない分だけ、苦みが、少し、強く感じられる。
強くなどない、と思い直す。
苦み、は、私が、勝手に、足したのだった。
「リオン様」
「ああ」
「あの、壁画」
私は、書架の奥の壁を、目で示した。
書架と書架の間の、煤で薄汚れた壁。
そこに、一枚だけ、古い壁画が、はめ込まれていた。
大半は煤と埃で、輪郭しか分からない。
それでも、見える部分だけ、私の目を、捕まえた。
銀色の髪の、男。
そのそばに、立つ、女。
女の瞳は、深い青で、描かれていた。
今朝、リオン様の手が置かれた、私の左肩よりも、ずっと、ずっと、深い、青。
私は、母様のロケットを、寝着の襟元から、思わず、軽く、押さえた。
押さえてから、慌てて、手を下ろす。
リオン様の視線が、その仕草を、また、拾った。
「あれは」
私は、聞いた。
聞かない方がよかったかもしれない、と一瞬、思った。
リオン様は、答えなかった。
茶のカップを、ゆっくり置いた。
置いてから、私を見ずに、壁画を見た。
「……夜に、話そう」
それだけ、言った。
「夜に」
「ああ」
「テラスで、君が、起きていられるなら」
私は、頷いた。
頷いて、自分の冷めたカップに、視線を、戻した。
仔狐が、私の靴の上に、もう一度、頭を乗せた。
今度は、しっぽは、動かない。
ただ、長く、息を吐いた。
夜が、来るまでに、少し、時間があった。
その時間の中で、私は、母様のロケットを、寝着の上から、何度か、握り直した。
握るたびに、深い青の宝石は、いつも通り、冷たくも、ぬるくもなかった。
ただ、握る私の指の方が、少しだけ、熱を、持ち始めていた。




