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もう、人間界には戻りません  作者: 九葉(くずは)


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第三話 もふもふは万能薬

もふもふは万能薬だ、と私はこの一週間で、精霊たちに溺愛されながら確信していた。


朝、宮殿の薬草園に出る。

霧はまだ少し残っていて、足元の石畳が、湿って黒い。

私は手にしたバスケットを軽く揺すって、土の匂いを吸った。


公爵邸の薬草園とは、土の匂いが違う。

公爵邸の方は、肥料の匂いと、剪定した枝の青い匂いが混ざっていた。

ここは、もっと、苔と、雨と、それから少し、花の蜜のような匂いがする。


「おひめさま、おひめさま」


すぐ足元で、声がした。

声というより、空気が、私のためだけに揺れた。


仔狐型の精霊が、ぴったり私の足の脇に寄り添っている。

今朝の毛並みは、いつもより少し銀色が薄かった。

昨日の雨で、洗ったみたいになったのかもしれない。


「おはよう」


私は屈んで、首の後ろを軽く撫でた。

仔狐は満足げに目を細めて、ふん、と鼻を鳴らす。

その仕草は、犬とも猫とも違って、どちらでもない。


頭の上で、ふわっ、と軽い気配があった。

振り仰ぐと、青い蝶型の精霊が、私のリボンの上に止まっている。

止まったというより、座った、という風情で、羽をきちんと畳んでいた。


「おひめさま、おはなが」


蝶が、薬草園の奥を指す。

指す、と言っても、足はないので、羽の先で示すような動きだ。

そちらに、青いリンドウが、また一株、夜の間に増えていた。


──また、増えている。


この一週間で、宮殿の中庭にも、廊下の窓辺にも、薬草園の隅にも、青いリンドウが、勝手に咲いた。

誰かが植えたわけではない。

リオン様も、何も言わなかった。

ただ、咲くのだった。


私は、その株のそばにしゃがみ込んだ。

花弁を、指の腹でそっと触れる。

冷たくなくて、ぬるくなくて、ちょうどいい温度。

触れていると、なぜか、胸の奥が、すこし、痛い。


「おひめさま」


仔狐が、私の膝に頭を乗せた。


「おひめさま、ですか」


私は、思わず聞き返してしまった。

仔狐は、不思議そうに、私を見上げる。


「あるじさまの、おひめさまだ。だから、おひめさまだ」


それは、論理ではなかった。

ただの呼び方だった。

私は、頷くしかなかった。


──そう。

精霊王様の、番、ということになっている。

だから、精霊たちは、私を「おひめさま」と呼ぶのだろう。

そういうものなのだろう。


そう思おうとして、思いきれないのは、私の癖だった。


頬が、自分でも分かるくらい、熱くなる。


慌てて、もう一度、青いリンドウの花弁に視線を戻す。

そうしないと、不意に、十六歳の春のことを、思い出しそうだったから。



十六の社交界デビューの夜、私はホールの真ん中で、シャンパンの泡を、ドレスの胸元に零した。

正確には、零したのではない。

アリエラが、人混みの中で、私の腕にぶつかってきた。

ぶつかった瞬間に、彼女は私の手のグラスを、わざと、私の方へ押した。


ドレスは、母様の形見の生地で仕立て直した一枚だった。


シミは、すぐに、誰の目にも分かった。


「お姉様、本当にどうしてこんなに、不器用なの」


アリエラは目を潤ませて、皆に聞こえる声で、言った。

私の不器用さを心配してみせる声だった。

父も、継母も、王太子殿下も、そこにいた。

誰も、私をかばわなかった。


私は、笑った。

笑うしかなかった。

笑って、ドレスのシミを、扇で隠した。


帰り道、馬車の中で、シミに鼻を寄せた。

母様の生地の匂いは、シャンパンの匂いに、もう負けていた。


その夜から、私は、自分の不器用さを、信じることにしたのだと思う。



「ヴィオラ」


頭の上から、声が降ってきた。

振り仰ぐと、リオン様が、薬草園の入口に立っていた。

朝の光が、銀色の髪の輪郭を、ほどいている。


私は立ち上がった。

立ち上がるのが、少し、遅れた。

膝の仔狐が、ふん、と抗議の鳴き声をあげる。


「おはよう、ございます」

「ああ」


リオン様は、私のそばに来て、何も言わずに手を伸ばした。

私の髪の、ほつれた一房を、長い指でそっと拾い上げる。


「あるじさま、おひめさまの、かみ」


仔狐が、足元から見上げて、何かを訴えた。

リオン様は、仔狐を見て、軽く頷く。


「分かっている」


それから、彼の指が、私の髪を、根元から毛先へ、ゆっくり梳いた。


櫛は、なかった。

ただ、長い指だけ。

不思議と、絡まりが、解けていく。


「あの」

「動くな」


短い指示だった。

私は動かなかった。


朝の薬草園で、髪を梳かれている、という状況が、まだ私の中で、現実の手触りを持たない。

公爵邸でも、シェリル以外に髪を触らせたことはなかった。


リオン様の指は、頭皮には触れなかった。

ただ、髪だけを、丁寧に整えていく。


「結っていなかったから、寝ぐせがついていた」

「あ──」


慌てて手で押さえようとしたら、手首を、軽く取られた。


「俺がやる」


それきりだった。

私は、手を下ろした。


仔狐が、私の足元で、満足げに目を閉じた。

蝶が、私のリボンの上から、ぱたぱたと羽を動かす。

それが、何かの拍子のようにも思えた。


「あの、リオン様」

「何だ」

「私、自分でも、できますので」


声が、勝手に、小さくなった。


「そうか」

「はい」

「だが、俺がやりたい」


それで、終わりだった。


私は、何か言い返そうとして、言葉を見つけられず、結局、目を伏せた。

青いリンドウの花弁が、足元で、ほんの少し揺れる。

風のせいだろう。


胸の奥が、また、薄く痛かった。

痛い、というより、慣れない、という方が、近い。




同じ頃、公爵邸の薬草園。


「これ、本当に、何もしなくていいの?」


アリエラは庭師に、扇の先を向けて尋ねた。

庭師は、汗を拭きながら、頭を下げる。


「お嬢様、ヴィオラお嬢様の薬草園は、特別な作り方をされておりまして」

「ヴィオラお姉様の作り方なんて、私だって知っているわ」


アリエラの声には、苛立ちが混じっていた。

庭師は、聞こえなかったふりをした。


薬草園の畝には、新しく植えたばかりの苗が、十株ほど並んでいる。

昨日の朝、アリエラが「私が管理するわ」と宣言して、わざわざ温室から運ばせた良い苗だった。


そのうちの三株が、もう、葉先を黄色くしていた。


「水は、ちゃんとあげているの?」

「はい、お嬢様」

「日当たりは?」

「変わっておりません。ヴィオラお嬢様の頃と、同じです」


庭師は、小さな声で、付け足した。


「ヴィオラお嬢様の頃は、こんなことは、一度も──」


「それ以上、言わないで」


アリエラの扇が、ぴしゃりと閉じた。


庭師は、頭を下げた。

下げたまま、しばらく、上げなかった。


アリエラの足音が、屋敷の方へ、硬く戻っていく。

庭師は、ようやく顔を上げて、黄色くなった葉先を、指でつまんだ。


葉は、ぱさり、と乾いた音を立てて、すぐに崩れた。


──おかしい。

たった一日で、こんな風になる薬草を、彼は、知らなかった。




王都中央広場。


朝市は、いつものように立っていたが、いつもとは少し違っていた。

噴水のそばに、人だかりができている。


「下がってる、下がってる、ねえこれ」

「気のせいじゃないのかい」

「気のせいじゃないわよ、見て、ここ」


肉屋の女房が、噴水の縁の石を指していた。

石には、長年の水しぶきで、淡い緑の苔がついている。

いつもなら、その苔の高い場所まで、水が跳ねていた。

今朝は、その線より、指二本分、下まで、苔が乾いていた。


「井戸も、昨日より低くなってる、って」

「うちの井戸も?」

「うちもよ」


噂は、市の端から端まで、走り出していた。


老いた花売りが、ふと、空を見上げた。


「精霊様が、お怒りなのかねえ」


誰も、笑わなかった。

老婆の独り言は、その朝、何度も、いろんな所で繰り返された。




宮殿の図書室。


夕方、リオン様が私を呼んだ。


書架と書架の間に、低い卓と椅子が置かれていた。

卓の上には、地図が広げてある。

地図の縁の方は、私には読めない文字だった。

中央の方だけ、私の知っている王国の地名が、いくつか書かれている。


「君の国の中央広場で、噴水の水量が下がっている」


リオン様は、地図の一点を、指で示した。


「下がっている、というほどでもない。ほんの少しだ」

「……精霊様の、加護と、関係が」

「ある」


短い答えだった。

それから、彼は、私の方を見ずに、言った。


「俺が君を連れて来た時、強い力を使った。その余波だ」


「余波、ですか」

「うん。すぐには戻らないだろう」


私は、地図を見た。

地図の上の点は、私が知っている、馬車で半日の場所にある広場だった。

水汲みの女房が、毎朝、桶を担いでくる場所。


──私のせいで。


そう、思いそうになった。

思って、すぐに、思い直す。

私のせい、ではない。

私を、連れ去った力の、余波だ。

私自身が、何かをしたわけではない。


──でも、私を連れ去る理由が、私だ。


そこまで考えて、私は、手のひらを軽く握った。


「あの、リオン様」

「ああ」

「もし、私が、戻ったら」

「戻らない」


被せるように、彼は言った。

強い声ではなかった。

ただ、揺るがない、という声だった。


「明日、君の家から、また、人が来る」


彼は地図を畳みながら、続けた。


「家令ではない。家令の主人の方だ」


家令の、主人。

父か、継母メリナか、あるいは、その代理人。


「会わなくていい。俺が、対応する」

「あの──」

「君は、何もしなくていい」


リオン様は、地図を、書架の上にしまった。


しまってから、こちらを向いて、言葉を足した。


「君が、情を残しても、構わない。だが、頭を下げる必要はない」


私は、頷くしかなかった。

頷いて、視線を、卓の縁に落とした。


卓の縁には、薄く、削れた跡があった。

この椅子に、何度か誰かが座って、肘を置いた跡だろう。

私の前に、誰かがここに座ったのだと思うと、不思議と、息が、楽になる。


仔狐が、いつの間にか、私の足元に来ていた。


「おひめさま、あした、いるか」

「……うん」

「あした、いっしょに、いる」


仔狐は、それだけ言って、私の靴の上に、頭を乗せた。


明日、家令の主人が来る。

明日、私は、何もしないで、ここに座っている。


それが、私の、新しい仕事のようだった。

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