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もう、人間界には戻りません  作者: 九葉(くずは)


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第二話 青いリンドウの宮殿

目覚めた時、私はまだ自分が公衆の面前で笑い者にされた令嬢のままだと思っていた。


天井が、白い。


公爵邸の私室の天井は、淡い灰色だった。

だから、ここは公爵邸ではないのだと、最初の数秒で分かる。


身体を起こす。

シーツが、知らない素材だった。

絹より軽くて、麻より滑らかで、触れた指先がほんの少しだけ涼しい。

洗濯したばかりの匂いがしたが、見たことのない匂いでもある。


部屋の中は、暗くも明るくもない。

窓の向こうで、霧が動いていた。

木の影と、石の壁。

それから、銀色の屋根。


──宮殿。


昨夜の記憶が、薄い水のように戻ってきた。


王宮夜会。

宰相補佐の声。

アリエラの掌に置いた指輪。

天井が割れて、月が降りてきたこと。

腰に回された男の手のひら。

「ようやく、迎えに来られた」という、低い声。


それから、女の声。

あれは──。


胸元に、固い感触があった。

首から下げたロケットが、寝間着の襟元から覗いている。

七歳の冬から肌身離さず持っている、母様の形見。

銀の鎖と、深い青の宝石。


私は片手で握った。

ロケットの石は、いつもより冷たい気もしたし、いつも通りな気もする。


寝台の脇に、誰かが水差しを置いてくれていた。


そばに立ったのは、人ではなかった。


仔狐だった。

仔狐の形をした、何か。

銀色の、輪郭が淡くにじんでいる、毛の塊。

それが、私の方を見上げて、目を瞬いた。


「……おはよう」


声をかけてしまってから、何を言っているのだろうと思う。


仔狐は短く、ふぃ、と鳴いた。

鳴いたというより、空気が震えた、という方が近い。

それから、寝台の縁にちょこんと前足を乗せて、私の手の甲を、自分の鼻先で押した。


押した、というより、誘った。


私は寝台を降りた。


足の裏に、見たことのない織りの絨毯。

柔らかい。

柔らかすぎて、少し、落ち着かない。

公爵邸の絨毯は、もっと、踏み慣れて毛羽立ったところがあった。


仔狐は廊下へ歩く。

私は、追う。


廊下の左側はずっと窓だった。

窓の外には、宮殿の中庭が広がっている。


──青い。


青いリンドウが、咲いていた。


中庭の半分を埋めるほど、咲いている。

花壇に植えられているというより、地面から自然にそう咲いているようにも見えた。

霧の中で、花だけが先に輪郭を持っていて、こちらの目を捕まえてくる。


私は足を止めた。


胸の奥が、薄く、ざわついた。


その花を、子供の頃に、好きだと言ったことがある。

七歳の春、薬草園の隅にひと株だけ咲いていた。

誰にも言わずに、声に出して、好きだと、一度だけ呟いた。


母様が亡くなった年だった。

寂しかったのだと思う。

だから、覚えている。


──偶然だろう。

精霊王様という方の、好きな花なのかもしれない。


私はそう思うことにした。

そう思わなければ、足が動きそうになかった。


仔狐が、私の裾を、ふん、と引いた。


行かなければ、と思う。


廊下の先に、扉があった。



扉を抜けると、食堂だった。


部屋の中央に、長い卓。

端ではなく、中央に近い席に、彼が座っていた。


銀色の髪。

昨夜の月の色。

肩から流れる、それが髪なのか光の名残なのか、まだ判断がつかない。


「来たか」


低い声だった。

昨夜の声と、同じ声。

人の輪郭をしているのに、人の温度ではない、と感じる。


「おはよう、ございます」


私は、できるだけ普通に、令嬢の挨拶をした。

公爵邸で何百回もやったやり方で、膝を軽く折る。

ドレスではない、ゆったりした寝着のままだったから、形は綺麗ではなかった。


彼は、それを止めた。


「いい。座ってくれ」


卓を、軽く指先で示す。

彼の正面ではなく、彼の左隣の席だった。

公爵邸では、客にも家族にも使わない位置。

夫婦の席、と呼ばれる位置だった。


私は、一拍、迷った。

迷ったが、座った。


仔狐が、卓の下で私の足元に丸まる。


朝食が、すでに並んでいた。


焼きたてのパン。

湯気の出ているスープ。

それから、小さなガラスの瓶。

中身は、青いジャムだった。


「──」


声が、出ない。


ジャムの瓶のラベルは、文字が掠れていた。

誰かが何度も指でなぞった跡だ。

中庭の青と、同じ色のジャム。


「青いリンドウのジャムだ」


彼が言う。

私の方を見ずに、自分のカップに茶を注ぎながら、続けた。


「君の好物のはずだ」


七歳の春の呟きを、知っているはずがない。

父も知らない。

継母も、アリエラも、リネアも、シェリルも、知らない。


私は、ロケットを、寝着の上から軽く押さえた。


彼の視線が、その動きで、私に戻った。


──目が、合った。


それで、気づいた。


彼の瞳は、深い青だった。

私が、今、握っているロケットの宝石と、同じ色。


色なんて、似たようなものはいくらでもある。

そう思った。

そう思わないと、朝食に手をつけられそうになかった。


彼の表情は、変わらない。

ただ、視線がほんの少しだけ、ロケットの方に落ちた気がした。

それから、戻った。


「食べてくれ」


それだけ、言った。


「あなた様は、どうして」

「何だ」

「私の、好物を」

「知っている」


説明はなかった。


私は、パンを千切った。

スープに浸そうとして、やめた。

代わりに、ジャムを少しだけ、ナイフでパンに乗せる。


口に運ぶ。


甘かった。

甘くて、すこし、苦い。

リンドウの花は本来、苦い。

苦みを残したまま、砂糖で甘くしてあった。

私が好きな、その作り方だった。


「美味しい、です」


声が、勝手に掠れた。


「そうか」


彼は、それだけ言った。


それから、ちらりと、私の方を見て、続けた。


「俺の番に、好物以外のものを食わせる気はない」


言い切ってから、自分のカップを口に運んだ。


「……は、い」


返事になっていなかった。

それでよかった。


仔狐が、足元で、ふん、と鼻を鳴らした。

笑った、ように聞こえたのは、私の気のせいだろう。



「番、というのは」


私はパンを置いて、尋ねた。

聞かなければ、進めない気がした。


「古代条約上の、用語ですか」


彼の指が、カップの縁を一度、なぞる。


「条約には、確かにそう書いてある」


「では──」


「だが、君に渡したいのは、条約の話ではない」


そこで、彼は、初めて私の方をまっすぐ見た。


「俺は千年、君を待っていた」


千年。


昨夜、女の声が残していった、最後の言葉だった。


私は、その言葉を、もう一度、舌の上で転がした。

転がして、飲み込めなくて、結局、口の中に置いたままにする。


「……人違い、では」

「ない」

「私は、ただの、断罪された公爵令嬢で」

「君は、君だ」


それで終わりだった。

彼はもう、その話を続ける気がないようだった。

代わりに、テーブルの端に置いてあった一枚の紙を、私の方に滑らせた。


古い羊皮紙だった。

端が焦げかけている。

書かれていたのは、私の知らない文字だった。


「読めない、です」


「読まなくていい」


彼の指が、紙の上の一行を示した。


「ここに、人間社会の婚約・血縁的義務は、精霊王の番認定をもって無効となる、と書いてある」


「……無効」


「君は、もう、誰の婚約者でもない。誰の娘としての義務も負わない」


私は、その文字を、読めもしないのに、目で追った。


家から、離れる。

婚約から、離れる。

そういうことが、紙の上で、するりと済む世界があるのだと、初めて知った。


公爵邸では、私は何度も、誰かに頭を下げてきた。

父に、継母に、アリエラに、王太子殿下に、社交界に、神官に。

頭を下げて、譲って、譲って、それでも足りなかった。


それが、紙の上で、するりと済む。


笑いそうになって、私は、口の端を引いた。

笑ってはいけない場面だと思う。

でも、止まらない。


「失礼、しました」


口元を、手の甲で隠す。


「いい」


彼は、咎めなかった。

むしろ、ほんの少しだけ、卓の下で何かが緩んだ気配がした。

仔狐が、彼の足元の方を見上げて、また、ふん、と鳴いた。



外で、何かが、ぱきん、と鳴った。


「──」


私は窓の方を見た。

中庭の向こうで、霧が、一瞬だけ縦に裂けた。

裂けて、すぐに閉じた。


「侵入者だ」


彼は立ち上がりもしなかった。

カップを置いて、長い指を、卓の上で軽く組んだ。


「結界の外で、君の家の使いが、何人か」

「……家の」

「公爵家の家令と、護衛が三人。父君の側近が一人。それと、教会から立会人が一人」


数を、彼は数えていた。

私の方は数えていない。

家令、という言葉で、私の指先が冷えた。

家令は、私が幼い頃から仕えてくれている人。

継母にではなく、父にでもなく、亡くなった母様に仕えていた人だった。


「どう、なるのですか」

「結界に弾かれて、しばらくしたら帰る」

「帰る、って」

「弾かれた者は、傷つけない。ただ、入れない。それだけだ」


それだけ、と彼は言った。

それだけ、で済む結界が、私の知っている世界の外側にはあるのだ。


「あの、家令は」

「君に、何か」

「悪い人では、ありません。母様が」

「そうか」


彼の指が、卓の上で、ほんの少しだけ動いた。


「ならば、より丁寧に、追い返そう」


声の硬さが、そこだけ、緩んだ。

丁寧に、と彼は言ったが、その丁寧さは、家令を喜ばせるものではない気がした。


「あの──」

「君は、戻らなくていい」

「はい、と言える、自信がないのです」

「言わなくていい。座っていてくれ」


彼は、それきりだった。


仔狐が、私の足首に、頭をこすりつけてきた。

柔らかかった。

柔らかすぎて、私は、今度は、目元が緩んだ。

緩んでから、慌てて、ジャムの瓶を見た。

ラベルの掠れた文字が、瓶の中で揺れていた。




森の境界、霧の縁。


公爵家家令アシュレイは、自分の馬が前に進まなくなった理由が、足元の地面ではないことに、最初は気づかなかった。


馬の蹄は、確かに地を踏んでいる。

だが、五歩進んだはずの場所が、五歩前と同じ景色だった。


「……何だ、これは」


側近が、隣で剣を抜こうとして、抜き損ねた。

抜けないのではない。

抜く意味が、急になくなったような顔だった。


立会人の神官が、ぽつりと言った。


「結界、です」

「結界?」

「精霊の。──しかも、王の」


家令は、答えなかった。

ただ、霧の奥を見た。

霧の奥に、銀色の屋根が、ちらりと見える。

見えたが、近づけない。


家令は、馬の首をなでた。

若いお嬢様、と心の中で呼びかけた。

口には、出さなかった。


代わりに、霧に向かって、頭を下げた。

低く、丁寧に、下げた。


それが、彼にできる、唯一のことだった。




同じ朝、王都中央広場。


水汲みに来ていた女房のひとりが、桶を引き上げる手を、ふと、止めた。


「──あら?」


いつもより、軽い気がした。

気のせい、と彼女は思い直した。

桶の縁を見れば、水位は、いつも通りに見える。

ほんの、髪の毛一本ぶんだけ、低い気もしたが、気のせいだろう。


隣の女房に話しかけようとして、やめた。

朝はみんな急いでいる。

こんな話、誰も聞いてくれない。


彼女は桶を担いで、家へ歩き出した。


広場の噴水は、いつものように、水を吐き出していた。

吐き出していたが、水音が、ほんの少しだけ、低い気がする。


それも、気のせいだったかもしれない。

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― 新着の感想 ―
何かの伏線かもわかりませんが、若いお嬢様、が意味不明でした。お嬢様だから若いだろう、年老いたお嬢様はないやろ、とつい心の中でツッコミがwww
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