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もう、人間界には戻りません  作者: 九葉(くずは)


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第一話 銀の救出

「公爵令嬢ヴィオラ・アルテミシア殿との婚約は、これにて破棄するものとする」


宰相補佐の事務的な声が、夜会の隅まで届いた。


私は柱の影に立っていた。

手にしたシャンパングラスは、あと二口分。


中央では、アリエラお義妹様が泣いている。

王太子アルベルト殿下は、その涙を白い手巾で拭うのに忙しかった。

だから宣告の言葉は、殿下の口からではなく、宰相補佐の手元の通達書から読み上げられている。


貴族たちが、ちらり、ちらりと私の方を振り向く。

皆、私が泣くと思っているのだろう。

あるいは、何か叫ぶと、思っているのかもしれない。


シャンパンの泡が、グラスの内側で消えていく。


思い出すのは、十三の春。


あの日、私は父にアリエラの何かを伝えようとしていた。

何だったかは、もう思い出せない。

言い終える前に、頬を打たれた。


「黙れ、ヴィオラ。お前の言葉は、家を狭くするだけだ」


頬の音は、六年経っても忘れない。

でも、痛みは、もう思い出せない。

涙はその春に、枯れたのだと思う。


「──以上をもって、両家の婚約は解消とする」


宰相補佐が紙を畳む音がした。


私はグラスを近くの卓に置く。

誰も座っていない椅子の縁が、ドレスの裾を引っかける。

そっと外して、私は中央へ歩いた。


ろうそくの蝋が、片方の燭台で長く垂れていた。

誰かが取り替えるのを忘れたままなのだろう。


アリエラの前まで歩く。

王太子殿下は、私を見ない。

アリエラだけが顔を上げて、泣き腫らしたはずの目で私を見上げた。


「お幸せに」


声は、思ったより掠れていた。


私は左の薬指から指輪を抜く。

銀の地金に、深い青の宝石。王太子殿下の祖母から受け継がれた、王家の品。

婚約の日に、震える手で受け取ったのを覚えている。

あの頃は、まだ少し、嬉しかった気もする。


アリエラの白い掌の上に、その指輪を、そっと、置いた。

言葉は添えなかった。


アリエラの口が、半分だけ開いた。

返事はなかった。

彼女の指が、指輪を握り込もうとして、握り損ねる。

青い宝石が、灯りを跳ね返して、私の目の端を一瞬だけ刺した。


王太子殿下が、ようやく、私を見た。

何かを言いかけて、口を閉じる。

手巾の端が、力を入れすぎたせいか、皺になっていた。


私は踵を返す。

ドレスの裾が、磨かれた大理石を擦った。


誰かの咳払い。

誰かの、息を呑む音。

そのどちらも、私の歩幅は変えない。


父の視線を背中に感じた気がしたが、振り向かなかった。

もう、振り向く必要のない人だった。


ホールの中央まで戻った、その時だった。


頭上で、何かが砕ける音がした。


シャンデリアの黄色い光が、急に色を変える。

ろうそくでも、油でもない。


銀。


天井が、なかった。


満月が、すぐそこにあった。


「ようやく、迎えに来られた」


低い声が、私の真後ろで落ちた。


振り向く前に、腰に腕が回された。

硬い、熱い、男の手のひら。

私の身体が一段、軽く引き寄せられる。


「私の番」


ようやく、というその言葉には、私が知らないはずの長い時間が乗っていた。

六年でも、十年でもない。

もっと、ずっと。


貴族たちは石になっている。

王太子殿下は、手巾を持ったまま、立ち尽くしていた。

アリエラは指輪を握り込んだまま、こちらを見上げていた。

父の顔は、見えなかった。

継母メリナの顔も、視界の端に入らない。


私は、その光景を、誰かが描いた絵のように眺めた。


腰の腕が、私を引き寄せる。

銀の光が、ホールの輪郭を溶かしていく。

誰かの靴音が、遠くなる。

扇の音も、ガラスの音も、消えていく。


意識が、薄くなった。


最後に聞こえたのは、女性の声だった。


「──もう、戻らなくていいのよ」


知っている声、と思った。

誰の声かは、すぐには分からない。


「お母さまは、あなたを千年待った人のもとへ、送りたかったの」


千年。


その言葉だけが、最後まで残った。


私の意識は、銀の中に閉じた。

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― 新着の感想 ―
「家を狭くする」で分かりました(^_^;)
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