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もう、人間界には戻りません  作者: 九葉(くずは)


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第十話 婚礼、もふもふの家族

私は今日、人間では、なくなる。


そう思ったのは、寝台の縁に座って、シェリルに、髪を結ってもらっている、その朝の最中だった。


「お嬢様」


シェリルが、櫛を、止めた。


「失礼ながら、髪、ほんの少しだけ、伸びましたね」

「そう?」

「公爵邸を、お出になられた頃よりも、ひと指、ふた指は」


シェリルの手は、震えていなかった。

震えていなかったが、声は、ところどころで、湿っていた。


シェリルは、十二の頃から、私に仕えてくれている、平民出身の侍女だった。

継母メリナにではなく、父にでもなく、ただ私に、仕えてくれていた。

神事の三日後、彼女は森の境界まで、リネアと一緒に、自分の足で、歩いてきた。

公爵邸を辞めた、と言って。


その日の話は、誰も、まだ、よく整理できていない。

ただ、彼女は、今、ここの宮殿で、私の朝の支度を、している。

それだけが、本当のことだった。


「お嬢様」

「……はい」

「今日が、最後の、お嬢様、にございます」

「シェリル」

「明日からは、奥様、と呼ばせていただきますね」


その言葉を、シェリルは、少し、急いで、口にした。

急いで言わないと、声が、形に、ならなかったのかもしれない。


私は、頷いた。

頷いてから、ロケットを、寝着の襟元の下から、外に出した。


母様の形見の、深い青の宝石。


シェリルは、それを、見て、ほんの少しだけ、目を、閉じた。


「奥様」


シェリルが、もう一度、呼んだ。


「明日まで、待ちきれませんね」


私は、何かを、言いそうになった。

言えなかった。

代わりに、シェリルの、櫛を持っている指の方の手を、軽く、握った。


シェリルの指は、私が記憶しているよりも、少しだけ、薄くなっていた。

公爵邸での、この半年は、彼女にも、長かったのだ。


「ありがとう」


私は、それしか、言えなかった。

シェリルは、首を、横に振った。


「奥様、こちらこそ」


それきり、彼女は、また、櫛を、動かし始めた。

今度は、最後まで、止めなかった。



森の祭壇に、私たちは、午後の、薄い陽の時間に、並んだ。


祭壇は、宮殿の北の、いちばん深い林の中にあった。

祭壇の周りに、青いリンドウが、散らばって、咲いていた。

誰かが並べたのではなかった。

ただ、咲いていた。


参列したのは、神官団から三人。

親友リネア。

侍女シェリル。

それから、もふもふ精霊たちが、たくさん。


公爵家からも、王家からも、誰も、来なかった。

来なかったが、私には、それで、十分だった。


リネアは、私を、抱きしめた。


「ヴィオラ。私、今日、泣くから」

「いいよ」

「あなたが泣かないなら、私が、代わりに泣くから」


リネアの、その言い方が、とても、リネアらしかった。

私は、笑った。

笑いそうな顔のまま、彼女に、額を、軽く、押し付けた。


リネアは、私のドレスを、確かめるように、両手で、軽く、撫でた。

ドレスは、白い、麻の生地だった。

シェリルが、半月かけて、縫ってくれたものだった。

派手な装飾は、ひとつも、なかった。

裾の縁に、青いリンドウの、小さな刺繍が、ぽつぽつと、あるだけ。


リオンが、祭壇の前に、立っていた。


銀色の髪を、いつもよりも、軽く、後ろで、まとめていた。

それだけで、人ではない、というよりは、人に半歩だけ、近づいた、という雰囲気が、出ていた。

私は、その雰囲気が、不思議と、好きだった。


「ヴィオラ」


リオンが、私を、呼んだ。


私は、リネアの腕から、離れて、祭壇の前に、進んだ。


リオンは、私の両手を、両手で、取った。


──その時だった。


祭壇の脇の、青いリンドウの茂みから、ふわり、と、銀色の影が、出てきた。


仔狐型の、古株の、もふもふ精霊。


五日前、神事の前夜から、姿を消していた、私の枕元の住人。


彼は、何か、丸い、光るものを、その小さな背に、乗せていた。


──祝福石。


神殿の祭壇の上に、いつもあったはずの、神器。

それが、仔狐の背に、乗って、ここまで、来ていた。


「あ──」


私は、息を、呑んだ。


仔狐は、ぽてぽてと、私たちの足元まで、歩いてきて、しっぽで、軽く、私のドレスの裾を、叩いた。

それから、リオンの足元に、頭を、下げた。


リオンが、長い指で、仔狐の頭を、軽く、撫でた。


「行ってきたか」

「いってきた」


仔狐の声は、いつも通り、空気の震えのような声だった。


「あるじさま、これ、わたした」

「ありがとう」


神官のひとりが、進み出て、仔狐の背から、祝福石を、両手で、受け取った。

受け取ってから、頭を、下げた。


「ヴィオラ嬢、リオン様」


神官の声は、低かった。

低かったが、感情の名前を、隠していなかった。


「精霊王様の番のご婚礼には、千年来、祝福石の臨席が、必要にございます」


神官は、続けた。


「神事のあと、神殿は、祝福石を、ご婚礼の場に、お運びすることに、相成りました。ですが、神殿から森までの道のりを、人の手で、運ぶには、距離が、ありすぎる」


そこで、神官は、足元の仔狐の方に、軽く、目を、向けた。


「精霊王様の眷属より、お申し出が、ございました。五日前のことにございます」


──五日前。


私が、神殿に行く、と決めた、あの夜。

ろうそくの灯りの下で、リオンが、薬草茶を、淹れてくれた、あの夜。


仔狐は、その夜、テラスの隅で、夜の闇の方を、何度も、見ていた。

私は、その時は、気づかなかった。


「奥様」


仔狐は、私の方を、見上げた。


「いっしょに、いるって、やくそく、した」


「したね」


「あした、いっしょに、いる、って、いった」


「うん」


「ちゃんと、まもった」


私は、屈んで、仔狐の頭に、両手を、軽く、置いた。

仔狐は、目を、細めた。


「ありがとう」


その「ありがとう」は、私が、生まれて、いちばん、深く、口にした「ありがとう」だった。


リオンが、私の隣で、ふっ、と、息を、抜いた。

笑った、というほどではない。

ただ、彼の肩の力が、ほんの少しだけ、抜けたのが、私には、分かった。



神官が、祝福石を、祭壇の中央に、置いた。


私とリオンは、祭壇の前に、向き合った。

古代の誓約の言葉を、リオンが、私には、まだ読めない言葉で、唱えた。

神官が、それを、私の知っている言葉に、置き換えてくれた。


「精霊王シルヴァースは、ヴィオラ・アルテミシアを、永遠の番として、迎える」

「番は、人ではなく、精霊王の眷属となる」

「番は、精霊王の宮殿に住み、精霊王の力の半分を、共に持つ」

「精霊王は、番の意思を、何があっても、上書きしない」


その最後の一文を、神官が、読み終えた時、リオンが、私の手を、軽く、握り直した。


「ヴィオラ」


低い、声。


「俺の番に、なってくれるか」


五日前、神殿の祭壇の前で、彼が問いかけて、答えを保留にした、その問いだった。

彼は、宮殿に戻ってから、聞く、と言った。

そして、戻った夜、彼は、何も、聞かなかった。

聞かないまま、五日が、経った。


私は、彼が、聞かなかった理由を、知っていた。


私が、自分で、自分の中で、答えを決めるまで、彼は、急かさないつもりだった。

千年待って、五日くらい、誤差のうち、と、彼は、思っていたのだろう。


「はい」


私は、答えた。


短かった。

神事の天井に向かって告げた、あの時の言葉と、同じくらい、短い。


リオンの目が、ほんの少し、瞬いた。


「……はい、を、もう一度、もらってもいいか」


「はい」


「ありがとう」


リオンの声が、初めて、子どもみたいに、軽くなった。


私は、笑った。

今度は、笑い隠す笑いではなかった。

ただ、隣に立つ人が、私のはい、を、二度も欲しがってくれることが、嬉しくて、笑った。


リネアが、後ろで、本当に、泣いていた。

シェリルも、目元を、押さえている。

神官が、薄く、頭を下げて、それを、見ないふりをしていた。


仔狐が、私たちの足元で、満足げに、ふん、と、鼻を、鳴らした。


誓約が、終わった瞬間、シェリルが、進み出た。

進み出て、私の手を、両手で、軽く、包んだ。


「奥様」


そう呼んでから、声を、詰まらせた。

詰まらせたまま、私の手を、しばらく、両手で、包んでいた。


私は、何も、言わなかった。

言わなくて、よかった。

シェリルの指の温度が、私の指の温度より、わずかに、高かった。

それで、十分だった。



祝福石が、最後に、もう一度、銀色に、光った。

今度の銀は、神殿の時よりも、ずっと、柔らかかった。

誰かを、跪かせる銀ではなく、ただ、誰かの、新しい家を、照らす銀。


それが、この家の、最初の、灯りだった。




王都は、その日、まだ、噴水の水量が、半分も、戻っていなかった。


新国王──アルベルトの叔父が、即位して、ひと月。

収穫は、ゆっくりと、回復し始めていた。

ただし、回復している、と気づくには、時間が、もうしばらく、必要だった。


王都中央広場の、肉屋の女房が、今朝、桶を、引き上げて、首を、傾げた。


「あら、あれ」


水の量が、いつもより、ほんの少しだけ、戻っていた。


彼女は、隣の女房に、それを、言わなかった。

言わなくても、いい気がした。

言えば、また、誰かが、それを、誰かのせいに、するかもしれなかった。


ただ、桶を、ゆっくりと、肩に、担いだ。

朝の光は、いつも通り、白かった。



王国の北の、辺境の領地。


アルベルトは、領主代理の机に、座っていた。

彼の、新しい仕事だった。

継承権を剥奪された王太子に、王家が、与えた、最後の役職だった。


机の左の、いちばん下の引き出しに、十枚の刺繍ハンカチが、あった。

神殿から、彼の手に、戻された。


彼は、まだ、それを、使っていなかった。

使えば、減るからだった。

減るのを、彼は、もう、許容できなかった。


ただ、彼は、引き出しを、毎日、一度だけ、開けるようになっていた。

開けて、半月の刺繍を、見て、それから、閉じた。

それだけだった。

それしか、できなかった。



神殿付属の、女子修道院。


アリエラは、白い、簡素な祭服を、与えられていた。

扇は、もう、彼女には、許されていなかった。

朝、祈祷の鐘が鳴ると、立ち上がる。

夜、祈祷の鐘が鳴ると、また、立ち上がる。

それ以外の時間は、薬草園の、世話。


薬草園は、修道院の裏手にあった。

青いリンドウは、咲いていなかった。

彼女が触れると、苗が、ほんの少しだけ、弱った。

弱ったが、枯れはしなかった。


修道院長は、それを、咎めなかった。

ただ、毎朝、彼女を、薬草園の、隅の畝に、立たせた。

彼女に、何かを、植えさせたいのではなかった。

ただ、彼女が、自分で、葉が乾いていく速度を、見るためだった。



アルテミシア公爵領。


公爵は、執務机を、神官団の監査官に、半分、明け渡していた。

明け渡したあとの、自分の机には、書類が、ずっと、減っていた。

減った書類の代わりに、彼は、ある夜、白い紙を、一枚、出した。


ペンを取った。

取って、しばらく、何も、書けなかった。


書けないまま、夜明けが来た。

夜明けに、彼は、ようやく、ペンを、紙の上に、置いた。


『ヴィオラ』


娘の名を、紙の上に、置くだけのことに、彼は、半年、かかったのだった。




その手紙は、宮殿の正門に、銀色のリス型の精霊が、運んできた。

封蝋は、公爵家のものだったが、押した指の力が、いつもよりも、軽かった。


リオンが、それを、私の前に、差し出した。


「君が、読みたければ、読めばいい」


差し出し方が、丁寧だった。


「君が、読みたくなければ、俺が、燃やす」


私は、しばらく、その手紙を、見ていた。


封蝋を、押した指の、軽さを、想像した。

その指が、半年前、何を、書こうとして、書けなかったかも、想像した。


「……読みます」


私は、手紙を、受け取った。


中の文字は、思ったよりも、短かった。

書き出しの言葉と、結びの言葉だけ、だった。

真ん中に、何かを、書こうとして、何度も、書いては、消した跡があった。

消した跡が、紙の繊維まで、削れていた。


書き出しは「ヴィオラ」。

結びは「父より」。


それだけだった。


私は、紙を、たたんだ。

たたんで、卓の上に、戻した。


「リオン」

「ああ」

「これ、置いておいて、いいですか」

「ああ」

「捨てなくて、いいですか」

「君の好きにしていい」


私は、頷いた。


たたんだ手紙は、図書室の、書架と書架の間の、低い卓の上に、置いた。

壁画の、すぐそばだった。

壁画の中の、千年前の番が、私の母の血筋に魂を宿らせた、その繋がりの、そばに、父の短い手紙が、置かれた。


それで、十分だった。

読み返すか、どうかは、また、別の、いつかの夜に、決めればよかった。




日が、傾いた。


私は、リオンと、宮殿の薬草園を、歩いていた。


足元に、仔狐。

肩のあたりに、青い蝶。

頭の上で、リスの、何匹かが、駆け回っていた。


夕陽が、青いリンドウの花弁を、淡い金色に、染めていた。


私は、足を、止めた。

止めて、立ち止まったまま、自分の手の甲を、見た。


「リオン」

「ああ」

「私、千年の片想いの相手にしては、何も持たない女ですけれど」


声が、自分でも、思ったより、軽かった。

責めているのでも、卑下しているのでもない。

そう、確認してみたかっただけだった。


リオンは、私の隣で、立ち止まった。

立ち止まってから、ほんの少し、首を、傾げた。


「持っていない、と思っているのか」

「はい」

「俺は、君に、何かを、持ってきてくれと、頼んだ覚えはない」


「……」


「俺が、千年、待っていたのは、君の魂で、君の地位でも、君の能力でもない」


「……」


「君が君であること以上の、価値はない」


リオンは、それから、私の額に、自分の額を、軽く、寄せた。


額が、触れた。

夏の終わりの夕陽が、二人の頬に、同じ温度を、置いた。


「だから、ヴィオラ」


低い声で、彼は、続けた。


「君が望んだ時にだけ、俺は、人間界の風を、ここまで、運んでくる」


「……人間界の」

「父君の、あの短い手紙のような、ものを」


「……」


「だが、運ぶか、運ばないかは、君が、決めていい。俺は、君が、決めたとおりにする」


私は、頷いた。

頷いて、彼の額に、自分の額を、押し戻した。


「ありがとうございます」


それから、ほんの少し、ためらってから、続けた。


「……ありがとう、リオン」


仔狐が、私たちの足元で、ふん、と鼻を鳴らした。

鳴らして、青いリンドウの花の上に、軽く、頭を、乗せた。


蝶が、私のリボンの上で、ぱたぱたと、羽を、動かした。

リスが、リオンの肩から、私の肩に、軽く、跳んだ。


夕陽が、ゆっくり、薬草園の縁を、染めていった。

青いリンドウは、夕陽の中で、最後に、もう一度、薄く、揺れた。

揺れたが、散らなかった。


私は、もう、人間界には、戻らない。


それは、私が、何かを、捨てたから、ではなかった。

私の足の向きが、変わっただけ、なのかもしれない。


仔狐が、私の足元で、もう一度、ふん、と鳴いた。


「奥様」


「うん」


「ばんごはん、なに、たべる」


私は、屈んで、仔狐の頭を、撫でた。

撫でながら、リオンを、見上げた。


「青いリンドウのジャム、また、出してもらっても、いいですか」


リオンが、軽く、頷いた。

頷いて、私の手を、取った。

取って、宮殿の方へ、歩き出した。


歩く、二人の足音に、もふもふの足音が、何匹分も、混ざった。


夕陽の中の、銀の影は、長く、長く、伸びた。


伸びた影は、もう、人間界の方には、届いていなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
最初から最後までなんだかとてもふわふわした気分で読み進めて 気づいたら終わっていました。小説と言うより抒情詩的な感じに 思えて読み終わって一時間くらいぼうっとしてしまいました。 本当に一節の詩を読んで…
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