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「優しすぎる」と捨てられた僕の隣には、もう君の居場所なんてない  作者: ledled


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9/11

サイドストーリー 愚かな娘の帰還と、失われた光を嘆く家

築三十年になる我が家は、今、まるでお通夜のような重く冷たい空気に包まれている。

二階の奥にある娘の部屋からは、今日も昼夜を問わず、すすり泣く声や、何事かをぶツブツとつぶやく声が聞こえてくる。

私、高橋和夫は、リビングのテーブルで冷めたお茶をすすりながら、妻の由美子と深く重いため息を交わした。


「……美咲、今日も朝ごはん一口も食べなかったわ。お昼のサンドイッチも、ドアの前に置いたまま手をつけてない」


由美子の声は疲れ切り、彼女自身もすっかりやつれてしまっていた。かつては町内会の集まりや趣味のコーラス教室で明るく笑っていた妻の顔から、笑顔が消えて久しい。

私たちのたった一人の娘である美咲が、身も心もボロボロになってこの家に逃げ帰ってきてから、すでに数ヶ月が経過していた。


思い返せば、たった一年半前まで、この家は希望と喜びに満ち溢れていた。

美咲が「結婚を前提にお付き合いしている人がいるの」と言って、佐藤健太君を連れてきた日のことは、今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。

健太君は、親の目から見ても非の打ち所がないほど、誠実で心優しい青年だった。

スーツをパリッと着こなし、手土産に妻の好きな和菓子屋の詰め合わせを持参してくれた。挨拶も丁寧で、言葉の端々から美咲を心から大切に思っていることが伝わってきた。私の趣味である釣りや庭いじりの話にも嫌な顔一つせず付き合ってくれ、妻の作った手料理を「本当においしいです、美咲の料理上手はお母様譲りなんですね」と満面の笑みで残さず食べてくれた。


「僕が一生かけて、美咲さんを幸せにします」


真っ直ぐな目でそう宣言してくれた彼の横で、美咲は少し照れくさそうに、しかし誇らしげに笑っていた。

波風を立てず、穏やかに人を包み込むような彼の優しさに、私たち夫婦は「この青年なら、我が儘で少し見栄っ張りな美咲を一生守ってくれるだろう」と心底安堵したものだった。

来年の春には結婚式を挙げる。親戚にも報告を済ませ、都内の立派なホテルで結納も交わした。私たちは、娘が純白のウェディングドレスを着る日を何よりも楽しみにしていた。


しかし、その幸せな未来は、他でもない美咲自身の手によって無惨に粉々に打ち砕かれた。


結婚式まであと半年と迫ったある日。突然、美咲から電話があった時の衝撃は、私の人生で最悪のものだった。


「お父さん、ごめん。健太とは婚約破棄することにしたから。式場もキャンセルしといて」


あまりにも唐突で、感情のこもっていない事務的な報告。私は激しく動揺し、理由を問いただした。健太君が何か粗相をしたのか、浮気でもしたのかと。だが、美咲の口から出たのは、私の耳を疑うような身勝手な言葉だった。


「違うの、健太は悪くないんだけど。でも、あいつ優しすぎて退屈なのよ。なんでも私の言う通りにするだけで、全然男らしくないっていうか、一緒にいて息が詰まるの。……私、もっと私を女としてドキドキさせてくれる人と出会っちゃったから」


私は怒りで全身の血が沸騰するのを感じた。自分の娘が、これほどまでに思慮が浅く、自己中心的な人間だったとは。


「お前、自分が何を言っているのかわかっているのか! 結納まで済ませて、健太君やあちらのご両親にどれだけ顔に泥を塗るつもりだ!」


私が怒鳴りつけても、美咲は悪びれる様子もなく鼻で笑った。


「だから、慰謝料くらいは私が払うってば。私の人生なんだから、私の好きにさせてよ。健太みたいな予定調和な男と一生添い遂げるなんて、絶対に無理。じゃあね」


一方的に電話を切られ、私は目の前が真っ暗になった。

翌日、私と妻は慌てて上京し、健太君に直接会って謝罪した。待ち合わせの喫茶店に現れた健太君は、わずか数日で別人のように頬がこけ、ひどく傷ついているのが痛いほどわかった。

それでも彼は、私たちに向かって怒鳴るようなことは一切しなかった。


「僕の力不足でした。美咲さんを、心から笑顔にすることができなかった僕の責任です。……申し訳ありませんでした」


深く頭を下げる彼の姿を見て、私は涙が止まらなかった。どこまでも優しく、相手を思いやる彼の誠実さが、親としては何よりも申し訳なく、情けなかった。美咲は、この素晴らしい青年の親友である男と浮気をし、彼を嘲笑いながら捨てたのだ。こんな恩知らずな真似をして、美咲が幸せになれるはずがないと、私は直感的に悟っていた。


その後、美咲が実家に自分の荷物を取りに帰ってきた日の修羅場は、今でもご近所の噂の種になっている。

美咲は、健太君から奪い取ったという新しい恋人――翔太という男の運転する外車で、実家に乗り付けてきた。

私と妻は美咲を厳しく叱責した。「今すぐ健太君に土下座して謝れ」「親友の婚約者を奪うような薄っぺらい男と一緒になって、後悔しないはずがない」と。

だが、当時の美咲は完全に舞い上がっていた。写真共有SNSの「アウスタ」とかいうものの画面を見せられ、そこに写る派手なレストランやブランド品の写真を指差して、美咲は私たちを小馬鹿にして笑った。


「お父さんたちにはわからないわよ。翔太くんは健太なんかよりずっと刺激的で、私を特別扱いしてくれるの。この車だって、翔太くんが私のために買ってくれたようなものだし。私はこれから、お父さんたちみたいな退屈で貧乏くさい人生とは無縁の、キラキラした人生を送るんだから、もう干渉しないで!」


そう吐き捨てて、美咲は私たちの制止を振り切り、薄ら笑いを浮かべる翔太の車に乗り込んで去っていった。

残された私たち夫婦は、ただ絶望に暮れるしかなかった。

式場の多額のキャンセル料は、美咲が払うと言っていたにもかかわらず一切連絡を寄こさなかったため、親である私が老後の蓄えを崩して全額支払った。親戚への謝罪行脚も地獄のような日々だった。健太君のご両親にも、頭を床にこすりつけるようにして謝った。すべては、愚かな娘が犯した大罪の尻拭いだった。

この町で「高橋さんの家の娘さんは、婚約者を裏切って他の男と駆け落ちした」という冷ややかな視線を浴びながら、私たち夫婦はひっそりと息を潜めて生きていくしかなかった。


それから半年ほど経った、ある冷たい雨の降る夜中。

我が家の玄関のドアを狂ったように叩く音が響いた。

恐る恐る開けてみると、そこには雨に濡れそぼり、ヨレヨレの衣服を身にまとった美咲が立っていた。


「お父さん……お母さん……っ」


かつて私たちを小馬鹿にして家を飛び出していった時の高慢な面影は微塵もない。頬はこけ、髪は乱れ、目には生気がなかった。足元には、安物のボストンバッグが一つ転がっているだけだった。

家の中に入れ、震える娘から話を聞けば、美咲はあの翔太という男に完全に捨てられたのだという。

最初は優しかった男も、美咲を手に入れた途端に態度を豹変させたらしい。生活費も入れず、家事の一切を美咲に押し付け、自分は夜な夜な飲み歩く。美咲が少しでも文句を言えば「お前が勝手に俺のところに来たんだろうが」とモラハラめいた暴言を吐かれ、最後には別の若い女を作って、美咲をアパートから無一文で叩き出したそうだ。


「翔太くんに騙されたの……私、ただ利用されただけだった……! 助けて、お母さん……っ」


泣き喚く美咲を見て、私は同情するどころか、冷たい怒りしか湧いてこなかった。


「騙されたんじゃない。お前が自ら、一番大切なものを捨てて泥沼に飛び込んだんだろうが!」


私の怒鳴り声に、美咲はビクッと肩を震わせ、畳の上に泣き崩れた。

仕事もミスを連発してクビになり、見栄を張って更新していたアウスタのアカウントも、翔太に捨てられた惨めな現実を隠すために自ら消去したらしい。かつての友人たちにも見放され、行く当てがなくなった末に、あんなに憎まれ口を叩いていた実家に逃げ帰ってきたのだ。あまりにも惨めで、情けない、自業自得の結末だった。


それからというもの、美咲は二階の自分の部屋に引きこもるようになった。

毎日毎日、スマホを握りしめては健太君の連絡先を探し、メッセージアプリの「MINE」で何百通ものメッセージを送ろうとしているらしい。


「健太なら許してくれる……私が泣いて謝れば、健太はまた私に優しくしてくれるはずなの……健太……会いたいよ……」


うわ言のようにそう繰り返す娘を見て、妻は涙を流した。

だが、健太君がそんなものを見るはずがない。彼はすでに美咲の連絡先をすべてブロックしているだろうし、あんな酷い裏切りをした女を、なぜ許す必要があるのか。

美咲は、自分が健太君の「優しさ」を退屈だと切り捨てたくせに、自分がどん底に落ちた途端に、その「優しさ」という安全な毛布にくるまりたがっているのだ。そのあまりにも身勝手で幼稚な思考回路に、親である私自身が吐き気を感じるほどだった。


そして今日。私たち夫婦は、現実から目を背け続ける美咲に、決定的な引導を渡さなければならなかった。

私は重い足取りで階段を上り、美咲の部屋のドアを開けた。

部屋の中はカーテンが閉め切られ、薄暗い。美咲はベッドの上に体育座りをして、焦点の定まらない目でスマホの真っ暗な画面を見つめていた。


「……美咲」


私が声をかけると、美咲はのろのろと顔を上げた。


「お父さん……健太から、連絡きた? 私のMINE、既読にならないの。……私がここにいるって、お父さんから健太に伝えてくれた? 迎えに来てくれるよね?」


その狂気に満ちた言葉に、私はギリッと奥歯を噛み締めた。


「お前はまだそんな寝言を言っているのか。いい加減に現実を見なさい」


私は手に持っていた一枚の葉書を、美咲の目の前に突きつけた。

それは、昨日我が家のポストに届いていたものだった。


「健太君からだ。……来月、結婚するそうだ。相手は職場の同僚の女性だ」


その瞬間、美咲の時間が完全に停止したように見えた。

彼女の目が限界まで見開かれ、ひび割れた唇がわななき始める。


「……え……? 嘘……嘘よ……!」


美咲は私から葉書をひったくり、そこに書かれた文字を食い入るように見つめた。


『新しい命と共に、二人で温かい家庭を築いていきます。未熟な二人ですが、今後ともよろしくお願い申し上げます』


丁寧な直筆のメッセージと、都内の高級ホテルのラウンジで撮影されたと思われる、健太君の堂々とした笑顔。そしてその隣には、美咲なんかよりもずっと知性的で、優しそうな美しい女性が、健太君の腕にそっと手を添えて寄り添っていた。

その写真の健太君は、美咲の顔色を常に窺っていた頃の自信なげな男ではなく、愛する人を守り抜く覚悟を決めた、本物の男の顔をしていた。


「健太君は、過去の傷を乗り越えて、自分の優しさを本当に理解してくれる素晴らしい女性と出会ったんだ。お前が踏みにじり、ゴミ箱に捨てた彼の優しさは、彼を真の強さへと導き、そして最高の幸せを掴み取らせたんだよ」


私の言葉が、美咲の心に最後の一撃を与えた。


「ああ……あああぁぁぁっ!!」


美咲は葉書を握りしめたまま、獣のような悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。


「嫌だ! 嫌だ嫌だ! 健太は私のものなのに! 私の言うことなら何でも聞いてくれたのに! なんで、なんで他の女と笑ってるのよぉぉっ!!」


床を転げ回り、髪を振り乱して号泣する美咲。

自分がどれほど取り返しのつかない大罪を犯し、どれほど巨大な幸福を自らの手で粉々に破壊してしまったのか。彼女はようやく、その現実の重みに完全に押し潰されたのだ。健太君の中に、自分の居場所など一ミリも残っていないという冷酷な事実が、彼女の精神を完全に破壊した。


私は泣き叫ぶ娘を抱き起こすこともしなかった。

ただ、冷ややかに、そして深い悲哀を込めて見下ろすだけだった。


「お前が選んだ道だ、美咲。健太君の優しさを『退屈』だと見下し、あんなクズみたいな男の『刺激』に溺れた代償だ。お前はもう一生、健太君の光に触れることはできない。お前のその薄汚い後悔に、彼を巻き込むな」


妻の由美子も部屋の入り口に立ち、ただ無言で涙を拭っていた。

美咲の絶叫は、いつまでもいつまでも、薄暗い部屋の中に虚しく響き渡っていた。

近所の手前もあり、私たちは急いで窓をしっかりと閉め切らなければならなかった。この狭い田舎町で、「婚約者を裏切って駆け落ちし、捨てられて発狂した哀れな女」というレッテルは、私たち家族に一生付きまとうだろう。親戚の冠婚葬祭にも、もう二度と顔を出すことはできない。


それからというもの、美咲はすっかり抜け殻のようになってしまった。

あれほど身だしなみに気を使い、アウスタで他人からの「いいね」を欲しがっていた娘は、今や鏡を見ることすら恐れ、風呂にもろくに入らず、ただ暗い部屋でうずくまるだけの存在に成り果てた。

時折、「健太、ごめんなさい……私の好きにしていいって言って……私を助けて……」と虚空に向かって呟く姿は、不気味でさえある。


私たちは、この壊れてしまった娘を、一生抱えて生きていかなければならない。

それが、娘の身勝手な振る舞いを止められず、正しい愛情の形を教えられなかった親としての、逃れられない罰なのだ。


一階のリビングに戻り、私は再び冷めたお茶を口に運んだ。

窓の外は、美しい夕焼け空が広がっている。

健太君と新しい奥さんは、きっと今頃、この夕焼けよりももっと温かく、眩しい光の中で微笑み合っていることだろう。彼には、どうか誰よりも幸せになってほしい。彼が受けた理不尽な痛みの分まで、最高の人生を送ってほしい。それだけが、私たち夫婦の唯一の救いであり、彼に対するせめてもの贖罪だった。


二階から聞こえてくる娘の微かな嗚咽を聞きながら、私は深く目を閉じた。

失われた未来は二度と戻らない。

他人の誠意を嘲笑い、己の欲望のままに生きた愚かな娘の末路は、この暗く冷たい四畳半の部屋の中で、一生涯、嫉妬と後悔の涙を流し続けることだけだった。

それこそが、彼女に与えられた、あまりにも残酷で、そして完璧な「因果応報」であった。

静まり返った家の中に、時計の秒針の音だけが、無情に時を刻み続けていた。

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