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「優しすぎる」と捨てられた僕の隣には、もう君の居場所なんてない  作者: ledled


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8/11

サイドストーリー 奪ったはずの光と、泥にまみれたピエロの末路

壁の薄い六畳半の木造アパート。

隣の部屋から聞こえてくる外国語の怒鳴り声と、窓のすぐ外を走るトラックの振動が、苛立ちを限界まで増幅させる。

俺、翔太は、床に直置きされた万年床の上で、中身の半分減った安物の焼酎のペットボトルを煽った。アルコールの焼けるような匂いが喉の奥を通り抜け、空きっ腹に鋭い刺激を与える。


「……クソが。なんで俺が、こんな目に……」


濁った声が、カビ臭い部屋の空気に溶けて消えた。


かつての俺は、こんな底辺を這いつくばるような生活を送る人間ではなかった。

東京のど真ん中にある中堅広告代理店で働き、身につけるものはすべてブランド品。休日はお洒落なバーやクラブで女たちと飲み明かし、写真共有SNSの「アウスタ」には、華やかで羨望の的となるような日常ばかりを投稿していた。

俺は要領が良く、口も回る。欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れてきたし、他人の気持ちを踏みにじることになんの抵抗もなかった。この世は弱肉強食であり、俺のような優れた人間が、健太のような「ただ優しいだけの鈍臭い奴」から搾取するのは当然の権利だと思っていた。


健太は大学時代からの腐れ縁だった。

あいつは昔から、本当にどうしようもないくらいのお人好しだった。誰に対してもニコニコと愛想を振りまき、面倒な役回りを押し付けられても嫌な顔一つしない。自己主張がなく、常に他人の顔色を窺って波風を立てないように生きている。

俺はそんな健太のことが、心の底から見下す対象であり、同時に……なぜか無性に腹立たしかった。

健太の周りには、いつも人が集まっていた。俺のように金やステータスで惹きつけられた人間ではなく、健太のその「退屈な優しさ」に安心感を覚えて寄り付く連中だった。

俺にはそれが理解できなかった。あんな薄っぺらい優しさのどこに価値があるというのか。俺の方が顔も良く、話も面白く、頭の回転だって早い。なのに、なぜ健太のようなつまらない男が、幸せそうに笑っているのか。


その苛立ちが頂点に達したのは、健太が婚約者として美咲を俺たちに紹介してきた時だった。

美咲は確かに目を引くような華やかな女だったが、俺から見ればただの承認欲求の塊だった。健太に甘やかされ、自分が一番お姫様のように扱われないと気が済まない女。

俺は直感的に、この女なら簡単に落とせると思った。そして、健太が命懸けで大切にしているものを俺が奪い取ってやれば、あいつはどんな惨めな顔をするだろうか。その想像だけで、ゾクゾクするような優越感が背筋を駆け抜けた。


計画はあまりにも簡単に進んだ。

健太が仕事で忙しくしている隙を突き、メッセージアプリの「MINE」で美咲に連絡を取った。

『健太みたいな真面目すぎる奴と一緒にいて、息が詰まらない?』

その一言だけで、美咲は堰を切ったように健太への不満を漏らし始めた。健太の優しさが重い、予定調和で退屈だ。俺はそれに適当に同調し、彼女の欲しい「刺激」を与えてやっただけだ。

強引にホテルに連れ込んだ夜、美咲は「翔太くんと一緒にいると生きているって感じがする」と泣いて喜んだ。俺の腕の中で快楽に溺れる親友の婚約者を見下ろしながら、俺は最高の勝利を噛み締めていた。

健太が駅前で俺たちの浮気現場を目撃したと聞いた時も、罪悪感など微塵もなかった。むしろ、あの時の健太の絶望した顔を直接見られなかったことが残念でならなかったほどだ。


健太を捨て、俺のアパートに転がり込んできた美咲。

最初は俺も、健太から奪った「戦利品」として彼女をそれなりに扱っていた。アウスタに彼女との匂わせ写真を投稿し、健太や周囲の連中に見せつけて優越感に浸った。

だが、そんなものはすぐに飽きた。


美咲は俺に依存し、常に自分を特別扱いすることを求めてきた。健太がどれだけ彼女の我儘を無条件で受け入れていたかがよく分かった。俺は健太のような暇人ではない。自分のことしか考えない女の機嫌取りなど、反吐が出るほど面倒だった。

俺は美咲を家政婦のように扱い、生活費も出さず、夜な夜な別の女と遊び歩くようになった。美咲が泣いて縋ってきても、「お前が勝手に健太を裏切って来たんだろうが」と鼻で笑って突き放した。

結局、美咲はただの退屈しのぎのおもちゃでしかなかった。最後は適当な理由をつけてアパートから追い出し、俺は再び自由な独身生活を満喫し始めた。


邪魔な女を追い出し、俺の人生はこれからさらに上昇していくはずだった。

だが、暗転は突然、そして致命的な形でやってきた。


美咲を追い出した直後、俺は取引先の重役の娘である沙織という女と関係を持った。

沙織は世間知らずで、俺の甘い言葉に簡単に騙された。ただの遊びのつもりだったが、数ヶ月後、彼女は顔面蒼白で「妊娠した」と俺の前に現れた。

俺は舌打ちをし、財布から数十万の現金と適当なクリニックの連絡先を書き殴ったメモを押し付けた。


「俺、結婚とかする気ないから。これで適当に処理しといて。じゃあな」


いつも通り、金と口先だけで切り抜けられると思っていた。女なんてみんな、最後は泣き寝入りする生き物だと高を括っていたのだ。

だが、沙織は違った。彼女は泣き寝入りするどころか、父親である取引先の重役にすべてをぶちまけたのだ。


数日後、俺は会社の社長室に呼び出された。

部屋に入ると、社長と専務、そして顔を真っ赤にして激怒している沙織の父親が座っていた。


「お前……! うちの娘になんてことをしてくれたんだ!!」


胸ぐらを掴まれ、怒鳴りつけられた瞬間、俺はようやく事の重大さに気づいた。

俺の勤めていた会社にとって、沙織の父親の会社は最大のクライアントだった。その関係を、俺の身勝手な下半身の事情で完全に破壊してしまったのだ。


「翔太。お前のような人間を、我が社に置いておくわけにはいかない」


社長からの冷酷な宣告。

俺は必死に頭を下げ、弁明しようとしたが、誰も耳を貸さなかった。

結果は懲戒解雇。さらに、沙織側からは莫大な慰謝料と示談金を請求された。裁判になれば俺の敗訴は確実であり、俺はなけなしの貯金をすべて吐き出し、借金まで背負ってその金を支払う羽目になった。


会社をクビになった俺は、すぐに別の広告代理店への転職を試みた。

俺の営業スキルと人脈があれば、すぐに次の働き口など見つかると思っていた。

だが、現実は甘くなかった。業界のネットワークは狭く、俺が重役の娘に手を出してトラブルを起こしたという噂は、またたく間に広まっていた。

面接に行っても、経歴を見た途端に面接官の態度が冷たくなり、「うちではちょっと……」と門前払いされる日々。

気がつけば、俺は華やかな業界から完全に追放されていた。


頼れる人間はいなかった。

大学時代の友人たちで作っていたMINEのグループチャットは、俺が美咲を奪ったことを自慢したあの日、俺の方から抜けていた。

それでも背に腹は代えられず、俺はかつての友人である亮に個別のMINEで連絡を取った。「少しでいいから金を貸してほしい」「どこか仕事を紹介してくれないか」と。

だが、数時間後に返ってきたのは、たった一言の冷たいメッセージだった。


『お前が今そんな底辺を這いつくばっているのは、お前自身の薄汚いエゴと、他人の痛みを想像できないその腐った性根のせいだ。二度と連絡してくるな』


その直後、亮のアカウントは「ブロックされました」という表示に変わった。

他の友人たちにも次々と連絡してみたが、全員から既読スルーか、ブロックされるだけだった。

俺は完全に孤立した。

自分が他人にやってきたことが、すべて巨大なブーメランとなって自分の首を刎ね飛ばしに来たのだと、この時になってようやく理解した。


それからの転落は早かった。

家賃の高いマンションを引き払い、敷金礼金ゼロのボロアパートに引っ越した。借金の返済に追われ、スーツを売り払い、時計を売り払い、最後はプライドすら売り払って、日雇いの土木作業や清掃のアルバイトで食いつなぐようになった。

だが、これまで他人の上に立って偉そうに指示を出すことしかしてこなかった俺にとって、肉体労働は地獄だった。年下の現場監督に怒鳴られるたびに苛立ちが爆発し、喧嘩を起こしてはクビになることの繰り返し。

気づけば、俺はコンビニの安い弁当すら満足に買えないほどの極貧生活に陥っていた。


「……クソッ、クソッ……!」


万年床の上で、俺は空になった焼酎のペットボトルを壁に叩きつけた。

どうして俺がこんな目に遭わなければならない。俺は賢く生きてきただけじゃないか。ちょっと羽目を外しただけで、どうしてすべてを奪われなければならないんだ。

理不尽な世界への恨み言をブツブツと呟きながら、俺は充電の切れかかったスマホの画面をタップした。


ふと、アウスタのアイコンが目に入った。

もう自分のキラキラした日常を投稿することなどできなくなったが、他人の不幸を探して見下すことだけが、今の俺の唯一の慰めだった。

俺は検索窓に、無意識のうちに『佐藤健太』と打ち込んでいた。


俺に婚約者を奪われ、どん底に落ちた惨めな男。

きっと俺以上に悲惨な生活を送っているに違いない。精神を病んで、部屋に引きこもって泣いているだろう。あいつの惨めな姿を見れば、今の自分の状況も少しはマシに思えるはずだ。


だが、検索結果に表示された健太のアカウントを見て、俺は息を呑んだ。

そこにあったのは、絶望に沈む男の姿などではなかった。


最新の投稿には、都内の高級ホテルのラウンジで、タキシードを着て微笑む健太の姿があった。

キャプションにはこう書かれている。


『業界最大の広告デザイン賞を受賞しました。このプロジェクトを成功に導いてくれた最高のチーム、そして、ずっと俺を支え続けてくれた最愛の婚約者、彩香に心から感謝します』


写真の二枚目にスワイプすると、健太の隣には、息を呑むほど美しい女性が立っていた。

美咲のような、隙あらば自分を良く見せようとする下品な承認欲求の塊ではない。洗練された知性と、内側から滲み出るような気品を備えた、本物の「いい女」だった。

その女性は、健太の腕にそっと手を添え、心の底からの愛情と尊敬の眼差しを彼に向けている。健太の顔も、かつての「自信なさげでヘラヘラした顔」ではなく、自分の意志で運命を切り開いてきた男の、堂々とした精悍な表情に変わっていた。


「……嘘だろ」


スマホを持つ手が、カタカタと震え出した。

俺がすべてを奪って、どん底に突き落としてやったはずの健太が、業界のトップに立ち、最高の女を手に入れて、眩しいほどの光の中にいる。


『俺の優しさを全肯定し、一緒に歩んでくれる彼女に出会えたからこそ、今の俺があります』

『来月、最高の結婚式にします』


コメント欄には、友人や同僚からの祝福の言葉が何百件も並んでいた。そこには、俺を突き放した亮のアカウントからの「本当におめでとう!」というコメントもあった。


俺の視界が、グニャリと歪んだ。

胃の奥から、ドロドロとした黒いヘドロのような感情がせり上がってくる。

俺は健太から、一番大切なものを奪った気になっていた。

だが、俺が奪ったのは、健太にとって「重荷」でしかなかった、美咲という名のただのゴミだったのだ。

俺がそのゴミを引き取り、勝手に自爆して泥沼に沈んでいく一方で、健太はその足枷から解放され、持ち前の誠実さと優しさを本当に理解してくれる「本物の宝石」を手に入れたのだ。


俺は、健太を陥れたつもりが、結果的に健太を最高の幸せへと導くための、ただの滑稽なピエロだった。


「ああああぁぁぁぁッ!!!」


俺は獣のような咆哮を上げ、スマホを床に叩きつけた。

バキッという鈍い音と共に、画面が蜘蛛の巣状にひび割れ、真っ暗になった。

だが、その暗闇の奥には、健太とあの美しい婚約者の笑顔が、いつまでも焼き付いて離れなかった。


「違う……俺の方が上なんだ……俺の方が……!」


誰もいない薄暗い部屋で、俺は頭を抱えてうずくまった。

俺がバカにしていた健太の「優しさ」。それは、決して退屈なものでも、逃げでもなかった。相手を思いやり、誠実に向き合い、困難があっても絶対に逃げないという、男としての「本当の強さ」だったのだ。

その強さの価値に気づけず、目先の刺激や優越感だけで他人を傷つけてきた俺には、もう何も残されていない。

信頼も、金も、地位も、未来も。


窓の外を走る車のヘッドライトが、一瞬だけ部屋の壁を照らし、すぐにまた深い闇へと沈んでいった。

自分自身が作り出した底なしの泥沼の中で、俺は一生、健太の眩しい光を嫉妬と後悔で見上げながら、泥水にまみれて這いつくばって生きていくしかない。

それは、他人の人生をゲーム感覚で破壊した男に与えられた、あまりにも残酷で、そして当然すぎる結末だった。

割れたスマホの破片で指先を切り、滲み出した赤い血を見つめながら、俺は声の出ない乾いた嗚咽を、ただ一人で漏らし続けた。

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