サイドストーリー 暗闇の底で渇望する、二度と触れられない温もり
薄暗く、埃っぽい匂いが充満する四畳半の部屋。
ここは、私が高校を卒業するまで使っていた実家の自室だ。窓のカーテンは固く閉ざされ、昼間でも太陽の光は一切差し込んでこない。床には脱ぎ捨てられたジャージや、コンビニの弁当の空き箱、空のペットボトルが散乱し、足の踏み場もない。
私、美咲は、そのゴミ溜めのような部屋の片隅で、膝を抱えてうずくまっていた。
スマホの真っ黒な画面に映り込んだ自分の顔を見て、私はヒッと短く息を呑み、慌てて画面を裏返した。
そこには、かつて写真共有SNS「アウスタ」で何百人ものフォロワーから「可愛い」「羨ましい」と持て囃されていた女の面影は微塵もなかった。
髪は脂でベタつき、毛先は枝毛だらけ。頬は病的にこけ、目の下には消えることのない真っ黒な隈が張り付いている。唇は乾燥してひび割れ、肌は荒れ果てていた。
まるで、生気を吸い取られた亡霊のような姿。それが、今の私だった。
翔太に完全に捨てられ、東京のマンションを追い出されてから、どれだけの月日が流れたのだろう。もう、季節の感覚すら曖昧になっていた。
あの夜、翔太に「お前みたいに、自分の我儘で婚約者裏切るような女、本気で愛する男なんていねえよ」と冷酷に吐き捨てられ、私は無一文で夜の街に放り出された。
最初は、誰かが助けてくれると思っていた。私にはアウスタで繋がっている友人がたくさんいる。ちょっと連絡すれば、誰かが「美咲、可哀想に。うちに泊まりなよ」と優しく手を差し伸べてくれるはずだと、本気で信じていた。
だが、現実はあまりにも残酷だった。
メッセージアプリ「MINE」で、仲の良かったはずの友人たちに次々と連絡を入れた。
『翔太に酷いことされて、家を追い出されちゃったの。今夜だけ泊めてくれない?』
だが、返ってくる言葉は、私を絶望の淵に突き落とすものばかりだった。
『ごめん、無理。ていうか、健太くんのこと裏切って翔太のところに転がり込んだの、美咲でしょ? 自業自得じゃない?』
『あんなに優しかった健太くんをあんな形で捨てておいて、今さら被害者ぶるのは引くわ。二度と連絡してこないで』
一人、また一人と、私のMINEをブロックしていく。彼らは、アウスタの華やかな写真に「いいね」を押してくれていただけの、薄っぺらい関係でしかなかったのだ。私が「親友の婚約者を寝取った性悪女」というレッテルを貼られた途端、蜘蛛の子を散らすように去っていった。
仕事も、当然のように失った。
翔太との生活で心身ともに疲弊しきっていた私は、デザイン事務所でのミスを連発。納期は守れず、クライアントからはクレームの嵐。最終的に、呆れ果てた社長から「もう明日から来なくていい」とクビを宣告された。
家も、友達も、仕事も、お金も。
私が翔太という「刺激」を選ぶために、健太という「退屈」を捨てた結果、残ったものは何一つなかった。
行き場を失った私は、なけなしの小銭を握りしめ、数日ぶりに風呂にも入らずボロボロの格好で、街を彷徨い歩いていた。
その時だった。夕暮れ時の駅前の交差点で、彼を見つけたのは。
健太だった。
私がすべてを懸けて愛し、そして私自身の手で残酷に踏みにじった、かつての婚約者。
彼は、隣を歩く小柄で可愛らしい女性と、手を取り合って笑っていた。
その笑顔は、私と付き合っていた頃の、常に私の顔色を窺い、波風を立てまいとする弱々しい笑顔ではなかった。自信に満ち溢れ、隣の女性を心から慈しみ、愛している男の、強く、そして限りなく優しい笑顔だった。
私は、気がつけば無我夢中で彼にすがりついていた。
「健太……会いたかった……! 私、間違ってた。翔太に騙されてたの……お願い、もう一度やり直して!」
なりふり構わず、周囲の目も気にせずに涙を流して懇願した。健太なら、あの優しすぎる健太なら、ボロボロになった私を見れば絶対に許してくれる。また「美咲の好きにしていいよ」と優しく抱きしめて、私をこの地獄から救い出してくれる。そう本気で信じていた。
だが、健太の口から紡がれたのは、氷のように冷たい、完全に私を拒絶する言葉だった。
『俺の優しさは、もう君に向けられることはない』
『俺がこれから先、一生を懸けて優しさを注ぎ、守り抜くのは、彼女だけだ』
『君も、過去にすがるのはもうやめるんだ。俺の隣には、もう君の居場所なんてない。……さようなら、美咲』
健太の隣に立つ女性は、私を哀れむような、それでいて絶対的な優越感に満ちた静かな微笑みを浮かべていた。彼女は、私がゴミ箱に捨てた健太の「優しさ」の本当の価値を理解し、それを拾い上げ、彼に本当の愛を与えたのだ。
健太と彼女が手を繋いで歩き去っていく後ろ姿を見送りながら、私はその場にへたり込み、ただ泣き喚くことしかできなかった。
私があの時、「退屈だ」「息が詰まる」と吐き捨てたものは、実は私をどんな冷たい風からも守ってくれる、世界で一番温かく、絶対的な居場所だったのだ。
失って初めて、私は自分がどれほど愚かで、どれほど巨大な幸福を自らの手で粉々に破壊してしまったのかを、骨の髄まで理解した。
その後、どうやって実家までたどり着いたのか、よく覚えていない。
深夜に実家のドアを叩き、両親に泣きついた私を待っていたのは、温かい慰めではなく、冷たい軽蔑と怒りだった。
「お前が自ら、一番大切なものを捨てて泥沼に飛び込んだんだろうが!」
父親の激怒する声が、今でも耳にこびりついている。
私が健太を裏切って式場をキャンセルしたせいで、両親は多額のキャンセル料を払い、親戚中に頭を下げて回るという生き地獄を味わっていたのだ。
田舎町での世間体は最悪で、両親は私を腫れ物のように扱い、近所の目を気にして私を外に出そうとはしなかった。私も、自分の惨めな姿を誰かに見られるのが恐ろしくて、この薄暗い部屋に引きこもるようになった。
毎日、スマホを握りしめ、健太との過去のMINEのトーク履歴を遡っては、涙を流す日々が続いた。
『今日は何食べたい? 美咲の好きなもの作って待ってるよ』
『仕事お疲れ様。無理しないでね。いつも頑張ってて偉いよ』
画面に並ぶ、健太からの優しさに溢れた言葉の数々。あの頃の私は、この言葉を「重い」「母親みたいでウザい」としか思っていなかった。なんて傲慢で、馬鹿だったのだろう。
私は何度も何度も、健太に『ごめんなさい、私を助けて』とメッセージを送ったが、一度として『既読』がつくことはなかった。
そして、私の精神を完全に、そして永遠に破壊する決定的な出来事が起きた。
ある日、父親が冷酷な目で、一枚の葉書を私の目の前に突きつけたのだ。
それは、健太からの結婚と、新しい命を授かったという報告の葉書だった。
写真の中で、健太はタキシードを着て、純白のドレスを着たあの女性の肩を抱き、最高に幸せそうな笑顔を浮かべていた。女性のお腹の辺りに、二人の手が優しく重ねられている。
『新しい命と共に、二人で温かい家庭を築いていきます』
その文字を見た瞬間、私の頭の中で何かが決定的に壊れる音がした。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ!! 健太は私のものなのに!! 私がそのドレスを着るはずだったのに!! なんで、なんでよぉぉぉっ!!」
私は発狂し、葉書を破り捨てようとしたが、父親に力強く突き飛ばされた。
「お前が選んだ道だ。お前の薄汚い後悔に、彼を巻き込むな」
父親の冷たい声とともに、部屋のドアがバタンと閉められた。
それ以来、私はまともな思考を保てなくなった。
部屋の中で一人、ぶツブツと独り言を繰り返す。
「健太……今日のご飯、ハンバーグがいいな。ねえ、健太……聞いてる?」
誰もいない空間に向かって虚しく語りかける。
ふと、部屋の隅に健太が立っているような幻覚が見えることがある。
『美咲の好きにしていいよ』
あの優しく、穏やかな声で微笑みかけてくれる幻覚。
私は這いつくばるようにしてその幻覚に手を伸ばすが、指先が触れる直前で、健太の姿はいつも空気のように消え去ってしまう。
そして残るのは、埃っぽい部屋の現実と、どうしようもない孤独だけ。
「あ……あああ……健太……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
汚れた床に顔を押し当て、私は喉が裂けるほど泣き叫ぶ。
涙が枯れ果てても、胸の奥をえぐるような激しい後悔と嫉妬の炎は、決して消えることはない。
健太とあの女は、今頃温かい部屋で、これから生まれてくる子供の服でも選びながら、幸せに笑い合っているのだろう。私という存在など、彼らの人生のほんの些細な汚点として、すでに完全に忘れ去られているに違いない。
アウスタで「いいね」を欲しがり、自分を特別扱いしてくれる薄っぺらい「刺激」に溺れ、本当の愛情を「退屈だ」と嘲笑った代償。
私はこの先、何十年もこの薄暗い部屋で、健太の幻影にすがりつきながら、決して手に入らない光を渇望して狂い続けていくのだ。
誰からも愛されず、誰からも必要とされず、ただ呼吸をしているだけの肉の塊として。
「健太……私、いい子にするから……だから、私を置いていかないで……」
掠れた声は壁に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。
外の世界では、今日も楽しげな人々の笑い声が聞こえている。だが、私の世界は完全に閉ざされ、永遠に明けることのない深い暗闇の底へと沈み切っていた。
これが、他人の誠実な愛を踏みにじった私に与えられた、当然の結末。
私はただ一人、床にこぼれた自分の涙の冷たさを感じながら、再び健太の幻影を探して虚空に手を伸ばし続けた。




